第四章 海神と天使
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ゲルの悲鳴が木霊する。今、小次郎と共に戦っているのは次女フリストだからだ。小次郎の神器は見るも無残な真っ二つに折られ、背後に折られた刀身が落ちた。その姿を見た人類側の誰もが深い絶望に呑まれているのが表情で分かる。さしもの佐々木小次郎も刀を折られてしまえば、戦意喪失したのか、折られた刀を呆然と見つめ、地面に膝を付く。
「ま…………参った。って、言いてえところだがな」
しかし、彼の戦意は喪失などしていなかった。再び立ち上がり、折られた刀を何故か感慨深げに見つめている。
「今回は……そうもいかねえんだ」
これ以上、何ができるというのだ。武器を失い、後はもう殺されるのを待つ身の程がまだ分かっていない愚か者か狂人なのか。少しの間そうしていたかと思うと、小次郎は脇腹から流れる血に構わず、折られた刀身に向かって一歩一歩、歩み寄って行く。まだ戦う意思があることにも少々驚くものだが、もう使い物にならない武器を拾いに行くという行為は理解に苦しむ。ポセイドンは所詮、耄碌した老人の戯言として小次郎の言葉を聞いていた。
「なあ、海の神様よぉ……。ちょっと訊いてもいいかい?」
何も応えないポセイドンの沈黙を勝手に了承と取ったのか、小次郎は続ける。
「あんた……素振りをしていたら、夜が明けていた……なんてことあるか?」
何を言っている? ポセイドンには小次郎が何を言いたいのか、よく分からなかった。生来完璧な存在である神にとって、小次郎の言う修行とやらをする必要は無い。修行や鍛錬という努力など、それこそ人間や凡神――己の力が足らぬ者がすることだ。ポセイドンの表情に一切変化が無いことを確認して彼は続ける。
「己を強くしてくれた相手に感謝の涙を流したことがあるか? 死合った相手を――死ぬほど愛しく思ったことがあるか?」
その主張は神であるポセイドンにとって、一考の価値も無かった。いつでも己の敵に抱くのは怒りか、無関心であるからだ。王が、神たる者が殺す相手のことをいちいち覚えている訳が無い。蟻を踏み潰したところで、その個体のことを覚えているだろうか。そもそも潰した蟻の識別自体が困難で、潰したこと自体が些事であるが故に、そんな価値は無い。
一歩一歩、しっかり地面に足を付けてようやく折れた刀身まで辿り着くと、そっと小次郎はそれを拾い上げた。
「……いや、いい。悪かった」
右手に折れた刀、左手に折れた刀身を握った小次郎はこちらへ振り返り、まるでやんちゃな孫を見るような目を向けてきた。その目には諦観とも取れる笑みが浮かび、そんな目と感情を向けられることがポセイドンは不快だった。
「ねえだろうなぁ? ……剣 はな――バカな漢達が重ねし歴史 だ」
ぎゅっと小次郎が強く両手を握り締める。左手の指が刃に食い込み、五指が切り落とされるのではないかという勢いで血が噴き出るのも構わず、小次郎は続ける。
「誰の思いも背負ったことがねえオマエさん如きに――吾が負ける訳にはいかねえんだよ!!」
折れた刀が小次郎の手の中で輝き出す。それは二本の光の柱となって小次郎に新たな武器として形を成し、与えた。右手に長刀、左手に小太刀となったそれを握って彼は勝ち気に笑んだ。
「参る」
その妙に凝った演出のせいか、観客が厭に感動している中、小次郎は笑みを深くし、両手の刀を構えた。その顔に浮かぶのは歓喜、希望。
「さぁ、まだ終わっちゃいない。心ゆくまで闘ろうぜ? 海の神様」
どこまでも滑稽で白ける存在。本来の人間の姿を見せられ、ポセイドンはこのくだらない余興を終わらせようと一歩近付いた。戦うのなら武器の交換くらいさっさと済ませるべきだが、ただの通過点にそんな期待をすること自体、無駄なことだ。もうこいつの相手をするのも、いい加減気怠くなってきた。
「……雑魚が」
