夜のイカロス

 朝、エースとデュースは階下から漂って来る甘い香りに起こされた。ここハーツラビュル寮では珍しくないことだが、その香りにいつもとは違う微かな違和感を覚えた。それが却って二人を起こしたのだ。

「……ん?」
「うぅ……ん……」

 まだ頭が覚め切っていないせいだろうか。エースは少しぼーっとする頭でこの香りの正体を予想してみる。砂糖とアーモンドの香りに何か――微かに鉄のような匂いが混ざっているような。そこまで考えて、はっとその考えに目が覚める。

「そんな訳ないじゃん」

 思わず口をついて出た言葉で自分を納得させる。きっとまだ眠気が勝っている状態だから感じない匂いまで感じたような気がしてしまったのだと。顔でも洗えば、少しはましになるかと思い、エースはもぞもぞとベッドから起き上がった。デュースもその後に続くように起き出し、二人して歯磨きと洗顔の準備をして部屋を出る。

「ふぁ~……ねむ……」
「僕も……」

 共同の洗面所に向かう最中、同じ時間に部屋を出てきた他の一年生達がふざけ合いながら後ろから走って来る。その内の一人がエースを追い越す際、どんと肩同士がぶつかった。

「いって……! おい、気を付けろよ!」

 朝から怠いことになったと思っていたエースの声にふざけ合っていた二人はぴたりと動きを止め、エースにぶつかった方の男子生徒がこちらへ振り返った。首だけを。

「ごめん」

 当たり前のように首だけがこちらへ向いている状況を、エースはすぐには理解できなかった。ただ、後ろを振り向いたにしては妙に真正面を向くな、とは思った。しかし、それもすぐにエースの脳は理解できるところまで行きつき、有り得ない状況への恐怖となって彼を襲う。

「ひっ……」

 体が恐怖と緊張で強張り、それしか声が出せない。その場から動けないでいると、意識の遠いところから誰かに呼びかけられているような気がした。

「……す…………ースッ………………エース!!」

 がしっと肩を掴まれてエースは我に返った。突然掴まれたことに思わず体がびくっと反応する。掴んできた人物を見やると、それは少し心配そうな顔をしたデュースだった。いつの間にか、ふざけ合っていた生徒達の姿は無い。

「お前、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
「……だい、じょうぶ……大丈夫だって。ちょっとぼーっとしてただけ。さっさと行って済ませよ」

 咄嗟にそう言い返して、エースは足を進める。後ろから「あ、おいっ、待てって!」というデュースの声を聞きながら、頭の中では必死にさっきの光景を忘れようとしていた。
 忘れろ、忘れろ、忘れろ、忘れろ、忘れろ。あんなのただの気のせいだって。
 そう自分に言い聞かせる度、却ってさっきの光景が脳に焼き付いてしまうような気がした。

 寮共同の洗面所に着くと既に何人かの生徒達の姿があった。よく見ると、皆同じクラスの面々だったので、エースとデュースは片手を挙げて挨拶すると、彼らもそれぞれ歯磨きしながら応える。何となく彼らと背中合わせになるような位置は避けたかったので、背後に誰もいない列を選んだ。
 いつものように洗面所の鏡に向かい、歯を磨いて顔を洗う。なんてことない日常動作だ。お気に入りのヘアバンドで前髪を上げ、普通に歯を磨いて、泡で洗顔をし、最後に水で泡を全て落とし切る。簡単な工程だ。ぷはっと水に濡れた顔を上げ、鏡で洗い残しが無いか確認しようと目を向けた。鏡越しに見えた背後には、先程の三人が首だけこちらを向いてじいっと見つめている光景だった。無表情の何の光も宿っていない目が、無感動にエースを見つめていた。
 反射的に振り返る。しかし、そこには誰の姿も無い。当たり前だ。背後に誰かいるはずは無い。背後を振り返ると、今度は正面を向くのが怖くなり、エースは殆ど無意識に鏡からなるべく体を離してゆっくり顔を元に戻した。

 鏡いっぱいに三人の顔が見えた。

「いっ……!?」

 まるで凸面鏡に映った時のようにそいつらが鏡の中で上下左右に動く度、顔の一部が異様に拡大されたり、縮小されたりして見える。べったりと付かれた掌の皺まで見える。エースは一瞬、意識を失いかけたが、ふらついた足に気付き、なんとか精神力だけでしっかり床に立つと、握った拳で鏡を思い切り殴った。このまま見つめ合っていれば、正気ではいられないと思ったからだ。しかし、一度だけでは鏡に僅かな罅が入るだけで壊れない。その間にも三人の顔はずっと歪み続けている。
 早く、早く壊さなきゃ。殴る、殴る、殴る、殴る。でも、壊れない。早く壊さないと、オレが壊れる……!!

