こちら異世界転生部現実課
気が付くと、二十八歳の会社員だった男・菊地純は真っ白な、何もない空間に大の字になって寝っ転がっていた。上は天井なんてものはなく、右を見ても左を見ても真っ白。唯一、ついている背中にはかろうじて真っ白い地面だろうか、床だろうか。そういうものがあると分かるだけ。
「あ? なんだこれ」
ついさっきまで自分は何をしていたんだっけと未だ少し鈍い頭で考えながら、純はゆっくりと起き上がった。影は、ある。光源はどこからだか全く分からないが、自身の影が床に薄く落ちているところから、彼はここが室内なのだと思った。そのまま辺りを見回しつつもゆっくり立ち上がると、不意に声を掛けられた。
「ああ、やっと目が覚めた?」
声のした方へ振り返ると、そこにはついさっきまで何も無かったはずなのに、いつの間にか一つのテーブルに二脚の椅子に二人分のティーセット、向かい合わせになるように立て膝をついて座っている黒髪の少女がいた。勝ち気そうな笑みを浮かべた、小学五年生くらいの少女だ。純が何も反応できないでいると、少女は気さくに片手を挙げる。
「やぁ、こっちこっち。どうぞ、座って」
未だ状況が何も理解できずに少女に言われるがまま、純が向かいの席に座ると少女は簡単な挨拶から始めた。その声はまるで成人女性のようにやや低く、落ち着きがあって、見た目と釣り合いが取れていないように思えて、純はどうしても違和感を覚えずにはいられなかった。
「初めまして、菊地純君。ワタシはマキコ。みんなからは『マキコさん』って呼ばれてるよ。で、どうしてキミがここに呼ばれたのかだけど、端的に言うと死んだからだね」
「は……え? は……?」
突拍子もない言葉に純はまともに返せない。しかし、マキコと名乗った少女はお構いなしに話を続けた。手元にはいつの間に用意したのか、バインダーに挟まれた書類らしき紙とボールペンが握られている。何か書き込む前にマキコは砂糖壺とミルクを勧めてきたが、紅茶を飲む余裕の無い純は断った。
「それにしても、キミ、随分と間抜けな死に方したねぇ。夕飯に食べてた餅が誤って喉の奥に滑り込んでそのまま窒息死、なんてさ。いっそ笑える。これは今度開催される『間抜けな死に方TOP10』に出しても良いくらいだ。年寄りならともかく、キミのような若さでっていうところがウケるだろうなぁ」
「あ、え? お、おれ……おれ、死ん……? え?」
混乱し始めた純の眉間を、ボールペンのキャップ側でぐいぐいつつきながら、マキコはもう一度はっきり言ってやる。
「そうだよ。お・ま・え・は・し・ん・だ・の」
「い、痛いって! やめろよ!」
痛みに驚いた純は慌てて身を引き、つつかれた眉間を撫でる。そこでようやく現状を理解してきた彼は「えっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。そんな彼に構わず、マキコは更に続ける。
「で、キミは死ぬ直前、あることを願ったね。ああ、覚えてなくても大丈夫。こっちに書いてあるから。えーっと……『どうせなら、違う人生を歩みたかった』ね。ふむふむ……なるほど。確かに。キミのこれまでの人生を思えば、そう思うのも仕方ない。キミの人生には何一つ『成功体験』というものが無い……と少なくともキミ自身はそう思ってるワケだ」
その瞬間、純の脳裏にこれまでの自分の人生が走馬灯のように駆け抜ける。生まれた時から今ここに至るまで、自分はなんて無駄な人生を歩んできたのだろうと思わずにはいられない。本人ですら価値を感じられないのに、他人が聞いたらそれこそ一笑に付すような人生だった。それでも、と彼は思う。それでも彼にとってはかけがえのない人生だったのだ。せめてこれだけはと思うほど、自分の人生という世界で必死に藻掻いて足掻いて生きてきたのだ。
でも、と彼はこうも思う。もっと違う人生があったんじゃないか、と。生まれが違ったならもっと良い人生を歩めたのではないか、と。もっと違う親の元に生まれていれば、と。死ぬ間際、確かにそう願ったのだ。
親ガチャなんて言葉がある。生まれてくる子供は親を選べないということを端的に表した言葉だ。それに則って言うなら、純の両親はあまり良い親とは言えなかったかもしれない。幼い頃からの夢を何となく否定され、いつの間にか夢とは程遠い職業に就くよう言われて、将来の不安から結局はその通りにし、忙しい毎日を過ごしていくうちに彼の心は既に死んでいたのかもしれない。もう何をやっても楽しいとはあまり感じなくなっていたのだ。と、思う。
