第一章
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浴室を追い出されたルカは直ぐさま傍に来てくれたカミラに大丈夫だと言い、何とかクジャの要望通りに落ち着いてもらうことに成功した。カミラはまだどこか心配そうだったが、それ以上追及することもできない為、疑わしげにルカを見つめることしかできない。しかし、ルカにはある一つの策があった。それは傍から聞けば策でも何でも無いものかもしれないが、今の彼女にとっては策と言えるものだ。
それは浴室を出る前にクジャと交わしたある約束だった。
「あの、クジャ様」
「何だい、まだ何か用なのかい?」
浴室を出る前、彼女はクジャに向き直り、ある提案をしようとおずおずと口を開いた。
「あの、もし、次また何かイライラするようなことがあれば、その……」
「今はキミのそのおどおどした態度に苛つきそうだよ。さっさと言えば良いじゃないか」
「す、すみません……。で、でも、またそういうことがあれば、他の人には魔法を掛けたり、暴力を振るったりしないで欲しいです。みんな、私の大切な人達なので」
「ふぅん? じゃあ、僕はどうしたらいいのかな? 物にでも当たれって? 一介の兵士の分際で僕に命令できるとでも思っているのかい?」
「そ、そうじゃないですっ……! その、そういう時は全部、私にして下さいっ。私が全部受け止めますから……!」
その一言にクジャは驚いたように瞠目し、まじまじとルカを見た。数瞬の沈黙の後、クジャは軽蔑とも侮蔑とも取れる嘲笑をルカに浴びせる。
「キミって、そういう趣味なのかい?」
「ち、違いますっ! みんなを守る為です!」
『みんなを守る為』という大義名分を騙る差別意識に一瞬、クジャはルカの頭を床に打ち付けてやりたい衝動に駆られるが、そこで俯いている彼女の体が微かに震えていることに気が付いた。『自分の大切なものを守りたい』という彼女の傲慢な純粋無垢、否愚かさに彼の口角が上がる。自分から「他者に手を出さないで」と弱みを差し出してくる行為に内心で嗤いつつ、クジャは澄ました顔で了承した。暇な時はこの女を脅して痛め付けて暇を潰そうかなどと考えながら。
「ああ、良いよ。じゃあ、『そういう契約』を結ぼうか」
「『契約』?」
「なに、大したことじゃないよ」とクジャは人差し指を立てて、次の条件を言った。
1.ルカをクジャの秘書とすること
2.ルカは普段の業務だけでなく、クジャの身の回りの世話もすること
3.クジャが怒りを鎮める際は、進んで自らを犠牲にすること
三つ目の条件には正直、苦い顔をしていたルカだったが、クジャに「キミの覚悟はその程度なのかい?」と言われてしまえば、「いえ、大丈夫です」と確実に傷付く未来が待っていると分かり切っているが、それすら飲み込んで了承する選択以外は無い。幸い、彼女は兵士だ。毎日厳しい訓練を受けているお陰で、心身共に痛みには強いと自負している。自分が耐えれば良いだけだと割り切り、彼女は少し俯いていた顔を上げた。覚悟が無ければ、みんなを守れないのだ。
ルカが了承すると、クジャは「では、早速キミに命令しよう」と前置きして、カミラを黙らせておくように改めて言い直したのだった。
そんな契約を交わしたなどと言えば、今よりもっとややこしいことになると思ったルカは嘘が下手なりにあの手この手で何とか隠し、誤魔化そうとする。そんな彼女のぎくしゃくした様子には明らかに気付いているのに、ルカが何も言わないせいで上手く切り込むことができないでいるカミラ。そうこうしているうちに浴室から出てきたクジャによってカミラとルカの問答は中断させられ、自分の仕事に戻るよう命じられるのだった。
