夜のイカロス
4月1日、監督生は窓を叩く小枝の音で目を覚ました。今日は少し風が強いらしい。がたたっ、という一際大きな物音でさすがのグリムも目を覚ました。
「ふわぁ……。なんだゾ……今の音」
「どうやら、今日は少し風が出ているようだな。ぐりむ、今日は少し早めに出よう。寒いと動きが鈍るし、授業に遅れてしまう」
「え~?」
「遅刻しても良いのか?」
「うぅ~……しょうがねぇんだゾ」
まだベッドから出たばかりで寒いのか、のそのそと鈍い動きで首にリボンを巻くグリム。それを待っている間に監督生は顔を洗い、歯を磨いて厨房から切ったリンゴを持って来ると、グリムと一緒に食べた。そうして軽く食べさせると、学校へ行く準備をし、いつもより少し早く寮を出て行った。
玄関から一歩外へ出ると、ぶわっと冷たい風が下から掬い上げるようにして吹き付けてくる。それに促されるように空を見上げると、遠くに暗く、重い雲が広がっているのが見えた。今日は一雨来るかもしれないと思った監督生は、もう一度玄関のドアを開け、傘立てにある黒い傘を持って校舎へ歩き出した。監督生一人だけなら、別に雨が降ろうと傘は必要ないが、グリムのためだ。
「嫌な予感がするな……」
もう一度空を見上げて、監督生はそう独りごちた。
エーデュースを待ってから朝食を食べようと大食堂前で待つ監督生とグリムは、待っている間、食堂へ入って行く生徒達を何となく観察する。至っていつも見る光景だ。しかし、その中で監督生は何人かの生徒達の顔色があまり良くないことに気付いた。腕章の色を見ても、特に法則性は無い。季節の変わり目という訳でもないのに、とは思ったが、体調不良なら自分で保健室に行くなりなんなりするだろうとあまり気にせずにそのまま待っていると、エースとデュースがやって来た。
「はよー、監督生。グリム」
「おはよう。監督生、グリムも」
「はよう、えーす、でゅーす」
「お前、結局この一年、ちゃんと発音できてねぇじゃん」
「すまぬ。どうも我は横文字が苦手でなぁ」
「横文字って……相変わらず、精神じいちゃんなのね」
「じじいとは失礼な……いや、じじいか。まだまだ若いつもりでいるんだが……」
「いや、冗談に決まってるでしょ! もうマジレスやめろって」
そんな風にじゃれ合っていると、非常に聞き覚えのある声がエースの背後から飛んで来た。
「君達、廊下でふざけるのは止めないか。危ないだろう」
見ると、そこには大食堂に入る列に並んだリドル、トレイ、ケイトの姿があった。リドルは眉をひそめ、呆れたように溜め息を吐いている。しかし、そうしていながらも近くに来るよう手招きしてくる。それに素直に従うエース達に、リドルは自分達の後ろに並ぶよう言った。
「え、良いんですか?」
「この時間はみんな朝食を食べようとして混むからな。今から一番後ろに並ぶと遅刻する可能性が高いぞ」
「こほん。我が寮の生徒が遅刻なんて許されないからね。……まぁ、たまには良いかと思って」
「ほらほら、監督生ちゃんとグリちゃんも」
おいでおいでと手招きするケイトが開けてくれた隙間に、三人と一匹は身を滑り込ませる。その周囲で何人かの生徒が迷惑そうな顔をして抗議したが、トレイとケイトが睨むと、すごすごと引き下がった。何だか今日のリドルは優しいなと監督生は呑気に思っていたが、エースとデュースはその逆で内心、お互い何かやらかしたかと必死に目配せで会話していたが、二人共心当たりが多過ぎて結局分からなかった。
そんないつもと少し違う緊張した朝食を摂り、いつものようにそれぞれの授業へ向かった。
