夜のイカロス

 魔法の絨毯から地面に降り立ったカリムは「着いたー!」と伸びをする。今日は月に一度の絨毯を洗う日だ。いつものように先に降り立った主人の後を追うようにしてジャミルも絨毯から降りつつ、「先に行くな、カリム」と注意する。殆どの寮生達が寝静まったこんな時間に外出することは殆ど無いせいか、カリムはいつもより少しだけ気分が高揚しているようだ。今日は月が出ていて、先月よりは明るい。丁度、半分の形になった月が浮かんでいる。これならいつもより早く済むだろう。
 着いた先は枯れたオアシス。いつもは枯れているが、カリムのユニーク魔法をもってすれば、蘇らせることもできる。

「じゃあ、いつも通りにやるかっ! 『歌え! 踊れ! 枯れない恵み』!」

 元気なその声と共にざあ、と雨が降って来る。柔らかい冷たさのそれはあっという間にオアシスを満たし、先程までの侘しい砂漠はどこへやら、豊かな景色へと変貌させていった。そうして、枯れた土地にたっぷりの水が満たされると、カリムはようやく魔力の流れを止めて雨を止ませた。オアシスの変わり様にジャミルは少々呆れたような顔をする。

「全く……いつも思うが、絨毯一枚洗うのにこんなに水は必要ないだろ」
「良いじゃんか! 絨毯を洗うついでにジャミルも一緒に水浴びしようぜ!」

 そう言って、絨毯を入れるよりも先に服を脱ぎ始めてしまう主人にジャミルがまた注意する。

「またそうやってお前は……って、おい! いきなり脱ぎ出す奴があるか! それに夜に水浴びなんてしたら死ぬぞ」
「平気だって。だってこんなにあったかいんだからさ!」

 砂漠の夜は寒い。昼間とは違って極寒になることもあるのだが、何故か今日は春のように暖かかった。これなら水浴びをしても風邪をひくことは無いだろう。大雑把に脱いだ服をぽいぽいとその辺に置く、というよりは最早投げていく主人の後始末をするのはいつも従者であるジャミルだ。咄嗟に魔法で地面に付くぎりぎりのところで浮かせ、砂埃で汚れることだけは避ける。

「カリム。もう子供じゃないんだから、脱いだ服をその辺に放るのは止めろと何回言えば分かるんだ!?」

 怒声でカリムと絨毯を飛び上がらせたジャミルは、反射的に逃げようとした絨毯を引っ掴み、ずんずんとオアシスの中に入っていたカリムへ迫る。寮服のズボンは濡れるが、後で魔法で乾かせばいいだけだ。その剣幕にさすがのカリムも水の中に縮こまって「ご、ごめんなぁ、ジャミルぅ……」としょぼくれる。そんな彼に構わず、ジャミルは魔法の絨毯を水の中にゆっくりと沈めた。じんわりと水が染み込み、広がって行く。その様を見つめていたカリムにジャミルは「もう少し離れてろ」と指示を出す。端まで広げるには主人の立ち位置は邪魔に感じたからだ。ジャミルの指示に素直に従ったカリムは彼の背後に回り込み、彼が絨毯を沈めていく姿を見守る。
 その時、ふとカリムは思った。今のジャミルは隙だらけだな、と。一度そう思うと、何故かカリムの意思とは裏腹に体が勝手に動いた。いきなりジャミルの後頭部を鷲掴み、暴れるジャミルをそのまま水の中に無理矢理沈ませる。その瞬間、カリムははっと我に返り、慌てて手を放そうと力を込めるが、彼の意思に反して手は固定でもされているかのように全く動かない。それどころか、手は暴れるジャミルを尚も押さえ込み、更に深く沈ませようとしている。

「やめろ……」

 段々と暴れることも難しくなってきたのか、ジャミルの体から力が抜けていくのが手を伝ってくる。血の通う温かさが次第に無くなり、冷たい水の中に溶けていく。

「やめろ、やめてくれ……」

 そうして完全にジャミルが脱力すると、ようやくカリムの手は離れた。ばしゃんっと水の中で尻餅をついたカリムは荒くなった呼吸を整えようと吸っては吐いて、吸っては吐いてを繰り返す。痛いほどの静寂の中、彼の呼吸音だけが辺りに響いている。ぽた、ぽた、と水なのか冷や汗なのか分からない液体がカリムの頬を伝う。ぷかり、とうつ伏せに浮かぶジャミルを前に、カリムは両手で顔を覆った。

「ふっ……うぅ……っ」

 初めて人の命を奪う。その生々しい感覚と胸を押し潰さんとしている罪悪が容赦なくカリムを蝕む。まるで巨人の靴に踏み付けられているかのようなその絶望に彼はただただなす術も無く、啜り泣くことしかできなかった。



「っ……!」

 はっとカリムは目を覚ました。いつの間にか暑くもないのに大量の汗をかいている。一瞬、自分がどこにいるのか分からず、現実感をまるで伴っていないことに体が硬直していた。必死に目だけを動かして周囲に危険が無いか本能的に確認すると、ようやく彼は冷えた指先に力を込めて上体を起こした。

「はぁ……はぁ……はぁ……。……い、今――今のは……?」

 未だ少し混乱している頭が窓の隙間から入って来た外気に触れ、少しだけ冷静さを取り戻す。やっと呼吸が整った頃、ようやく彼は先程まで見聞きしていたもの全てがただの夢なのだと悟った。

「なんだ……夢、か……」

 落ち着こうと溢された言葉は、彼の心を慰めるには至らず、ただ却って彼の胸を更にざわつかせただけだった。
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