「ああああああああああっ!!」

 気が付けば、エースは叫んでいた。そうしないと本当に気が狂ってしまいそうだったから。不意に鏡を殴っていた右手を掴まれてエースは焦った。何故、腕が動かないのか理解できずに振り解こうと右手をめちゃくちゃに振ってみる。が、一向に放される気配は無く、それでも必死に振り回していると、左の頬を張られた。その痛みと衝撃があった方を見ると、不審そうな顔をしたデュースがいて、そこでようやくエースはまた彼に助けられたのだと分かった。

「あ……デュー、ス」

 歯磨きの途中だったデュースは口をゆすぐと、改めてエースの方へ向き直る。

「お前、本当に大丈夫か? いきなり叫んで鏡を殴り出したからどうしたのかと思ったぞ」

 若干、引いている様子のデュースにエースは誤解を解くため、説明しようと口を開こうとした。が、それだと自分が一連の現象なのだか、幻覚なのだかに怯えている。あるいは精神がおかしくなっているのかもしれないと告白することになる。そう考えると、今ここでデュースにだけ言うのは、彼自身のプライドを傷付けるような気がして、悩んだ末にエースは「何でもない」と返したのだった。その言葉をどう捉えたのかは分からないが、デュースは「そ、そうか」と言って、それ以上追及することは無かった。
 心中で安堵すると共に頭の片隅で「バカ」と罵る自分がいた。



「お、おはよう。エース、デュース」

 学校へ行く準備を終え、朝食を食べに行こうと談話室へ行くと、トレイが小さめのパイが沢山載った皿を共用テーブルに並べているところだった。二人も挨拶を返して、テーブルに並べられたパイ皿を見やる。どれも同じ大きさで片手で食べられるサイズだ。漂って来る香りは肉とチーズの香ばしいもので、食欲をそそられる。美味しそうだが、いつもと違うトレイの行動に、二人は疑問を持った。

「なんでこんなに沢山パイがあるんですか?」
「うっまそう~。食べていいですか?」
「特に何かあるってわけじゃないんだが、いつもより少し早く目が覚めてな。折角だから、軽く食べられるものを作ってみたんだよ。寮生全員分あるけど、あまり食べ過ぎるなよ」
「やったぁ~! じゃあ、早速……」

 皿から一つチーズミートパイを取って口に運ぶ。立ったままで食べるのは行儀が悪いが、二つほど食べたら学食に行こうとエースは思っていた。確かにトレイの作ったパイの味はいつもと変わらず、そのまま店に出せる程美味しいものだ。

「……ん?」

 でも、何だろう。エースは口内に何か違和感があった。熱いひき肉ととろりとしたチーズの他に、まだ何か入っている、ような。パイから口を離すと、チーズと共に何か黒い糸のような物が入っているのに気が付いた。それも一本や二本ではなく、数本も。いきなり視界に現れた異物にぞっとしたが、指で取り除こうと一口齧ったパイを取り皿に載せた。その拍子にパイの中身が少し零れてしまう。あ、と思い、エースはそちらへ目を向けた。
 ケチャップに塗れたそれは、よくよく目を凝らしてみると、人間の指先だった。

「あ……え?」

 意味が分からない。何故、こんなところに人の指が。あれ? これ、どこから出てきたんだっけ? パイの……中から……。そこまで考えて反射的にデュースの方を見たエースはその場で数回えずいた後、吐いてしまった。

「どうした? エース」

 何故なら、デュースがチーズの代わりに大量の人毛とひき肉とケチャップに塗れた人の指を、美味しそうに食べていたからだった。
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