忙しい日々だったからといって、金がある訳でもない。上司には毎日のように怒鳴られ、そんな上司の失敗すらも彼のせいにされる。そのせいで周りからの評価は地に落ち、誰もが彼を侮り、見下し、どうでもいい雑務やただ面倒でしかなく経験の浅い彼には全く不向きな仕事を押し付けてきた。生前の彼は度々、自分の人生を『終わってる』と形容していたと不意に思い出した。が、まさかこんな形で『終わる』ことになるとは夢にも思っていなかった。全く予期していないタイミングで、全く予期していない死に方をした彼にとって、死の間際にそう願うのも当然と言えば、当然なのだ。
マキコの言葉をきっかけに生前の自分を取り戻した純は、奮い立たせるように椅子から立ち上がって力強く言った。
「そ、そうだ! おれ……おれは何のために生まれて来たのか、全然分からなくて……! 自分のやりたいこととか、将来のこととか、何も思い浮かばなくて! ただ、生かされてるだけだった……!! おれの、おれの人生なのに……」
もう終わってしまったのか、と続く言葉は発されなかった。ただ、もたれかかるようにして椅子に座り直した彼は項垂れ、頭を抱える。絶望したように「おれは……おれは……」と呟き続ける彼に、マキコはにやりと勝ち気な笑みを口元に浮かべて言った。
「そんな不運なキミにも絶好のチャンスがある、って言ったらどうする?」
その一言にばっと顔を上げた純は、目の前にいるマキコをまじまじと見つめる。その眼には僅かな希望に縋ろうと必死な光があった。
「チャンス……って?」
「そうだなぁ。例えば、全く別の世界で、キミのことを誰も知らない世界でやり直してみるってのはどうかな? 最近はそういうのが流行ってるんだろう?」
「それって……転生するってこと?」
純も生前、何作か読んだことのある小説群を思い浮かべる。『転生もの』として人気を博している小説群のことで、主人公は一度死んで異世界で新しい生を謳歌し、時に仲間達と敵を倒したり、絆を深め合ったり、中には悪役令嬢に生まれ変わって環境整備までするような話もあった。あの小説たちのように、もしかしたら自分も。そんな思いが湧いてきた純は見えてきた希望の糸を掴もうと、もっと詳しい話を聞こうとする。
「転生ねぇ……ま、そうだね。魂は同じでも転生といえば、転生か。……したいの?」
「し、したい! もう一度、生きられるなら……! おれはおれの人生を今度こそ歩むんだ!」
しかし、マキコはその答えを聞くと、一気に興味を無くしたように無表情となって純から目を逸らした。今は純より自爪の状態の方が大事なのだとでも言うように、右手の爪を見つめている。
「ふ~ん……あっそ。じゃあ、まずお前は選ばなくちゃいけないよ。どんな世界に行くか。キミの人生は今から始まるとして、キミはどんな世界を選ぶ?」
「選ぶ?」
いつの間にか、マキコの背後に扉が一つあった。その扉は至って普通の、敢えて言えばアンティーク調のダークブラウンの両開き扉だ。選ぶと聞いていたのにその他には扉は無く、それだけがぽつんと佇んでいる。
「なんだ。選ぶって一つだけじゃんか」
「扉はね。でも、その先はキミ自身が選ばなくちゃいけない世界だよ。どんな世界で、そこで自分はどんな役割で、どんな活躍をして人生を全うするのか。ちゃあんと考えないと望む世界には行けないかもしれない。よく考えてから決めることだね」
「この先に行けば、新しい人生が始まるんだ……」
マキコの言うことは聞いているのか、いないのか、純の目は扉に釘付けになっていた。新しい人生、新しい生活、新しい世界。なんて甘美な響きなのだろう、と純は心の中で羅列したその言葉達にうっとりと陶酔し、口元には恍惚とした笑みさえ浮かべていた。椅子から立ち上がり、よろよろと扉へ近付く彼の後へ続くようにマキコもついて行く。
「どうぞご自由に」と言いたげにマキコは純が扉にぺたぺたと触れても何も言わない。ただ、愛想笑いのようなものを顔に貼り付けているだけだ。振り返った純は先程までの死んだような目とは違い、生命力と好奇心に溢れたきらきらとした目をしてマキコを振り返った。
「それで、どうしたら向こうへ行けるんだ?」
「簡単なことさ。思い描いた世界が固まったら、ただ開ければ良い。但し、その扉を開けるにはもう一つ条件があるよ」
「条件? 何か、代償みたいなの?」
「代償……と言えば代償だけど、今のキミには代償にすら思わないかもしれないねぇ。『世界』を買うには『世界』を売らなきゃいけないから」
いきなり、売買の話が出てきて純は面食らう。どういうことだとマキコに問えば、彼女は純へ近付いてはっきりと口にした。