互いに呼吸を合わせ、殆ど特に何も考えずに繰り出された海のうねりのような連撃がまた小次郎を襲う。しかし、先程までの必死な様子とは打って変わって、小次郎は至って冷静にそれらを防ぎ、いなし、躱していた。その動きはより洗練され、鋭く静かに反撃が始まった。
ポセイドンの攻撃に合わせてまた彼も自らの動きを水のように変化させ、時に大地に流れる川のように、また時に岩に打ち付ける激しい波のように、また時に螺旋を描く渦潮のようにポセイドンの突きを防ぎ、避け、遂には彼の攻撃すら封じつつ、その頬に一撃を見舞ったのだ。
鋭い痛みがポセイドンの頬を撫で、一筋の血が流れ出る。それだけでは終わらず、小次郎は続け様に左肩、右拳、両脇腹へと斬撃を見舞う。最後の一刀を跳んで避け、返しの一撃で仕留めようと突き出されたポセイドンの槍を寸でのところで二刀で止めた。
攻撃を止められた。その事実にポセイドンの苛立ちはまた少し増したが、同時にこうも思っていた。さすがに手を抜き過ぎたか、と。
「こ……こんなことがあって良いのだろうか!? 海のゼウス、ゼウス・エナリオスと畏怖されるあのポセイドン様が……傷だらけだぁああ!!」
騒々しいヘイムダルの声と純然たる事実に神々は驚き、呆然としている。それに対して人類の虫共が蛆のように湧き上がり、無責任な熱狂の渦に飲み込まれる。醜悪なその光景には一切目を向けず、ポセイドンはただ自身の体を撫でていった斬撃から零れ落ちた血を手に取り、眺めていた。
血だ。己の血を見るのは、何千年振りだろうか。否、今まで見たことなど何度あったろうか。それが今、ここにある。ヘマタイトの生気が掌を清め、その温かさが確かな命の脈動を感じる。余は、生きている。それが己の内から血と共に溢れる高揚と歓びとなって、ポセイドンの心臓を飾っていた。
いつの間にか口ずさんでいた鼻歌を止め、自らの顔へ塗り付け、髪をかき上げる。勿体ない、と思ったのだ。耳に揺れるピアスだけでなく、こちらにも飾った方がより強く漲る生気を感じられる気がした。髪に付かなかった分の血を払い、目の前の獲物に対して口を開く。
「余の全てを読めた――……などと、驕りが過ぎる」
もう少しまともに相手をしてやるか。そう思ったポセイドンは槍を掴む腕にぐっと力を込め、突き出した。ただ、それだけだ。ただそれが目の前の人間にとって、神速を伴う重い一撃だったことは容易に窺えた。左肩を少し抉られ、血が噴き出す様を見て焦った様子の小次郎は咄嗟に後退し、距離を取る。神であるヘイムダルですらこの一撃を目することができなかったようだった。
「は、速い――!? 今のは『突き』か!? 小次郎が再び三叉槍漢字 を受けたぁああ!!」
読めるものなら、読んでみろ。この余がまともに相手をしてやるのだ。精々、死にかけの虫のように足掻いて楽しませてみろ。
幼い子供が遊ぶ為だけに手に入れた虫の羽を?ぐような、いっそ無邪気なまでの残酷さでポセイドンは続け様に二撃目を放つ。この死合が始まってからずっと狙っている頭部に当てるつもりだったが、小次郎が咄嗟に頭を左に逸らし、額を切り付けるだけに終わる。折角、全身を切り刻んでくれたのだから、こちらもしっかりと返礼 をせねばなるまい。少しでも油断すれば、頭を切り飛ばされる恐怖を味わうがいい。三撃目。これも二刀で受け流され、躱される。ポセイドンは少しだけ楽しみになってきた。果たして、此奴が後どれほど保つのか、試してみたくなったのだ。一撃一撃、重い刺突は段々と数と速さを増していき、やがてそれは上空からドームのような形で一斉に襲い掛かって行く。以前、ハデスにも繰り出して簡単に止められた四十日四十夜の大洪水 だ。ただの人間に出してやるには勿体ない神業だが、あまり舐め過ぎると神の威光に疵が付く。これ以上、調子に乗らせる訳にはいかない。