それから二週間ほどでルカはカミラから秘書の仕事を引き継ぎ、本格的に一人で仕事を任されることとなった。幸い、念には念をとカミラが丁寧に引き継ぎをしてくれたので、初めはあんなに苦労した紅茶の種類も、クジャの機嫌の取り方もある程度まではこなせるようになっていた。しかし、それはあくまでも『ある程度』なのである。そして、発作的なクジャの『それ』は、ある日突然起こるものだった。
いつものようにどこかへ出かけたクジャが帰って来るまでに粗方仕事を片付けたルカは、空いた時間を彼の入浴の準備とベッドメイキングの時間に当てていると、クジャが帰ったことを報せるベルが鳴ったので、彼を迎えようと出入口の扉の前まで来た時だった。勢い良く開けられた扉の向こうには、いつもよりも鋭く、冷ややかな目をしたクジャがいた。
「お帰りなさいませ、クジャ様――」
「……何してるんだ」
「あ、ベッドメイキングを……」
「へぇ? そんな事をしてる余裕があるとは、さぞ完璧な仕事をしたんだろうねえ?」
「も、申し訳ありません。まだ途中で……」
その瞬間、突然ルカは思い切り肩を突き飛ばされ、背後にあったテーブルにぶつかって椅子ごと床に転げた。
「このグズ!! ノロマ! 僕が帰って来るまでに全部やるように言っただろうっ!?」
「も、申し訳ありませんっ……! すぐに終わらせますっ!」
「さっさと終わらせるんだよっ!」
クジャの怒声にビクッと身を震わせて怯えたルカは、擦り傷や痣が目立つ体をよろよろと立ち上がらせて、クジャの寝室へ急いだ。途中といっても後は掛け布団を掛けるだけだったので、すぐに終わり、戻ってくると、ソファに腰掛けて深い溜息を吐いていたクジャへそっと声を掛ける。
「あの、終わりました。クジャ様」
「だったら、今日はもういい。目障りだから、下がりなよ」
いつもならそれ以上ルカも何も言わずに従うが、ひどく疲れている様子のクジャを見て、彼女は勇気を振り絞り、恐る恐るまた声を掛けた。
「あの……クジャ様」
「なんだい。まだ何かあるのかい?」
「疲れているんだから、僕に構うな」と言いたげな刺々しい言い方に一瞬、気圧されそうになったルカだったが、それでもぐっと堪えて、彼に一歩近付いてみようと口を開く。
「何かお飲みになりますか?」
その後に続く筈だった言葉は、突然クジャに胸倉を掴まれたことで強制的に中断させられる。喉元の苦しさから顔を歪ませるルカをクジャは殺意を込めて睨んだ。
「何を企んでいる?」
その表情は氷のように冷たく、刃物のように鋭い。一瞬の隙も与えまいとしているかのような張り詰めた表情に、ルカは恐怖と共に疑問を感じた。他者を全く信じていないクジャの目に、哀しさすら感じた。
「毒でも盛るつもりかい? それともスリプル草でも使って手っ取り早く大人しくさせるつもりかな? 生憎だけど、そんな物、僕には効かないよ。大抵の魔法の気配には敏感でねえ。キミごときが用意できる薬なんて限られてるから、簡単に見破れるんだよ。残念だったねえ……!」
「ち、ちがっ……違い、ます……! 私はただ、クジャ様に、休んで頂きたくて……!」
「毒を盛る奴はみんなそう言うんだよ。なんでもない顔して心の中では嘲笑ってるんだ。そうだ、あいつだってそうだった……! 僕が自分より若いからって馬鹿にして……!! ああっ、全く本当に虫唾が走るよっ……!」
「あ…………うぅ……!」
首元を締め付けられているルカは苦しげに喘ぎ、殆ど無意識にクジャの手に力無く触れる。意識を奪われる程ではないが、段々と込められる彼の手の冷たさを何とかしたくて、無意識に掠れた声を上げた。
「わ、たしは……バカにしたり、しません……! ク、ジャ、様のこと…………っ!」
きゅっとほんの少しだけクジャの手に触れている手に力を込めて、ルカは続ける。彼女は無意識にクジャを安心させようと、微笑みを浮かべていた。一瞬だけ無言でその微笑みを見つめていたクジャはすぐにいつもの嘲笑へ変わる。
「嘘をつくなら、もっとマシな嘘をつきなよ。偽善者」
「あうっ……!」
