第四章 海神と天使
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「もうっ、あなたなんて知りませんっ!」
そう言ってぷんぷんと怒りながらアムピトリテは自室へ戻って行った。死合った後だというのに元気なものだ、とポセイドンは無表情で見送る。
また喧嘩をしてしまった。前はアムピトリテが読んでいた本を見て内容について話したいと思い、発言すれば、まだそこまで読んでいないと怒り、死合った。その前はアムピトリテが新しく作ったドレスを見た感想が欲しいと言い出し、上手く言えないポセイドンは「お前は何を着ても良いだろう」と言ったら、何故か怒り出して死合った。そして、今日は海を汚す人類共に少し罰を与えようとポセイドンが船を二、三隻沈めたら「可哀想です!」と怒られて死合った。
あの女神は何が気に入らないのか、てんで分からない。ポセイドンが何をしても、最終的には怒り出して死合うのだ。何故だ、と思い、プロテウスを見ても彼はいつも苦笑いを浮かべるだけ。一体、この先もどうすればいいのか、ポセイドンは頭を悩ませていた。
自室に着いたアムピトリテは後ろ手でドアを閉めると、片方の頬を膨らませたまま、お気に入りのチェストに近寄り、お気に入りの紅茶を淹れようとせっせと準備を始める。苛立っている時はポセイドンと話しても、進展が無いと経験で分かっているので、自分の気分を上げた方が有意義な話し合いもできるようになる。そう思って帰って来たのだが、お気に入りのポットとティーカップに茶葉はあるのに、お気に入りの砂糖が切れてしまっていた。
「あら、無いわ。もうっ、折角お紅茶を飲もうと思っていたのに、買いに行くしかないじゃない! …………あ、そうだ!」
何かを思い立ち、アムピトリテは出かける準備をすると、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「折角だから、あそこのパン屋さんにも行きたいわ! ヘスティア様が気になってるって言ってたもの。それに……ポセイドン様とも食べたいし……。そうと決まれば、お砂糖とパンを買って来ましょう!」
歩きやすいように底の低いサンダルにイオニア式キトンを模した白と水色のドレス、サファイアが縁取られたお気に入りのカチューシャを身に着けてアムピトリテは一人出かけていった。と思ったが、部屋を出てすぐにいそいそと戻り、「これを忘れちゃいけないわね」と愛用の三叉槍も持って行く。アムピトリテ用に造られた物で、ポセイドンの物に比べると一回り小さい物だ。お気に入りの白いエナメルバッグとそれを持って、アムピトリテは意気揚々とポセイドンの城を出て行った。
彼女が出て行って少しした後、開け放した窓から細長いものがぼとり、と部屋の中へ落ちる。それは深緑色の鱗を持った一匹の蛇だった。蛇はまるで部屋の中を吟味するように見回し、砂糖が入っていたチェストへ這い上がる。そうして、閉まっているチェストの扉の前でちろちろと数回舌を出し入れしたかと思うと、扉の取っ手部分に自らの頭を押し付け、ぐいと開けた。
そうして、蛇はまんまとチェストの中に忍び込み、アムピトリテお気に入りのティーカップへと近付いた。金色の瞳でしばらくそれを見つめていたかと思うと、彼女は二本の牙を剥き出し、その歯から滴る少量の液体をティーカップに注ぐと、尾で丁寧に塗り付けた。液体が陶器に付着し、みるみる乾いていく。それを見届けると、蛇は「これで良し」と言いたげに頭を振って、チェストから降り、また開け放たれた窓から出て行った。
パンと砂糖を買ったアムピトリテは上機嫌で帰路に就く。というのも、通りがかった本屋で偶然、栞作りの体験会が開かれており、誰でも参加可能ということだったので、作ってみたくなったのだ。読書が好きな自分とポセイドン用にと作った手の中のそれらを見つめ、アムピトリテはふふ、と密かに笑った。帰ったら、パンを食べながら渡そうと大事そうにポケットに入れた。
