夜のイカロス

 モストロ・ラウンジの盛況具合にアズールは満足そうに笑んだ。今日の客入りも上々。今月も無事黒字になりそうで一安心だと思っていると、不意に華やかで賑やかなこの場に似つかわしくない『匂い』を感じた。不思議に思い、アズールは背後を振り返る。
 そこは水槽。その辺りから『匂い』はしているようだった。

「?」

 しかし、アズールの嗅覚を以てしても『匂い』の元を特定できない。てっきりどこか一ヶ所からしているものだと思っていたのだが、どうにもこの『匂い』は水槽全体からしているように感じる。営業時間中に水槽に手を付いて嗅ぎ回る訳にもいかない彼はしばらくの間、水槽をじっと見つめていると、通りがかったフロイドが顔を覗き込んでくる。

「たこちゃん、なぁにしてんのぉ~?」

 一見、上機嫌な様子のフロイドだったが、アズールがそちらを見つめるだけで無言を貫いていると、「そこ立ってられるとクッソ邪魔なんだけど。ヘルプ入る気無いんだったら、奥引っ込んでろよ」と笑顔だけを削ぎ落とした顔をする。最早見慣れたその顔はアズールにとっては怖くも何とも無い。ただ、ここで確証の持てない情報を与えるのは得策ではない。今はまだ言うべきではないだろうと判断すると共に、はた、とアズールは気付いた。
 ウツボは元々肉食魚で、蛸よりは匂いに敏感だと思うのだが、それは人魚でも例外は無い。だが、ウツボの人魚であるフロイドのこの態度からこの『匂い』に気付いている素振りは無い。些か妙だが、それは後で考えれば良いことだと思い、「いえ……何も。今日はヘルプに入るほど、混雑はしていないでしょう。僕はただ様子を見に来ただけです」とだけ言い残して再びVIPルームへ引き返した。背後で「…………はあっ!?」と少々キレるフロイドの声が響いていた。

 VIPルームに戻ってからもまだ『匂い』は続いていた。本当にこれはどこからしているのか。発生源がホールの水槽なら、VIPルームにまで漂ってくるのはおかしいと思うのだが、未だ発生源を特定しきれていないせいで確信が持てない。VIPルームにもホールほどではないが、水槽がある。正確には海の中にあるオクタヴィネル寮の外を映しているだけの、謂わば窓なのだが、『匂い』はそこからもしているような気がするのだ。何気なく窓の向こうを見たアズールの目はある一点で止まる。

「……ん? ゴミか?」

 それは黒く、小さな点だった。窓に付いた汚れかと思い、デスクから立ち上がって近くで観察しようとよく見てみる。

「全く……今日の掃除は確かジョットさんでしたね。常日頃から汚れには気を付けろと言っていたのに。後で厳重注意……を…………は?」

 アズールが窓の汚れだと思っていた黒点を手袋で拭くが、消えない。否、よくよく目を凝らして見れば、それは汚れなどではなかったからだ。

「え? なん……だ……? ……!?」

 そして、彼は気付いてしまった。それがもぞもぞと蠢いていることに。もっとよく見てみれば、それが海中の暗がりからこちらへ真っ直ぐ向かってくる人影だということに気が付いてしまった。
 人魚の影ではない。それは五体満足の手足をまるでマラソンか何かのように全力で振ったり、踏み込んだりして走って来ているのだった。踏み込む地面などありはしない海の中を。何者かが。
 それが分かった途端にアズールの背をぞっとしたものが駆け上がる。

「冗談じゃないぞ……!」

 正体不明のものなんかに営業妨害されては堪らない。彼が真っ先に考えたのはそんなことだった。どうせあんなものは生徒の悪戯に決まっている。幻影魔法か、魔法薬を飲んだ誰かがあんな真似をしているのだ。忌々しい!
 そう結論付けたアズールは急いで踵を返し、あのふざけた人影を迎え撃とうとホールへ戻った。