「『新しい世界』が欲しいなら、『今までの世界』は全て捨ててもらうんだよ。知識、教養、あの世界に生まれたという記録や記憶から家族、友人、恋人全て。何から何まで。全部捨てて無かったことにしてからじゃないと、あっちには行けないんだ。一つたりとも『縁』を残しちゃいけないからね」
「それが『転生』ってやつだ。嫌なら、止めときな」と終える前に純は「捨てる!」と言い放った。あまりの潔さに今度はマキコの方が面食らう。
「えっ、いいの? ほんとに?」
「良い。どうせおれが死んだって悲しむ奴なんかいないし、葬式だってしてくれるかどうか分かんないし。だったら、そんな世界要らないよ。誰にも認めてもらえない世界なんかいらない。あそこはおれの世界じゃない!」
そう言い切った純の目はこれまで見たどの目よりも澄み切っていた。その目を見たせいか、その言葉を聞いたせいか、マキコは心の底から込み上げる歓びを表さずにはいられなかった。自然と口から零れた笑みはやがて辺りに響く程の笑い声となり、言葉となって彼を賛美した。
「キミ、最高だねぇっ!! いいね、いいね。その潔さ!」
突然のマキコの高笑いに最初は呆然としていた純だったが、彼女に気に入られたのかと思い、つられて彼も「へへ」と照れたような、戸惑ったような笑みを見せる。その時、ゴーン、ゴーン、と遠くで鐘の音がした。その音を仰いだマキコは「ああ、時間だ」と純へ向き直り、最後の宣告をする。
「では、菊地純。キミの心は決まったかな? 決まったなら、扉に触れて思い浮かべた世界を言ってごらん。そうすれば、扉が開く」
「わ、分かった」
マキコに言われた通りに扉へ触れ、純は言われた通りに思い描いた世界を口にした。
「誰もおれを無視できない、誰もおれを認めざるを得ない、誰もがおれを愛する世界に連れて行ってくれ!」
その言葉に応えるように扉が独りでに開いていく。初めは細かった光が段々と扉が開くにつれて、線から面へ広がっていく。扉が開ききるのを今か今かと待っている純の背中に、マキコは語りかけた。
「では、どうぞ。菊池純。新しい世界を楽しんでおいで」
その言葉が合図だったかのように純は走り出し、振り返ることもなく、新しい世界へと飛び込んで行った。扉を潜ったと思った瞬間、純の意識は暗闇の中へ落ち、それが彼にとって最後に見た光景となった。
気が付くと、純は全く別の誰かになっていた。物心つき、今の自分は何歳くらいなのだろうと疑問に思うが、今の彼には確かめる術は限られている。目の前が全くと言って良いほど、何も見えないのだ。いつになっても、どこを見てもひたすら真っ暗闇が広がるだけ。辛うじて分かるのは、自分は前と同じ人間の形をしているということだけだ。
それでも、彼は幸せだった。両親は彼の意思を尊重し、欲しい物ややりたいと思ったことには何でも挑戦させてくれた。彼が途中で止めたいと言っても、両親は渋ることもなく、止めさせてくれた。それもこれも、彼が生まれた家はとても裕福で由緒正しい家柄だったからだ。
今世の彼は盲目故だろうか、音楽に傾倒していった。人一倍耳が良く、正確な音階を言い当て、どんな歌でも歌いこなし、どんな曲でも、どんな楽器でも華麗な演奏を披露する様は正に音楽の神に愛されたと言っても良い子供だった。そんな彼が名門と言われる音楽学院へ入るのは必然だったのかもしれない。それは、今までは家に家庭教師を招いて勉強していた彼が、初めてこの世界の実情を知ることにもなる第一歩となった。
「僕はフォルテ・ピアニシア。趣味は音楽鑑賞です。今日からよろしくお願いします」
新入式を終えた彼がクラスメイト達への自己紹介を済ませると、彼の名前を聞いた彼らは皆一様に驚き、「ピアニシアって、あのピアニシア家!?」だとか「っていうことはあの人って神童って言われてたフォルテ様!?」とひそひそと交わされる会話にフォルテとなった純は内心で満足そうに微笑んだ。ああ、なんて気持ちが良いんだろう。みんなが僕を無視できない、愛さずにはいられない。こんなに気分が良いことは他にない。
目が見えなくとも彼はとても幸せだった。この賞賛と羨望の視線と声を生涯浴び続けることができると思うと、これ以上の幸せは無いとも思った。
「あの、フォルテ様」
自己紹介も終わって着席すると、隣から鈴を転がすような可愛らしい女の子の声がした。フォルテがそちらへ顔を向けると、隣席の彼女は彼の目が見えないことに気付き、分かりやすいように机の端を指か何かで叩いて握手を求めてきた。何だか指で叩いたというにはぺちゃぺちゃと水分の多い音がしたが、彼には相手がどんな姿をしているのか知る術は無いので、意味は無いなと思い至る。
