夜のイカロス

「お疲れー」
「押忍! お疲れ様です!」

 陸上部の活動が終わり、少し遅めの夕食が待っていると、デュースは内心楽しみにしていた。いつものように部活メンバー同士で協力し合って――以前、片付けを押し付けようとしてきた先輩達を一年生全員でたこ殴りにし、『片付けは全員でやる』という条件を呑ませた――マットやタイマーを倉庫にしまう。それが終わると、皆大食堂へ一直線だ。もちろん、デュースもジャックも。

「今日は何を食べようか? ジャック」
「何って……食堂のメニューなんかいちいち覚えてねぇよ。メニュー次第だろ」
「ははっ。まぁ、それもそうか」

 食堂へ向かいながらそうやって話していると、ふと、足元が異様に明るいことに気が付いた。見上げると、そこには雲一つない真っ黒い空にぽかりと穴が空いたような月が浮かんでいる。煌々と降り注ぐ月光のお陰で足元がこんなに明るく見えるのか、とデュースは妙に改めて納得する。

「なんか今日は妙に明るいと思ったら、月? が大きいからなんだな」
「……言っとくが、今日は満月じゃねぇぞ」
「なっ……!? わ、分かってる! どっちかって言うと、半分くらいだろ!」
「半分でもねぇけどな」
「ええっ!? そうなのかっ!?」

 こんなに明るいのにと再び夜空を見上げるデュースに倣って、ジャックも同じように見上げる。言われてみれば、確かに丁度半分の上弦の月よりは気持ち膨らんでいるように見える。ジャックも名前は分からないが、上弦の月ではないことは知っていたようだ。

「それでもこんなに明るくなるもんなんだな」
「オレも故郷ではあまり月を見る機会なんて無かったから、月の光がこんなに明るいもんだとは思わなかったな。じゃあ、オレは飯行くぞ」
「ああ、そうだな」

 当然のように一緒に行こうとするデュースを口では「ついて来んな」と注意するジャックだったが、結局いつも一緒に食事を共にしてくれる。それを分かっている上で敢えてデュースは「はいはい、ジャックは優しいもんな」と茶化すのだった。
 食堂に向かおうと再び足を進める。そこでデュースは何となくもう一度月を見たくなって、校舎に入る直前に夜空を見上げた。

「……あれ?」
「どうした?」

 一瞬、視界が何となくぼやけたような、そんな気がした。しかし、次に瞬きをした時にはもう何の違和感も無かった。

「目にゴミが入ったのか……? 大丈夫だ、何でもない」

 軽く目頭の辺りを擦りつつ、デュースはジャックと共に大食堂へと歩を進めた。

 この時間の大食堂には遅くまで練習をしている運動部の他にはちらほらと何人かの生徒がいるくらいで、人数のせいか、がらんとした雰囲気が漂っている。皆疲れているせいか、お陰か、この時間帯に喧嘩が発生することは殆ど無い。デュースはいつものようにトレーを持ってジャックの後ろに並ぶ。人が多い昼間と違って特に待つことなく、料理が並べられたテーブルに着き、皆好きな料理を皿に取って行く。デュースもそれに倣い、チキンライスを中心にオムレツや唐揚げを取って行く。途中、前にいるジャックがサラダも取っているところを見て、なんとなくバツが悪くなったので、デュースも申し訳程度にグリーンサラダを取った。
 適当な席を見付けて座り、ジャックと会話を楽しみつつ食事を済ませて食器を下げると、先輩へ挨拶もそこそこに自分の寮へ帰る。帰ったら入浴して歯磨きをし、今日こそ夜更かししないようにと決意したにも拘わらず、結局部屋に帰ってエース達とお喋りしてしまうのは常のことだった。

 そうしていつものように過ごした翌日、朝からエースの様子が少しおかしいことにデュースが気付いたのは、洗面所に向かう道中だった。ふざけ合いながらエースにぶつかった生徒を見た瞬間、固まった彼を不思議に思い、その肩を掴んで揺さぶればはっとしてこちらをじっと見た後に「なんでもない」と言う。そればかりではなく、洗面所に行ってデュースが歯を磨いていると、突然叫びだしたエースが対面している鏡を殴り始めた時はさすがに驚き、デュースは止めに入る。一体、今日の彼はどうしてしまったのか。顔色も紙のように真っ白で呼吸も少し乱れているのに理由を訊くと、やはり「なんでもない」と答える。本当は休んだ方が良いのだろうが、こういう時のエースは決して他人に弱みを見せないと分かっているので、デュースもそれ以上、どうしたらいいのか分からず、追求できなかった。
 顔色の悪いエースと共に学校へ行こうと談話室へ入ると、丁度トレイが「パイを焼いたから食べて行ったらどうだ?」と美味しそうな片手サイズのパイが山盛りに盛られた皿をテーブルに並べていた。中身は何かと訊くと、チーズミートパイのようだ。そう言われてみれば、チーズと挽き肉の香ばしい匂いが鼻孔をくすぐり、食欲をそそる。見るからに美味しそうなそれをデュースは取り皿に取って一口囓った。さくさくとしたパイ生地の中からとろけたチーズともったりした挽き肉にケチャップと何だか分からないが、スパイシーな香りもする。

「やっぱり、クローバー先輩が作る物は美味いな。エース」

 隣で食べているであろうエースにもそう声を掛けると、何故か彼はもっと顔色を悪くし、口元を必死に手で押さえていたかと思うと、堪えきれずに床へ嘔吐してしまった。この行動にはデュースもトレイも驚き、口々に「大丈夫か?」と声を掛け、トレイが水を持って来る間にデュースが彼の背を摩る。非常に辛そうなエースだが、一言言っておいた方が良いと、内心感じていたことをデュースは口にする。

「そんなに体調が悪かったのか、エース。だからって何もあんなタイミングで吐くことないだろ。体調が悪かったんなら、もっと早く言っておくべきだ」

「クローバー先輩にも失礼だし」と続くはずだった言葉は苦しそうにしていたエースの顔を見た瞬間、発されることなく止まる。

「…………」

 いつもならこういう時、絶対に言い返してくるはずなのだが、エースは何故か一言も発さないまま、じっとこちらを睨んでくる。否、左右それぞれの焦点が合っていないので、正確にはこちらを見ていない。
 エースは白目になる直前くらいのところで瞳を固定し、デュースの方へ顔を向けているだけだった。その目はどことなく、カメレオンを彷彿とさせるものだった。
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