最後に再び床へ彼女を突き飛ばすと、少し落ち着いたのかクジャは命令した。
「早く」
「……え?」
「用意する気があるなら、早くしなよ。寝る時間が遅くなったら、キミの責任だからね」
その言葉を了承と捉えたルカは「は、はいっ」と返事をすると、すぐまた立ち上がって給湯室へ向かった。
それは浴室を出る前にクジャと交わしたある約束だった。
「あの、クジャ様」
「何だい、まだ何か用なのかい?」
浴室を出る前、彼女はクジャに向き直り、ある提案をしようとおずおずと口を開いた。
「あの、もし、次また何かイライラするようなことがあれば、その……」
「今はキミのそのおどおどした態度に苛つきそうだよ。さっさと言えば良いじゃないか」
「す、すみません……。で、でも、またそういうことがあれば、他の人には魔法を掛けたり、暴力を振るったりしないで欲しいです。みんな、私の大切な人達なので」
「ふぅん? じゃあ、僕はどうしたらいいのかな? 物にでも当たれって? 一介の兵士の分際で僕に命令できるとでも思っているのかい?」
「そ、そうじゃないですっ……! その、そういう時は全部、私にして下さいっ。私が全部受け止めますから……!」
その一言にクジャは驚いたように瞠目し、まじまじとルカを見た。数瞬の沈黙の後、クジャは軽蔑とも侮蔑とも取れる嘲笑をルカに浴びせる。
「キミって、そういう趣味なのかい?」
「ち、違いますっ! みんなを守る為です!」
『みんなを守る為』という大義名分を騙る差別意識に一瞬、クジャはルカの頭を床に打ち付けてやりたい衝動に駆られるが、そこで俯いている彼女の体が微かに震えていることに気が付いた。『自分の大切なものを守りたい』という彼女の傲慢な純粋無垢、否愚かさに彼の口角が上がる。自分から「他者に手を出さないで」と弱みを差し出してくる行為に内心で嗤いつつ、クジャは澄ました顔で了承した。暇な時はこの女を脅して痛め付けて暇を潰そうかなどと考えながら。
「ああ、良いよ。じゃあ、『そういう契約』を結ぼうか」
「『契約』?」
「なに、大したことじゃないよ」とクジャは人差し指を立てて、次の条件を言った。
1.ルカをクジャの秘書とすること
2.ルカは普段の業務だけでなく、クジャの身の回りの世話もすること
3.クジャが怒りを鎮める際は、進んで自らを犠牲にすること
三つ目の条件には正直、苦い顔をしていたルカだったが、クジャに「キミの覚悟はその程度なのかい?」と言われてしまえば、「いえ、大丈夫です」と確実に傷付く未来が待っていると分かり切っているが、それすら飲み込んで了承する選択以外は無い。幸い、彼女は兵士だ。毎日厳しい訓練を受けているお陰で、心身共に痛みには強いと自負している。自分が耐えれば良いだけだと割り切り、彼女は少し俯いていた顔を上げた。覚悟が無ければ、みんなを守れないのだ。
ルカが了承すると、クジャは「では、早速キミに命令しよう」と前置きして、カミラを黙らせておくように改めて言い直したのだった。
そんな契約を交わしたなどと言えば、今よりもっとややこしいことになると思ったルカは嘘が下手なりにあの手この手で何とか隠し、誤魔化そうとする。そんな彼女のぎくしゃくした様子には明らかに気付いているのに、ルカが何も言わないせいで上手く切り込むことができないでいるカミラ。そうこうしているうちに浴室から出てきたクジャによってカミラとルカの問答は中断させられ、自分の仕事に戻るよう命じられるのだった。
それから二週間ほどでルカはカミラから秘書の仕事を引き継ぎ、本格的に一人で仕事を任されることとなった。幸い、念には念をとカミラが丁寧に引き継ぎをしてくれたので、初めはあんなに苦労した紅茶の種類も、クジャの機嫌の取り方もある程度まではこなせるようになっていた。しかし、それはあくまでも『ある程度』なのである。そして、発作的なクジャの『それ』は、ある日突然起こるものだった。