「私、ロンド・アグワと申します。ピアニシア家に比べたら大した家柄ではないのですが、これからお隣同士、仲良くして頂けると嬉しいです」
ぺちゃり、と隣から彼の机に何かが置かれる。どうやらそれは彼女の手のようだ。フォルテはその手に自分の手を重ねて握手に応じた。随分ひんやりとした手でぬめぬめとした感じがする。正直、好ましい感触では無かったが、彼はそれを表情に出すことは無く、「こちらこそよろしく」と返した。
彼はこれまで学んだ知識から彼女はスライム族なのではないかと予想する。この世界には人間の他に異なる種族の者達が複数いて、両親も自身をエルフ族だと言っていたので、フォルテもエルフ族なのだろう。しかし、それにしては自分の耳は人間と同じような丸い耳だということが唯一の疑問だったが、そんなことは大勢の人々から愛されている事実の前ではとても小さなことだ。
握手をしたロンドの声があまりにも可愛らしくて、フォルテは普段の彼らしくなく、少し緊張してしまうのだった。頬に感じる熱はきっと気のせいではない。
彼は幸せだった。音楽の才能に溢れ、それを上手く使うことで多くの人々から愛された。
彼は幸せだった。初めて通うこととなったクラスメイト達や教師達に恵まれた。
彼は幸せだった。生まれて初めての恋に心躍らせ、毎日一喜一憂していた。
彼は幸せだった。たとえ隣席の彼女が等身大の蛙そのものだったとしても。
「彼は本当に幸せになったと思うかい?」
誰もいなくなった向かいの席に残されたカップに向かって、マキコは独り言を呟く。すっかり中の紅茶は冷め切っており、もう誰もそれに口を付けることは無いだろう。マキコは新しく淹れた紅茶が入っている自分のカップに口を付けた。砂糖の甘い香りが紅茶の芳醇な香りと共に鼻を抜けていく。
「自分以外が殆ど虫や両生類や甲殻類の種族に溢れている世界で唯一の人間であることが、どれ程貴重な存在か果たして彼は分かっているのだろうか? いやいや、分かっていたらあんな反応はしないだろう。目が見えていたなら、彼は発狂していただろうなぁ。……というのもだ。彼があそこまでの存在になるには突出した才能の他に視覚を奪う必要があった。丁度、誰も行きたがらない世界が空いていたからね。あそこなら見た目に目を瞑れば住人は皆人間に優しいし、見た目に目を瞑れば食べ物は美味しいし、心動かされる出来事も度々起こってくれる。生活に不満を抱くことは少ないだろう。充分、人間が定義する幸せな一生が送れるんじゃないかな。――え? 彼は人間なのにどうしてエルフ族だと教えられたのかって? あの世界では『そう』だからだよ。人間と虫達の世界では見え方が違うんだろうね。彼らには二本足で歩き、毛の無い種族はみんなエルフ族に見えるんだろう。スライム族も同様に。たとえ見た目も中身も蛙だとしても、彼らにとっては『そう』だから。ただ、彼が自分の知っている普遍的な種族という枠組みに勝手に収めているだけさ」
そこまで話して、マキコはまた紅茶をもう一口。少し喋りすぎて喉が渇いていたらしく、ごくごくと多めに飲んでいる。そして、カップを受け皿に置くと、再び話し始めた。
「可哀相だと思うかい? それとも自業自得かな? でも、仕方ないんだよ。彼が『そう』望んだんだから。何の努力もしないで愛される世界を望んだんだ。それなりの代償は払ってもらわないと。でも、結果として彼は自分が望む世界を手に入れた。だったら、幸せだろう?」
「どうでもいいな。そんな奴のことなんて」
いつの間にか、マキコの向かいには一人の男が座っていた。腰に大振りの剣を提げた若者だ。身に着けている物は分かる者が見れば、どれも世界で唯一の宝物ばかりだと分かる。短い黒髪にどこか虚ろな目つきの男は吐き捨てるように言った。
「悪魔のお前に頼みたいことがある」
「これはこれは伝説の勇者様。悪魔だなんて非道いなぁ。ワタシ達はあいつらみたいな無法者とは違うよ。キミだって一度死んで別世界に渡ったじゃないか。そこでキミは数々の功績を残し、遂にはあの世界を揺るがす伝説級の魔物を倒して英雄にまでなったじゃないか。世界的な名誉と頼もしい仲間達、美しく聡明な妻を迎えて全てが上手く行っていただろう? ここに来たってことはあっちの世界でわざわざ自殺なんてして、どういうつもりなのかな? キミの妻が悲しむんじゃない? ほら、あの白魔導師の子だよ」
くすくすと笑うマキコに男は膝に置いていた手をぶるぶる震わせ、遂にはバンッとテーブルを叩きながら立ち上がった。