その夜、シルバーはいつものように夢を見ていた。彼は見知らぬ家にいて、窓に向かって椅子に座っていた。家の中は暗い。窓の向こうには白い月が浮かび、仄白い光が降り注いでいる。それだけがこの暗い家の中を明るく照らしていた。その静かで没入しそうな空間に一瞬、シルバーはここがどこなのか分からなかった。知らない家の中、ということも正しく認識できていなかった。
「ここは……?」
思わず椅子から立ち上がろうとしたが、足が動かない。否、足どころか体のどこも動かせないのだ。そこでようやく彼は「ああ、またオレは夢を見ているのか」と直感する。夢を見ている時、彼は多くの場合、途中で夢だと自覚できる。なら、慌てる必要も無いと物語が動くまで待っていることにした。
どこか遠くで鐘の音が聞こえる。ゴォン、ゴォンと聞こえるそれは何かの祝福なのか、それとも別の何かなのか。まさか闇が関わっている夢だろうかと少し身構える。この夢の場合、後ろから来るのだろうかと考えているうちに夢は動いた。
コン コン
目の前の窓が小さくノックされた。目を上げてそちらを見ると、そこには赤い髪の小さな子供が窓越しにこちらを見つめていた。背が小さいのか、ぐっと背伸びをして窓枠に手を掛け、こちらを覗いている。顔に見覚えは無い。そのあどけない表情に敵意は無さそうだと思ったシルバーは、そのまま話をしてみようと思った。
「どうした? そんなところで何をしてるんだ?」
「……あのね、おにいちゃん。ぼく、はいってみても、いい?」
「? ああ、構わないが」
何故、遠慮などするのだろうと思ったシルバーだったが、その子供はどこから入ればいいのかと訊いてくる。それに彼の口は勝手に動いて指示をした。
「オレの後ろに玄関がある。そこから入って来ると良い」
「わかった」
そう言って、赤髪の子供はパタパタと足音を立てて玄関へ回って行く。丁度、シルバーの背後へ。少し、ほんの少しだけ、嫌な予感がした。がちゃり、と背後でドアが開く音がする。体は相変わらず、全く動かない。一瞬、いつもの癖で背後を取られたと思ってしまったが、子供の声でそれは杞憂なのだと思った。
「おにいちゃん、きたよー」
ぱたぱたと子供が入って来る。靴を脱ぐような音がしなかったので、彼は子供は裸足なのだと思った。こんな月夜に裸足で外に佇んでいるのは寒かっただろう、もう少し早く気づいてやれば良かったなと思っていると、子供がシルバーの正面へ回り込んだ。
「なにしてあそぶ?」
そう言って月の光の下に晒された顔は、捻じれていた。目、鼻、口、耳すらもめちゃくちゃに、でたらめに混ぜ合わせて最後に真ん中でぎゅっと絞られたようなその顔を見た瞬間、シルバーの意識は途切れた。
「……はっ!」
がばりと飛び起きる。いつの間にか全身に汗をかいていて、服の中を伝って気持ち悪い。傍らにある置き時計を見ると、二時四十四分を指していた。何となく「嫌な時間だ」とシルバーは思った。しかし、それよりも――
「今の、夢は……」
本当に夢なのだろうか。背中にまだあの椅子の感触が残っているような気がするのだ。
取り敢えず、汗を拭おうとベッドから出ようとした彼は毛布を掴んだ自分の手が微かに震えていることに気付いた。夢を見て怖がる、なんてもう子供ではないのだからしっかりしなければ。何でもない、ただの夢だと自分に言い聞かせて立ち上がった彼はようやくそこで気付いたことに愕然とした。
「何故、オレはあの時、全く動けなかったんだ……?」
彼が持つユニーク魔法の特性上、夢の中で全く動けないなどあるはずがない。しかし、さっきの夢ではまるで金縛りに遭ったかのように自分の意思で動くことはできず、それどころか勝手に動いたではないか。確かにあの時、シルバーの口はこう言った。
「入って来ると良い」と。