「おや、どうかしましたか? アズール」
「ジェイド、フロイドを呼んできて下さい。理由は後で話します」

 ホールへ戻ると丁度、ジェイドがオーダーを取りに行くところだったらしく、アズールはすかさず呼び止める。彼の表情と言葉で緊急事態だと迅速に理解したジェイドは「畏まりました」と言ってすぐに片割れを捜しに行った。これで安心だ。フロイドのユニーク魔法があれば、もしもの時に備えられる。後はあの影の正体を突き止めるだけ。
 そう、安心して良いのだ。なのに、何故か胸を支配する焦燥感が消える気配は無い。それどころか、それは益々強くなるばかりだ。なんだ……? 僕は何をこんなに心配している?
 胸の中がざわざわとして落ち着かない。一刻も早くここから逃げなければならないような気もしている。だが、アズールはすぐに馬鹿なと思い直した。ここは自分が治める寮だ。ここより安心できる場所など他にはない。何も心配する必要も無い。そう確信を得ようともう一度、水槽へ目を移した。

「ひぃ……っ!?」

 水槽へ視線を泳がせた途端、アズールは恐怖で固まった。あの人影は依然としてこちらを目指して真っ直ぐ海中を走って来る。しかし、その姿はこの短時間ではっきりと目視できるほど、距離を縮めていた。もう誰が見てもはっきりとこちらへ走って来る姿を確認できる。それはこの距離でもやはり、真っ黒い人型の影にしか見えなかった。なのに、周囲の様子を見ても、誰もあの影に気が付いた様子は無い。おかしい。自分にはこんなにはっきり見えているのに。おかしい。おかしい。おかしい。おかしい。おかしい。おかしい。

「ジェイドぉ~。オレ、忙しいって言ってんじゃん!」
「まぁ、そう言わずに。フロイド。連れて来ましたよ、アズール」

 背後から双子の声がして、人影に意識を集中させていたアズールはびくっと必要以上に驚いてしまう。双子はそんな彼の姿をにやにやとした笑みを浮かべて見ていたが、振り返ったアズールの顔色が良くないことに気付き、今度は双子の方が驚くことになった。

「……どしたの? アズール」
「何かあったのですか? 顔色が真っ青ですよ」

 まさか、この二人にも?
 震える指で水槽の向こうを示すアズールは恐る恐る口を開いた。

「お前達、あれが、見えますか……?」

 双子はアズールの指先を見るが、一様に不思議そうな顔をするばかり。そして、アズールが最も恐れていた言葉を紡いだ。

「……何がでしょうか」
「ねぇ、アズール。何かあんの? 何も無いじゃん」

 二人共、忙しい時間帯にわざわざ彼が自分達を呼びつけてこんなことをするとは思えないと同時にこの忙しい時間に何をしているんだという気持ちもある顔をして小首を傾げている。
 あの人影は自分にしか見えていない。そう確信を持ってしまったアズールは更に顔色を悪くさせて水槽を見た。人影はもう程近い。あともう少しで水槽のガラスにぶつかる勢いだ。その影が大きくなるにつれてアズールの呼吸は身に迫る恐怖ではっはっと浅く、乱れていく。

「そんな……バカな……!」
「アズール? ねぇ、大丈夫?」
「アズール!? しっかり!」

 上手く息ができていないアズールはその場に膝を付き、ジェイドがそれを支える。そうしている間にも、影は一切スピードを緩めず、向かって来る。

「嘘だ……! だって……!」

 双子の声もどこか遠い。やがて、アズールの目の前までその人影は走り込み、水槽のガラスに勢いよく貼り付いてこちらを凝視するように顔面らしき部分をぐぐぐ、と押し付けてくる。しかし、その顔らしき部分に『顔』と呼べるものは何一つない。ただのっぺりとした表面をガラス面へ押し付け、無理やりこちらへ入って来ようとしているようだった。
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