「どこへ行っていた」
帰って来て早々、不機嫌そうなポセイドンの顔で出迎えられたアムピトリテはむっとした顔をしながらも、正直にパンと砂糖を買いに出ていたと話す。
「? パンなら、配達を利用すれば良いだろう? 砂糖も同様だ。プロテウスに言い付ければ良い」
「わたくしだって、気分転換に外出したい時もあります」
「ならば、余を呼べばいいだろう。一人で行くな」
「喧嘩中の方とお出かけする理由はありませんっ」
「……喧嘩だと? していないだろう」
「まぁ! わたくしとは喧嘩にもならないということですかっ!?」
「……お前とは、いつも死合になっている。だから、喧嘩ではない」
「そ、れは……そうですけど」
それ以上、何も言えずにアムピトリテはもごもごと口の中で何事か呟くが、それがポセイドンに聞こえることはない。そうしていたかと思うと、彼女はばっと顔を上げて「でも、私はまだ許していませんからねっ!」と言ってポケットから栞を取り出し、ポセイドンに押し付けるようにして渡した。
「冷たいあなたはお花でも見て、少しは乙女心でも学んではどうですかっ!? ふん!」
「? これは?」
「別にあなたの為になんて、作ってませんから! たまたま上手く出来たから押し付けるだけですっ!」
「……そうか」
「それじゃ!」と言ってアムピトリテは再び自室へすたすたと向かう。残されたポセイドンは手渡された栞をじっと見つめていたかと思うと、ふ、と微笑み、大事そうにデスクの引き出しへしまった。もう少ししたら、彼女の部屋へ行ってみようと思いながら。
「愚か! わたくしの愚か者……!!」
自室に戻ってすぐアムピトリテはベッドへ突っ伏して自責の叫びを上げた。その叫びは丁度布団とマットレスに衝撃と共に吸収されてしまったため、外に漏れることは無い。布団の上で彼女は大変に後悔していた。
「これではハデスお義兄様のことなんて言えません……!! 折角、ポセイドン様が心配なさって下さったのに、わたくしはもう……本当愚か!」
アムピトリテは以前、若い頃眼力が凄まじ過ぎて女性に全くモテなかった頃のハデスの話を聞いたことがあるが、今の自分はそれと同等、否、それ以上に可愛くないという自覚はあった。何故かアムピトリテはポセイドンと出会ってから、彼の前と他の友神達の前では性格が百八十度変わってしまう性質があった。結婚した当時はこの訳の分からない性質も少しは落ち着くかと思っていたが、日に日に強くなっていくばかりである。まさか、ここまで自分が本命の男性の前で素直になれないとは思っていなかった。バカバカと自分を責めていても始まらない。せめてポセイドンがここに来た時の為にできることをしようと、彼女はベッドから顔を上げて
チェストに近付いた。
「取り敢えず……お茶の用意をしましょう。きっと、次は上手く行く……と思うから」
もっと素直にお話したい。そうは思うが、この頃は少しずつ自信を失っていくのが分かる。次も喧嘩をしてしまったらどうしようという不安が頭をもたげる。が、性格まで暗くなってはいけないと頭を振ってまずは自分の心を落ち着けようと紅茶を淹れた。
お気に入りのティーカップに蒸らした紅茶をゆっくり注ぎ、買って来たばかりのイルカを模した可愛らしい砂糖を混ぜる。濃い赤橙色の紅茶の中に飛び込んだ薄水色のイルカはティースプーンの渦に巻かれてダンスをしているようだった。それが溶け切るのを見届けてから、アムピトリテはゆっくりと口を付けた。あら、とそこで紅茶の味がいつもと少し違うような気がして彼女は不思議そうにカップを見つめる。