今までこんなことは無かったのに、と気づくと彼はしばらくそこから一歩も動けなかった。遠くで、鐘の音が聞こえた気がした。
「ふわぁ……。なんだゾ……今の音」
「どうやら、今日は少し風が出ているようだな。ぐりむ、今日は少し早めに出よう。寒いと動きが鈍るし、授業に遅れてしまう」
「え~?」
「遅刻しても良いのか?」
「うぅ~……しょうがねぇんだゾ」
まだベッドから出たばかりで寒いのか、のそのそと鈍い動きで首にリボンを巻くグリム。それを待っている間に監督生は顔を洗い、歯を磨いて厨房から切ったリンゴを持って来ると、グリムと一緒に食べた。そうして軽く食べさせると、学校へ行く準備をし、いつもより少し早く寮を出て行った。
玄関から一歩外へ出ると、ぶわっと冷たい風が下から掬い上げるようにして吹き付けてくる。それに促されるように空を見上げると、遠くに暗く、重い雲が広がっているのが見えた。今日は一雨来るかもしれないと思った監督生は、もう一度玄関のドアを開け、傘立てにある黒い傘を持って校舎へ歩き出した。監督生一人だけなら、別に雨が降ろうと傘は必要ないが、グリムのためだ。
「嫌な予感がするな……」
もう一度空を見上げて、監督生はそう独りごちた。
エーデュースを待ってから朝食を食べようと大食堂前で待つ監督生とグリムは、待っている間、食堂へ入って行く生徒達を何となく観察する。至っていつも見る光景だ。しかし、その中で監督生は何人かの生徒達の顔色があまり良くないことに気付いた。腕章の色を見ても、特に法則性は無い。季節の変わり目という訳でもないのに、とは思ったが、体調不良なら自分で保健室に行くなりなんなりするだろうとあまり気にせずにそのまま待っていると、エースとデュースがやって来た。
「はよー、監督生。グリム」
「おはよう。監督生、グリムも」
「はよう、えーす、でゅーす」
「お前、結局この一年、ちゃんと発音できてねぇじゃん」
「すまぬ。どうも我は横文字が苦手でなぁ」
「横文字って……相変わらず、精神じいちゃんなのね」
「じじいとは失礼な……いや、じじいか。まだまだ若いつもりでいるんだが……」
「いや、冗談に決まってるでしょ! もうマジレスやめろって」
そんな風にじゃれ合っていると、非常に聞き覚えのある声がエースの背後から飛んで来た。
「君達、廊下でふざけるのは止めないか。危ないだろう」
見ると、そこには大食堂に入る列に並んだリドル、トレイ、ケイトの姿があった。リドルは眉をひそめ、呆れたように溜め息を吐いている。しかし、そうしていながらも近くに来るよう手招きしてくる。それに素直に従うエース達に、リドルは自分達の後ろに並ぶよう言った。
「え、良いんですか?」
「この時間はみんな朝食を食べようとして混むからな。今から一番後ろに並ぶと遅刻する可能性が高いぞ」
「こほん。我が寮の生徒が遅刻なんて許されないからね。……まぁ、たまには良いかと思って」
「ほらほら、監督生ちゃんとグリちゃんも」
おいでおいでと手招きするケイトが開けてくれた隙間に、三人と一匹は身を滑り込ませる。その周囲で何人かの生徒が迷惑そうな顔をして抗議したが、トレイとケイトが睨むと、すごすごと引き下がった。何だか今日のリドルは優しいなと監督生は呑気に思っていたが、エースとデュースはその逆で内心、お互い何かやらかしたかと必死に目配せで会話していたが、二人共心当たりが多過ぎて結局分からなかった。
そんないつもと少し違う緊張した朝食を摂り、いつものようにそれぞれの授業へ向かった。
その夜、シルバーはいつものように夢を見ていた。彼は見知らぬ家にいて、窓に向かって椅子に座っていた。家の中は暗い。窓の向こうには白い月が浮かび、仄白い光が降り注いでいる。それだけがこの暗い家の中を明るく照らしていた。その静かで没入しそうな空間に一瞬、シルバーはここがどこなのか分からなかった。知らない家の中、ということも正しく認識できていなかった。