「お前のせいでオレは何もかも失うことになったんじゃないかっ!!」
「あ? なんだこれ」
ついさっきまで自分は何をしていたんだっけと未だ少し鈍い頭で考えながら、純はゆっくりと起き上がった。影は、ある。光源はどこからだか全く分からないが、自身の影が床に薄く落ちているところから、彼はここが室内なのだと思った。そのまま辺りを見回しつつもゆっくり立ち上がると、不意に声を掛けられた。
「ああ、やっと目が覚めた?」
声のした方へ振り返ると、そこにはついさっきまで何も無かったはずなのに、いつの間にか一つのテーブルに二脚の椅子に二人分のティーセット、向かい合わせになるように立て膝をついて座っている黒髪の少女がいた。勝ち気そうな笑みを浮かべた、小学五年生くらいの少女だ。純が何も反応できないでいると、少女は気さくに片手を挙げる。
「やぁ、こっちこっち。どうぞ、座って」
未だ状況が何も理解できずに少女に言われるがまま、純が向かいの席に座ると少女は簡単な挨拶から始めた。その声はまるで成人女性のようにやや低く、落ち着きがあって、見た目と釣り合いが取れていないように思えて、純はどうしても違和感を覚えずにはいられなかった。
「初めまして、菊地純君。ワタシはマキコ。みんなからは『マキコさん』って呼ばれてるよ。で、どうしてキミがここに呼ばれたのかだけど、端的に言うと死んだからだね」
「は……え? は……?」
突拍子もない言葉に純はまともに返せない。しかし、マキコと名乗った少女はお構いなしに話を続けた。手元にはいつの間に用意したのか、バインダーに挟まれた書類らしき紙とボールペンが握られている。何か書き込む前にマキコは砂糖壺とミルクを勧めてきたが、紅茶を飲む余裕の無い純は断った。
「それにしても、キミ、随分と間抜けな死に方したねぇ。夕飯に食べてた餅が誤って喉の奥に滑り込んでそのまま窒息死、なんてさ。いっそ笑える。これは今度開催される『間抜けな死に方TOP10』に出しても良いくらいだ。年寄りならともかく、キミのような若さでっていうところがウケるだろうなぁ」
「あ、え? お、おれ……おれ、死ん……? え?」
混乱し始めた純の眉間を、ボールペンのキャップ側でぐいぐいつつきながら、マキコはもう一度はっきり言ってやる。
「そうだよ。お・ま・え・は・し・ん・だ・の」
「い、痛いって! やめろよ!」
痛みに驚いた純は慌てて身を引き、つつかれた眉間を撫でる。そこでようやく現状を理解してきた彼は「えっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。そんな彼に構わず、マキコは更に続ける。
「で、キミは死ぬ直前、あることを願ったね。ああ、覚えてなくても大丈夫。こっちに書いてあるから。えーっと……『どうせなら、違う人生を歩みたかった』ね。ふむふむ……なるほど。確かに。キミのこれまでの人生を思えば、そう思うのも仕方ない。キミの人生には何一つ『成功体験』というものが無い……と少なくともキミ自身はそう思ってるワケだ」
その瞬間、純の脳裏にこれまでの自分の人生が走馬灯のように駆け抜ける。生まれた時から今ここに至るまで、自分はなんて無駄な人生を歩んできたのだろうと思わずにはいられない。本人ですら価値を感じられないのに、他人が聞いたらそれこそ一笑に付すような人生だった。それでも、と彼は思う。それでも彼にとってはかけがえのない人生だったのだ。せめてこれだけはと思うほど、自分の人生という世界で必死に藻掻いて足掻いて生きてきたのだ。
でも、と彼はこうも思う。もっと違う人生があったんじゃないか、と。生まれが違ったならもっと良い人生を歩めたのではないか、と。もっと違う親の元に生まれていれば、と。死ぬ間際、確かにそう願ったのだ。
親ガチャなんて言葉がある。生まれてくる子供は親を選べないということを端的に表した言葉だ。それに則って言うなら、純の両親はあまり良い親とは言えなかったかもしれない。幼い頃からの夢を何となく否定され、いつの間にか夢とは程遠い職業に就くよう言われて、将来の不安から結局はその通りにし、忙しい毎日を過ごしていくうちに彼の心は既に死んでいたのかもしれない。もう何をやっても楽しいとはあまり感じなくなっていたのだ。と、思う。