何か、おかしい。じわじわと頭の奥からインクが滲むように、次第に頭痛と目眩、吐き気が込み上げてくる。立っていられず、ベッドに横になり、腹の底が段々と熱くなる感覚を覚えた頃にはもう遅かった。
「……っ……あ゛……う゛ぁ……っ!?」
苦しい。喉が何かに焼かれ、塞がれているような感覚がする。体が異常に熱い。その不自然な熱さは増していくばかりで、次第に内蔵を悉く焼き始める。頭の奥で、これは命の危機だという確信があった。だが、ポセイドンに報せたいと伸ばした手はシーツを掴むことしかできない。
「あ゛……ぽ……ポセ…………さ……」
とうとうアムピトリテは仰向けに寝転がり、先に逝ってしまう無念と悔しさから涙を流す。自分の命が後僅かなのだと悟った彼女はせめて何か彼に残したいと、祈りを口にした。
「泣か……な…………で…………」
そうしてアムピトリテは静かに息を引き取った。その頬を伝う涙が一雫、風に流されて行く。それはやがて一粒の光となってやがて、地上界へと落ちていった。
その日、女は夢を見た。一粒の光が自分の腹に宿る夢。それは彼女にとって何か予感めいた確信があった夢だ。愛する夫との子供を望む自分にやっと舞い込んだチャンスのような、天使が報せに来てくれたような予感。
目覚めた時には女には不思議な感覚があった。検査薬を使わずとも妊娠しているという確信があったのだ。それでも一応と検査薬で調べると、思った通りの結果だった。喜びのあまり、女はまだ寝ている夫に抱き付き、少女のような無邪気さで報告すると、夫は寝ぼけながらも共に喜んでくれた。
それから十ヶ月。女の腹に宿った子はすくすくと成長し、夫の助けもあってか、無事に生まれてくることができた。その時の喜びと重さは、きっとこの先ずっと忘れないだろう。名前は何にしようか、と言う夫に女は言った。
「実は前からずっと考えていたの。……千栄理。千栄理が良いわ」
自分の指を小さな手でぎゅっと掴む赤ん坊に、女は愛しいものを見る目を向けていた。
そう言ってぷんぷんと怒りながらアムピトリテは自室へ戻って行った。死合った後だというのに元気なものだ、とポセイドンは無表情で見送る。
また喧嘩をしてしまった。前はアムピトリテが読んでいた本を見て内容について話したいと思い、発言すれば、まだそこまで読んでいないと怒り、死合った。その前はアムピトリテが新しく作ったドレスを見た感想が欲しいと言い出し、上手く言えないポセイドンは「お前は何を着ても良いだろう」と言ったら、何故か怒り出して死合った。そして、今日は海を汚す人類共に少し罰を与えようとポセイドンが船を二、三隻沈めたら「可哀想です!」と怒られて死合った。
あの女神は何が気に入らないのか、てんで分からない。ポセイドンが何をしても、最終的には怒り出して死合うのだ。何故だ、と思い、プロテウスを見ても彼はいつも苦笑いを浮かべるだけ。一体、この先もどうすればいいのか、ポセイドンは頭を悩ませていた。
自室に着いたアムピトリテは後ろ手でドアを閉めると、片方の頬を膨らませたまま、お気に入りのチェストに近寄り、お気に入りの紅茶を淹れようとせっせと準備を始める。苛立っている時はポセイドンと話しても、進展が無いと経験で分かっているので、自分の気分を上げた方が有意義な話し合いもできるようになる。そう思って帰って来たのだが、お気に入りのポットとティーカップに茶葉はあるのに、お気に入りの砂糖が切れてしまっていた。
「あら、無いわ。もうっ、折角お紅茶を飲もうと思っていたのに、買いに行くしかないじゃない! …………あ、そうだ!」
何かを思い立ち、アムピトリテは出かける準備をすると、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「折角だから、あそこのパン屋さんにも行きたいわ! ヘスティア様が気になってるって言ってたもの。それに……ポセイドン様とも食べたいし……。そうと決まれば、お砂糖とパンを買って来ましょう!」