「ここは……?」
思わず椅子から立ち上がろうとしたが、足が動かない。否、足どころか体のどこも動かせないのだ。そこでようやく彼は「ああ、またオレは夢を見ているのか」と直感する。夢を見ている時、彼は多くの場合、途中で夢だと自覚できる。なら、慌てる必要も無いと物語が動くまで待っていることにした。
どこか遠くで鐘の音が聞こえる。ゴォン、ゴォンと聞こえるそれは何かの祝福なのか、それとも別の何かなのか。まさか闇が関わっている夢だろうかと少し身構える。この夢の場合、後ろから来るのだろうかと考えているうちに夢は動いた。
コン コン
目の前の窓が小さくノックされた。目を上げてそちらを見ると、そこには赤い髪の小さな子供が窓越しにこちらを見つめていた。背が小さいのか、ぐっと背伸びをして窓枠に手を掛け、こちらを覗いている。顔に見覚えは無い。そのあどけない表情に敵意は無さそうだと思ったシルバーは、そのまま話をしてみようと思った。
「どうした? そんなところで何をしてるんだ?」
「……あのね、おにいちゃん。ぼく、はいってみても、いい?」
「? ああ、構わないが」
何故、遠慮などするのだろうと思ったシルバーだったが、その子供はどこから入ればいいのかと訊いてくる。それに彼の口は勝手に動いて指示をした。
「オレの後ろに玄関がある。そこから入って来ると良い」
「わかった」
そう言って、赤髪の子供はパタパタと足音を立てて玄関へ回って行く。丁度、シルバーの背後へ。少し、ほんの少しだけ、嫌な予感がした。がちゃり、と背後でドアが開く音がする。体は相変わらず、全く動かない。一瞬、いつもの癖で背後を取られたと思ってしまったが、子供の声でそれは杞憂なのだと思った。
「おにいちゃん、きたよー」
ぱたぱたと子供が入って来る。靴を脱ぐような音がしなかったので、彼は子供は裸足なのだと思った。こんな月夜に裸足で外に佇んでいるのは寒かっただろう、もう少し早く気づいてやれば良かったなと思っていると、子供がシルバーの正面へ回り込んだ。
「なにしてあそぶ?」
そう言って月の光の下に晒された顔は、捻じれていた。目、鼻、口、耳すらもめちゃくちゃに、でたらめに混ぜ合わせて最後に真ん中でぎゅっと絞られたようなその顔を見た瞬間、シルバーの意識は途切れた。
「……はっ!」
がばりと飛び起きる。いつの間にか全身に汗をかいていて、服の中を伝って気持ち悪い。傍らにある置き時計を見ると、二時四十四分を指していた。何となく「嫌な時間だ」とシルバーは思った。しかし、それよりも――
「今の、夢は……」
本当に夢なのだろうか。背中にまだあの椅子の感触が残っているような気がするのだ。
取り敢えず、汗を拭おうとベッドから出ようとした彼は毛布を掴んだ自分の手が微かに震えていることに気付いた。夢を見て怖がる、なんてもう子供ではないのだからしっかりしなければ。何でもない、ただの夢だと自分に言い聞かせて立ち上がった彼はようやくそこで気付いたことに愕然とした。
「何故、オレはあの時、全く動けなかったんだ……?」
彼が持つユニーク魔法の特性上、夢の中で全く動けないなどあるはずがない。しかし、さっきの夢ではまるで金縛りに遭ったかのように自分の意思で動くことはできず、それどころか勝手に動いたではないか。確かにあの時、シルバーの口はこう言った。
「入って来ると良い」と。
今までこんなことは無かったのに、と気づくと彼はしばらくそこから一歩も動けなかった。遠くで、鐘の音が聞こえた気がした。