忙しい日々だったからといって、金がある訳でもない。上司には毎日のように怒鳴られ、そんな上司の失敗すらも彼のせいにされる。そのせいで周りからの評価は地に落ち、誰もが彼を侮り、見下し、どうでもいい雑務やただ面倒でしかなく経験の浅い彼には全く不向きな仕事を押し付けてきた。生前の彼は度々、自分の人生を『終わってる』と形容していたと不意に思い出した。が、まさかこんな形で『終わる』ことになるとは夢にも思っていなかった。全く予期していないタイミングで、全く予期していない死に方をした彼にとって、死の間際にそう願うのも当然と言えば、当然なのだ。
マキコの言葉をきっかけに生前の自分を取り戻した純は、奮い立たせるように椅子から立ち上がって力強く言った。
「そ、そうだ! おれ……おれは何のために生まれて来たのか、全然分からなくて……! 自分のやりたいこととか、将来のこととか、何も思い浮かばなくて! ただ、生かされてるだけだった……!! おれの、おれの人生なのに……」
もう終わってしまったのか、と続く言葉は発されなかった。ただ、もたれかかるようにして椅子に座り直した彼は項垂れ、頭を抱える。絶望したように「おれは……おれは……」と呟き続ける彼に、マキコはにやりと勝ち気な笑みを口元に浮かべて言った。
「そんな不運なキミにも絶好のチャンスがある、って言ったらどうする?」
その一言にばっと顔を上げた純は、目の前にいるマキコをまじまじと見つめる。その眼には僅かな希望に縋ろうと必死な光があった。
「チャンス……って?」
「そうだなぁ。例えば、全く別の世界で、キミのことを誰も知らない世界でやり直してみるってのはどうかな? 最近はそういうのが流行ってるんだろう?」
「それって……転生するってこと?」
純も生前、何作か読んだことのある小説群を思い浮かべる。『転生もの』として人気を博している小説群のことで、主人公は一度死んで異世界で新しい生を謳歌し、時に仲間達と敵を倒したり、絆を深め合ったり、中には悪役令嬢に生まれ変わって環境整備までするような話もあった。あの小説たちのように、もしかしたら自分も。そんな思いが湧いてきた純は見えてきた希望の糸を掴もうと、もっと詳しい話を聞こうとする。
「転生ねぇ……ま、そうだね。魂は同じでも転生といえば、転生か。……したいの?」
「し、したい! もう一度、生きられるなら……! おれはおれの人生を今度こそ歩むんだ!」
しかし、マキコはその答えを聞くと、一気に興味を無くしたように無表情となって純から目を逸らした。今は純より自爪の状態の方が大事なのだとでも言うように、右手の爪を見つめている。
「ふ~ん……あっそ。じゃあ、まずお前は選ばなくちゃいけないよ。どんな世界に行くか。キミの人生は今から始まるとして、キミはどんな世界を選ぶ?」
「選ぶ?」
いつの間にか、マキコの背後に扉が一つあった。その扉は至って普通の、敢えて言えばアンティーク調のダークブラウンの両開き扉だ。選ぶと聞いていたのにその他には扉は無く、それだけがぽつんと佇んでいる。
「なんだ。選ぶって一つだけじゃんか」
「扉はね。でも、その先はキミ自身が選ばなくちゃいけない世界だよ。どんな世界で、そこで自分はどんな役割で、どんな活躍をして人生を全うするのか。ちゃあんと考えないと望む世界には行けないかもしれない。よく考えてから決めることだね」
「この先に行けば、新しい人生が始まるんだ……」
マキコの言うことは聞いているのか、いないのか、純の目は扉に釘付けになっていた。新しい人生、新しい生活、新しい世界。なんて甘美な響きなのだろう、と純は心の中で羅列したその言葉達にうっとりと陶酔し、口元には恍惚とした笑みさえ浮かべていた。椅子から立ち上がり、よろよろと扉へ近付く彼の後へ続くようにマキコもついて行く。
「どうぞご自由に」と言いたげにマキコは純が扉にぺたぺたと触れても何も言わない。ただ、愛想笑いのようなものを顔に貼り付けているだけだ。振り返った純は先程までの死んだような目とは違い、生命力と好奇心に溢れたきらきらとした目をしてマキコを振り返った。
「それで、どうしたら向こうへ行けるんだ?」
「簡単なことさ。思い描いた世界が固まったら、ただ開ければ良い。但し、その扉を開けるにはもう一つ条件があるよ」
「条件? 何か、代償みたいなの?」
「代償……と言えば代償だけど、今のキミには代償にすら思わないかもしれないねぇ。『世界』を買うには『世界』を売らなきゃいけないから」
いきなり、売買の話が出てきて純は面食らう。どういうことだとマキコに問えば、彼女は純へ近付いてはっきりと口にした。
「『新しい世界』が欲しいなら、『今までの世界』は全て捨ててもらうんだよ。知識、教養、あの世界に生まれたという記録や記憶から家族、友人、恋人全て。何から何まで。全部捨てて無かったことにしてからじゃないと、あっちには行けないんだ。一つたりとも『縁』を残しちゃいけないからね」