いつものようにどこかへ出かけたクジャが帰って来るまでに粗方仕事を片付けたルカは、空いた時間を彼の入浴の準備とベッドメイキングの時間に当てていると、クジャが帰ったことを報せるベルが鳴ったので、彼を迎えようと出入口の扉の前まで来た時だった。勢い良く開けられた扉の向こうには、いつもよりも鋭く、冷ややかな目をしたクジャがいた。
「お帰りなさいませ、クジャ様――」
「……何してるんだ」
「あ、ベッドメイキングを……」
「へぇ? そんな事をしてる余裕があるとは、さぞ完璧な仕事をしたんだろうねえ?」
「も、申し訳ありません。まだ途中で……」
その瞬間、突然ルカは思い切り肩を突き飛ばされ、背後にあったテーブルにぶつかって椅子ごと床に転げた。
「このグズ!! ノロマ! 僕が帰って来るまでに全部やるように言っただろうっ!?」
「も、申し訳ありませんっ……! すぐに終わらせますっ!」
「さっさと終わらせるんだよっ!」
クジャの怒声にビクッと身を震わせて怯えたルカは、擦り傷や痣が目立つ体をよろよろと立ち上がらせて、クジャの寝室へ急いだ。途中といっても後は掛け布団を掛けるだけだったので、すぐに終わり、戻ってくると、ソファに腰掛けて深い溜息を吐いていたクジャへそっと声を掛ける。
「あの、終わりました。クジャ様」
「だったら、今日はもういい。目障りだから、下がりなよ」
いつもならそれ以上ルカも何も言わずに従うが、ひどく疲れている様子のクジャを見て、彼女は勇気を振り絞り、恐る恐るまた声を掛けた。
「あの……クジャ様」
「なんだい。まだ何かあるのかい?」
「疲れているんだから、僕に構うな」と言いたげな刺々しい言い方に一瞬、気圧されそうになったルカだったが、それでもぐっと堪えて、彼に一歩近付いてみようと口を開く。
「何かお飲みになりますか?」
その後に続く筈だった言葉は、突然クジャに胸倉を掴まれたことで強制的に中断させられる。喉元の苦しさから顔を歪ませるルカをクジャは殺意を込めて睨んだ。
「何を企んでいる?」
その表情は氷のように冷たく、刃物のように鋭い。一瞬の隙も与えまいとしているかのような張り詰めた表情に、ルカは恐怖と共に疑問を感じた。他者を全く信じていないクジャの目に、哀しさすら感じた。
「毒でも盛るつもりかい? それともスリプル草でも使って手っ取り早く大人しくさせるつもりかな? 生憎だけど、そんな物、僕には効かないよ。大抵の魔法の気配には敏感でねえ。キミごときが用意できる薬なんて限られてるから、簡単に見破れるんだよ。残念だったねえ……!」
「ち、ちがっ……違い、ます……! 私はただ、クジャ様に、休んで頂きたくて……!」
「毒を盛る奴はみんなそう言うんだよ。なんでもない顔して心の中では嘲笑ってるんだ。そうだ、あいつだってそうだった……! 僕が自分より若いからって馬鹿にして……!! ああっ、全く本当に虫唾が走るよっ……!」
「あ…………うぅ……!」
首元を締め付けられているルカは苦しげに喘ぎ、殆ど無意識にクジャの手に力無く触れる。意識を奪われる程ではないが、段々と込められる彼の手の冷たさを何とかしたくて、無意識に掠れた声を上げた。
「わ、たしは……バカにしたり、しません……! ク、ジャ、様のこと…………っ!」
きゅっとほんの少しだけクジャの手に触れている手に力を込めて、ルカは続ける。彼女は無意識にクジャを安心させようと、微笑みを浮かべていた。一瞬だけ無言でその微笑みを見つめていたクジャはすぐにいつもの嘲笑へ変わる。
「嘘をつくなら、もっとマシな嘘をつきなよ。偽善者」
「あうっ……!」
最後に再び床へ彼女を突き飛ばすと、少し落ち着いたのかクジャは命令した。
「早く」
「……え?」
「用意する気があるなら、早くしなよ。寝る時間が遅くなったら、キミの責任だからね」
その言葉を了承と捉えたルカは「は、はいっ」と返事をすると、すぐまた立ち上がって給湯室へ向かった。
