夜のイカロス

 がちゃりとドアが開けられた音に一瞬気を取られたが、入って来た者の慣れ親しんだ匂いで同室の生徒が帰って来たと分かったジャックは振り向きもせず、課題を片付ける手も止めなかった。

「帰って来たのか」
「おう。…………なぁ、ジャック。なんか最近、変だと思わないか?」
「……変?」

 彼が何を指して変だと言っているのか、よく分からなかったジャックは手は止めずにそのまま訊き返す。いつもの彼なら、そこで多少苛ついたように言葉を返すはずなのだが、その口調はどこか震えていた。そこで初めて彼の様子がおかしいと気づいたジャックは今日出された課題を進める手を止めて、振り返る。
 同室の彼は自分のベッドに座ってこちらを見つめていた。 その目にはいつもの覇気が無く、淀んでどこか焦点が合っていないように見えた。その目つきから、何かただならぬものを感じたジャックは珍しくその相談に乗った。

「どうした?」
「や、なんか最近、変な……夢とかも見るし、時々変なもの見る時あんだよ。俺、疲れてんのかな」
「遅くまで起きてるからだろ。寝不足なんじゃねぇのか?」

 ジャックが思い当たることは事実だ。ここのところ、彼は夜遅くまでスマホのゲームをして過ごしていることが多い。好きなキャラクターが来たとか、熱いシーンが来たとはしゃぐ彼の声に何度起こされたかと内心でうんざりする。しかし、そんなジャックの態度にも気が付かず、彼はぼそぼそと言葉を続ける。厭に怯えているな、とジャックは不思議に思った。

「そう……そう、だよな。寝不足なだけ、だよな? ジャック……じゃあ、お、おし、教えてくれよ……。その…………」

 そこまで言って押し黙り、ぎゅうっと震える唇を噛む彼にジャックははっきり言った。

「なんだよ? 言いたいことははっきり言え。こっちだってまだ課題あるんだよ」

 自分の口を押さえ、次第にがたがたと震え出す彼のことは多少心配ではあったが、きっとマジフトの疲れと寝不足で少し情緒不安定になってるだけだろう。

「じゃ、じゃあ、言う、けど……一応、訊くけど、からかってる訳じゃないんだよな?」
「オレがそんなくだらねぇことすると思うか? お前が何を言ってんのかは分からねぇが、悪戯にしてもそんな悪趣味で卑怯な真似はしねぇ」

 彼の言うことにジャックが若干苛立ってきていると分かったのか、彼は「わ、分かった」と言って、恐々とジャックの背後を指した。否、正確には背後にある窓だ。最近、模様替えをして向き合う形にしたジャックの机が配置されている、その窓。しかし、ジャックが振り返って見ても、そこには何もいない。不思議そうに首を傾げ、再び彼の方へと向き直る。きっと変な夢を見て精神がすり減っているのだろう。情けない奴、と思っていたジャックは次の言葉に何も言えなかった。

「何だよ、何もいねぇじゃねぇか」
「い……いるんだよっ! そこにっ! み、見えないのかよ、ジャック……!!?」

 依然としてジャックが困惑していると、次第に彼の怯えようは尋常ではない色を帯び、とうとう耐えられなくなったのか、彼は「うわぁああああああっ!! 来るなっ! 来るなぁあああああっ!!!!」と叫んで部屋を飛び出して行った。

「お、おいっ! 危ねぇぞ!? そっちに行ったら――」

 落ちる、と続くはずだった言葉は飛び出して行った彼の姿が真下に消えたことによって紡がれることは無かった。シン、と静まり返った場に残ったのは落ちた彼の衝撃でゆらゆらと揺れる手摺代わりのロープと困惑しきりのジャックだけだ。

「何だってんだ、一体――」

 びくっと柄にも無く、ジャックは恐怖で硬直した。背後の窓。そこにいつの間に付いたのか、真っ赤な手形があった。それも、まるでこちらに来ようとしているかのように叩き、ひっかいたような跡。それに加え、更に彼の恐怖を駆り立てたのは足元だった。

「なん……だ、これ」

 そこには足跡があった。手形と同じように真っ赤なそれは引きずるような軌跡を残して出て行った彼の後を追うように廊下へと続いている。まるで全身血塗れの人物が窓を開けて部屋に入って来たような、そんな跡だ。足跡は部屋の電灯に照らされ、ぬらぬらと不気味に光を反射している。まだ新しいそれに改めて少し背筋が寒くなる。

「取り敢えず、レオナ先輩とラギー先輩に報告を――」

 先程のことと共にこの部屋の状態も含めて二人に報告しなければと思いつつ、ジャックは何気なくドアの方を見た。
 外の月明かりに照らされた人影が立っていた。
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