「それが『転生』ってやつだ。嫌なら、止めときな」と終える前に純は「捨てる!」と言い放った。あまりの潔さに今度はマキコの方が面食らう。
「えっ、いいの? ほんとに?」
「良い。どうせおれが死んだって悲しむ奴なんかいないし、葬式だってしてくれるかどうか分かんないし。だったら、そんな世界要らないよ。誰にも認めてもらえない世界なんかいらない。あそこはおれの世界じゃない!」
そう言い切った純の目はこれまで見たどの目よりも澄み切っていた。その目を見たせいか、その言葉を聞いたせいか、マキコは心の底から込み上げる歓びを表さずにはいられなかった。自然と口から零れた笑みはやがて辺りに響く程の笑い声となり、言葉となって彼を賛美した。
「キミ、最高だねぇっ!! いいね、いいね。その潔さ!」
突然のマキコの高笑いに最初は呆然としていた純だったが、彼女に気に入られたのかと思い、つられて彼も「へへ」と照れたような、戸惑ったような笑みを見せる。その時、ゴーン、ゴーン、と遠くで鐘の音がした。その音を仰いだマキコは「ああ、時間だ」と純へ向き直り、最後の宣告をする。
「では、菊地純。キミの心は決まったかな? 決まったなら、扉に触れて思い浮かべた世界を言ってごらん。そうすれば、扉が開く」
「わ、分かった」
マキコに言われた通りに扉へ触れ、純は言われた通りに思い描いた世界を口にした。
「誰もおれを無視できない、誰もおれを認めざるを得ない、誰もがおれを愛する世界に連れて行ってくれ!」
その言葉に応えるように扉が独りでに開いていく。初めは細かった光が段々と扉が開くにつれて、線から面へ広がっていく。扉が開ききるのを今か今かと待っている純の背中に、マキコは語りかけた。
「では、どうぞ。菊池純。新しい世界を楽しんでおいで」
その言葉が合図だったかのように純は走り出し、振り返ることもなく、新しい世界へと飛び込んで行った。扉を潜ったと思った瞬間、純の意識は暗闇の中へ落ち、それが彼にとって最後に見た光景となった。
気が付くと、純は全く別の誰かになっていた。物心つき、今の自分は何歳くらいなのだろうと疑問に思うが、今の彼には確かめる術は限られている。目の前が全くと言って良いほど、何も見えないのだ。いつになっても、どこを見てもひたすら真っ暗闇が広がるだけ。辛うじて分かるのは、自分は前と同じ人間の形をしているということだけだ。
それでも、彼は幸せだった。両親は彼の意思を尊重し、欲しい物ややりたいと思ったことには何でも挑戦させてくれた。彼が途中で止めたいと言っても、両親は渋ることもなく、止めさせてくれた。それもこれも、彼が生まれた家はとても裕福で由緒正しい家柄だったからだ。
今世の彼は盲目故だろうか、音楽に傾倒していった。人一倍耳が良く、正確な音階を言い当て、どんな歌でも歌いこなし、どんな曲でも、どんな楽器でも華麗な演奏を披露する様は正に音楽の神に愛されたと言っても良い子供だった。そんな彼が名門と言われる音楽学院へ入るのは必然だったのかもしれない。それは、今までは家に家庭教師を招いて勉強していた彼が、初めてこの世界の実情を知ることにもなる第一歩となった。
「僕はフォルテ・ピアニシア。趣味は音楽鑑賞です。今日からよろしくお願いします」
新入式を終えた彼がクラスメイト達への自己紹介を済ませると、彼の名前を聞いた彼らは皆一様に驚き、「ピアニシアって、あのピアニシア家!?」だとか「っていうことはあの人って神童って言われてたフォルテ様!?」とひそひそと交わされる会話にフォルテとなった純は内心で満足そうに微笑んだ。ああ、なんて気持ちが良いんだろう。みんなが僕を無視できない、愛さずにはいられない。こんなに気分が良いことは他にない。
目が見えなくとも彼はとても幸せだった。この賞賛と羨望の視線と声を生涯浴び続けることができると思うと、これ以上の幸せは無いとも思った。
「あの、フォルテ様」
自己紹介も終わって着席すると、隣から鈴を転がすような可愛らしい女の子の声がした。フォルテがそちらへ顔を向けると、隣席の彼女は彼の目が見えないことに気付き、分かりやすいように机の端を指か何かで叩いて握手を求めてきた。何だか指で叩いたというにはぺちゃぺちゃと水分の多い音がしたが、彼には相手がどんな姿をしているのか知る術は無いので、意味は無いなと思い至る。
「私、ロンド・アグワと申します。ピアニシア家に比べたら大した家柄ではないのですが、これからお隣同士、仲良くして頂けると嬉しいです」