歩きやすいように底の低いサンダルにイオニア式キトンを模した白と水色のドレス、サファイアが縁取られたお気に入りのカチューシャを身に着けてアムピトリテは一人出かけていった。と思ったが、部屋を出てすぐにいそいそと戻り、「これを忘れちゃいけないわね」と愛用の三叉槍も持って行く。アムピトリテ用に造られた物で、ポセイドンの物に比べると一回り小さい物だ。お気に入りの白いエナメルバッグとそれを持って、アムピトリテは意気揚々とポセイドンの城を出て行った。
彼女が出て行って少しした後、開け放した窓から細長いものがぼとり、と部屋の中へ落ちる。それは深緑色の鱗を持った一匹の蛇だった。蛇はまるで部屋の中を吟味するように見回し、砂糖が入っていたチェストへ這い上がる。そうして、閉まっているチェストの扉の前でちろちろと数回舌を出し入れしたかと思うと、扉の取っ手部分に自らの頭を押し付け、ぐいと開けた。
そうして、蛇はまんまとチェストの中に忍び込み、アムピトリテお気に入りのティーカップへと近付いた。金色の瞳でしばらくそれを見つめていたかと思うと、彼女は二本の牙を剥き出し、その歯から滴る少量の液体をティーカップに注ぐと、尾で丁寧に塗り付けた。液体が陶器に付着し、みるみる乾いていく。それを見届けると、蛇は「これで良し」と言いたげに頭を振って、チェストから降り、また開け放たれた窓から出て行った。
パンと砂糖を買ったアムピトリテは上機嫌で帰路に就く。というのも、通りがかった本屋で偶然、栞作りの体験会が開かれており、誰でも参加可能ということだったので、作ってみたくなったのだ。読書が好きな自分とポセイドン用にと作った手の中のそれらを見つめ、アムピトリテはふふ、と密かに笑った。帰ったら、パンを食べながら渡そうと大事そうにポケットに入れた。
「どこへ行っていた」
帰って来て早々、不機嫌そうなポセイドンの顔で出迎えられたアムピトリテはむっとした顔をしながらも、正直にパンと砂糖を買いに出ていたと話す。
「? パンなら、配達を利用すれば良いだろう? 砂糖も同様だ。プロテウスに言い付ければ良い」
「わたくしだって、気分転換に外出したい時もあります」
「ならば、余を呼べばいいだろう。一人で行くな」
「喧嘩中の方とお出かけする理由はありませんっ」
「……喧嘩だと? していないだろう」
「まぁ! わたくしとは喧嘩にもならないということですかっ!?」
「……お前とは、いつも死合になっている。だから、喧嘩ではない」
「そ、れは……そうですけど」
それ以上、何も言えずにアムピトリテはもごもごと口の中で何事か呟くが、それがポセイドンに聞こえることはない。そうしていたかと思うと、彼女はばっと顔を上げて「でも、私はまだ許していませんからねっ!」と言ってポケットから栞を取り出し、ポセイドンに押し付けるようにして渡した。
「冷たいあなたはお花でも見て、少しは乙女心でも学んではどうですかっ!? ふん!」
「? これは?」
「別にあなたの為になんて、作ってませんから! たまたま上手く出来たから押し付けるだけですっ!」
「……そうか」
「それじゃ!」と言ってアムピトリテは再び自室へすたすたと向かう。残されたポセイドンは手渡された栞をじっと見つめていたかと思うと、ふ、と微笑み、大事そうにデスクの引き出しへしまった。もう少ししたら、彼女の部屋へ行ってみようと思いながら。
「愚か! わたくしの愚か者……!!」
自室に戻ってすぐアムピトリテはベッドへ突っ伏して自責の叫びを上げた。その叫びは丁度布団とマットレスに衝撃と共に吸収されてしまったため、外に漏れることは無い。布団の上で彼女は大変に後悔していた。