ぺちゃり、と隣から彼の机に何かが置かれる。どうやらそれは彼女の手のようだ。フォルテはその手に自分の手を重ねて握手に応じた。随分ひんやりとした手でぬめぬめとした感じがする。正直、好ましい感触では無かったが、彼はそれを表情に出すことは無く、「こちらこそよろしく」と返した。
彼はこれまで学んだ知識から彼女はスライム族なのではないかと予想する。この世界には人間の他に異なる種族の者達が複数いて、両親も自身をエルフ族だと言っていたので、フォルテもエルフ族なのだろう。しかし、それにしては自分の耳は人間と同じような丸い耳だということが唯一の疑問だったが、そんなことは大勢の人々から愛されている事実の前ではとても小さなことだ。
握手をしたロンドの声があまりにも可愛らしくて、フォルテは普段の彼らしくなく、少し緊張してしまうのだった。頬に感じる熱はきっと気のせいではない。
彼は幸せだった。音楽の才能に溢れ、それを上手く使うことで多くの人々から愛された。
彼は幸せだった。初めて通うこととなったクラスメイト達や教師達に恵まれた。
彼は幸せだった。生まれて初めての恋に心躍らせ、毎日一喜一憂していた。
彼は幸せだった。たとえ隣席の彼女が等身大の蛙そのものだったとしても。
「彼は本当に幸せになったと思うかい?」
誰もいなくなった向かいの席に残されたカップに向かって、マキコは独り言を呟く。すっかり中の紅茶は冷め切っており、もう誰もそれに口を付けることは無いだろう。マキコは新しく淹れた紅茶が入っている自分のカップに口を付けた。砂糖の甘い香りが紅茶の芳醇な香りと共に鼻を抜けていく。
「自分以外が殆ど虫や両生類や甲殻類の種族に溢れている世界で唯一の人間であることが、どれ程貴重な存在か果たして彼は分かっているのだろうか? いやいや、分かっていたらあんな反応はしないだろう。目が見えていたなら、彼は発狂していただろうなぁ。……というのもだ。彼があそこまでの存在になるには突出した才能の他に視覚を奪う必要があった。丁度、誰も行きたがらない世界が空いていたからね。あそこなら見た目に目を瞑れば住人は皆人間に優しいし、見た目に目を瞑れば食べ物は美味しいし、心動かされる出来事も度々起こってくれる。生活に不満を抱くことは少ないだろう。充分、人間が定義する幸せな一生が送れるんじゃないかな。――え? 彼は人間なのにどうしてエルフ族だと教えられたのかって? あの世界では『そう』だからだよ。人間と虫達の世界では見え方が違うんだろうね。彼らには二本足で歩き、毛の無い種族はみんなエルフ族に見えるんだろう。スライム族も同様に。たとえ見た目も中身も蛙だとしても、彼らにとっては『そう』だから。ただ、彼が自分の知っている普遍的な種族という枠組みに勝手に収めているだけさ」
そこまで話して、マキコはまた紅茶をもう一口。少し喋りすぎて喉が渇いていたらしく、ごくごくと多めに飲んでいる。そして、カップを受け皿に置くと、再び話し始めた。
「可哀相だと思うかい? それとも自業自得かな? でも、仕方ないんだよ。彼が『そう』望んだんだから。何の努力もしないで愛される世界を望んだんだ。それなりの代償は払ってもらわないと。でも、結果として彼は自分が望む世界を手に入れた。だったら、幸せだろう?」
「どうでもいいな。そんな奴のことなんて」
いつの間にか、マキコの向かいには一人の男が座っていた。腰に大振りの剣を提げた若者だ。身に着けている物は分かる者が見れば、どれも世界で唯一の宝物ばかりだと分かる。短い黒髪にどこか虚ろな目つきの男は吐き捨てるように言った。
「悪魔のお前に頼みたいことがある」
「これはこれは伝説の勇者様。悪魔だなんて非道いなぁ。ワタシ達はあいつらみたいな無法者とは違うよ。キミだって一度死んで別世界に渡ったじゃないか。そこでキミは数々の功績を残し、遂にはあの世界を揺るがす伝説級の魔物を倒して英雄にまでなったじゃないか。世界的な名誉と頼もしい仲間達、美しく聡明な妻を迎えて全てが上手く行っていただろう? ここに来たってことはあっちの世界でわざわざ自殺なんてして、どういうつもりなのかな? キミの妻が悲しむんじゃない? ほら、あの白魔導師の子だよ」
くすくすと笑うマキコに男は膝に置いていた手をぶるぶる震わせ、遂にはバンッとテーブルを叩きながら立ち上がった。
「お前のせいでオレは何もかも失うことになったんじゃないかっ!!」
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