「これではハデスお義兄様のことなんて言えません……!! 折角、ポセイドン様が心配なさって下さったのに、わたくしはもう……本当愚か!」
アムピトリテは以前、若い頃眼力が凄まじ過ぎて女性に全くモテなかった頃のハデスの話を聞いたことがあるが、今の自分はそれと同等、否、それ以上に可愛くないという自覚はあった。何故かアムピトリテはポセイドンと出会ってから、彼の前と他の友神達の前では性格が百八十度変わってしまう性質があった。結婚した当時はこの訳の分からない性質も少しは落ち着くかと思っていたが、日に日に強くなっていくばかりである。まさか、ここまで自分が本命の男性の前で素直になれないとは思っていなかった。バカバカと自分を責めていても始まらない。せめてポセイドンがここに来た時の為にできることをしようと、彼女はベッドから顔を上げて
チェストに近付いた。
「取り敢えず……お茶の用意をしましょう。きっと、次は上手く行く……と思うから」
もっと素直にお話したい。そうは思うが、この頃は少しずつ自信を失っていくのが分かる。次も喧嘩をしてしまったらどうしようという不安が頭をもたげる。が、性格まで暗くなってはいけないと頭を振ってまずは自分の心を落ち着けようと紅茶を淹れた。
お気に入りのティーカップに蒸らした紅茶をゆっくり注ぎ、買って来たばかりのイルカを模した可愛らしい砂糖を混ぜる。濃い赤橙色の紅茶の中に飛び込んだ薄水色のイルカはティースプーンの渦に巻かれてダンスをしているようだった。それが溶け切るのを見届けてから、アムピトリテはゆっくりと口を付けた。あら、とそこで紅茶の味がいつもと少し違うような気がして彼女は不思議そうにカップを見つめる。
何か、おかしい。じわじわと頭の奥からインクが滲むように、次第に頭痛と目眩、吐き気が込み上げてくる。立っていられず、ベッドに横になり、腹の底が段々と熱くなる感覚を覚えた頃にはもう遅かった。
「……っ……あ゛……う゛ぁ……っ!?」
苦しい。喉が何かに焼かれ、塞がれているような感覚がする。体が異常に熱い。その不自然な熱さは増していくばかりで、次第に内蔵を悉く焼き始める。頭の奥で、これは命の危機だという確信があった。だが、ポセイドンに報せたいと伸ばした手はシーツを掴むことしかできない。
「あ゛……ぽ……ポセ…………さ……」
とうとうアムピトリテは仰向けに寝転がり、先に逝ってしまう無念と悔しさから涙を流す。自分の命が後僅かなのだと悟った彼女はせめて何か彼に残したいと、祈りを口にした。
「泣か……な…………で…………」
そうしてアムピトリテは静かに息を引き取った。その頬を伝う涙が一雫、風に流されて行く。それはやがて一粒の光となってやがて、地上界へと落ちていった。
その日、女は夢を見た。一粒の光が自分の腹に宿る夢。それは彼女にとって何か予感めいた確信があった夢だ。愛する夫との子供を望む自分にやっと舞い込んだチャンスのような、天使が報せに来てくれたような予感。
目覚めた時には女には不思議な感覚があった。検査薬を使わずとも妊娠しているという確信があったのだ。それでも一応と検査薬で調べると、思った通りの結果だった。喜びのあまり、女はまだ寝ている夫に抱き付き、少女のような無邪気さで報告すると、夫は寝ぼけながらも共に喜んでくれた。
それから十ヶ月。女の腹に宿った子はすくすくと成長し、夫の助けもあってか、無事に生まれてくることができた。その時の喜びと重さは、きっとこの先ずっと忘れないだろう。名前は何にしようか、と言う夫に女は言った。
「実は前からずっと考えていたの。……千栄理。千栄理が良いわ」
自分の指を小さな手でぎゅっと掴む赤ん坊に、女は愛しいものを見る目を向けていた。
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