小次郎は四方八方から襲い来る槍を神経を研ぎ澄まして二刀で弾き続けるしかできない。と思われたが、僅かな隙を見付けては反撃に出る。が、ポセイドンの動きが速すぎて残像を斬り付けるだけに終わってしまう。そして、その一刀が終わるとまたそれ以上に速い刺突の嵐が襲ってくる始末。さすがにこれ程の攻撃を全ていなし、避け続けるのは限界がある。先読みが得意な小次郎故に己の限界がすぐそこまで見えてきて、肉体より先に心が折れかけていた。
「ま…………参った。って、言いてえところだがな」
しかし、彼の戦意は喪失などしていなかった。再び立ち上がり、折られた刀を何故か感慨深げに見つめている。
「今回は……そうもいかねえんだ」
これ以上、何ができるというのだ。武器を失い、後はもう殺されるのを待つ身の程がまだ分かっていない愚か者か狂人なのか。少しの間そうしていたかと思うと、小次郎は脇腹から流れる血に構わず、折られた刀身に向かって一歩一歩、歩み寄って行く。まだ戦う意思があることにも少々驚くものだが、もう使い物にならない武器を拾いに行くという行為は理解に苦しむ。ポセイドンは所詮、耄碌した老人の戯言として小次郎の言葉を聞いていた。
「なあ、海の神様よぉ……。ちょっと訊いてもいいかい?」
何も応えないポセイドンの沈黙を勝手に了承と取ったのか、小次郎は続ける。
「あんた……素振りをしていたら、夜が明けていた……なんてことあるか?」
何を言っている? ポセイドンには小次郎が何を言いたいのか、よく分からなかった。生来完璧な存在である神にとって、小次郎の言う修行とやらをする必要は無い。修行や鍛錬という努力など、それこそ人間や凡神――己の力が足らぬ者がすることだ。ポセイドンの表情に一切変化が無いことを確認して彼は続ける。
「己を強くしてくれた相手に感謝の涙を流したことがあるか? 死合った相手を――死ぬほど愛しく思ったことがあるか?」
その主張は神であるポセイドンにとって、一考の価値も無かった。いつでも己の敵に抱くのは怒りか、無関心であるからだ。王が、神たる者が殺す相手のことをいちいち覚えている訳が無い。蟻を踏み潰したところで、その個体のことを覚えているだろうか。そもそも潰した蟻の識別自体が困難で、潰したこと自体が些事であるが故に、そんな価値は無い。
一歩一歩、しっかり地面に足を付けてようやく折れた刀身まで辿り着くと、そっと小次郎はそれを拾い上げた。
「……いや、いい。悪かった」
右手に折れた刀、左手に折れた刀身を握った小次郎はこちらへ振り返り、まるでやんちゃな孫を見るような目を向けてきた。その目には諦観とも取れる笑みが浮かび、そんな目と感情を向けられることがポセイドンは不快だった。
「ねえだろうなぁ? ……
ぎゅっと小次郎が強く両手を握り締める。左手の指が刃に食い込み、五指が切り落とされるのではないかという勢いで血が噴き出るのも構わず、小次郎は続ける。
「誰の思いも背負ったことがねえオマエさん如きに――吾が負ける訳にはいかねえんだよ!!」
折れた刀が小次郎の手の中で輝き出す。それは二本の光の柱となって小次郎に新たな武器として形を成し、与えた。右手に長刀、左手に小太刀となったそれを握って彼は勝ち気に笑んだ。
「参る」
その妙に凝った演出のせいか、観客が厭に感動している中、小次郎は笑みを深くし、両手の刀を構えた。その顔に浮かぶのは歓喜、希望。
「さぁ、まだ終わっちゃいない。心ゆくまで闘ろうぜ? 海の神様」
どこまでも滑稽で白ける存在。本来の人間の姿を見せられ、ポセイドンはこのくだらない余興を終わらせようと一歩近付いた。戦うのなら武器の交換くらいさっさと済ませるべきだが、ただの通過点にそんな期待をすること自体、無駄なことだ。もうこいつの相手をするのも、いい加減気怠くなってきた。
「……雑魚が」
互いに呼吸を合わせ、殆ど特に何も考えずに繰り出された海のうねりのような連撃がまた小次郎を襲う。しかし、先程までの必死な様子とは打って変わって、小次郎は至って冷静にそれらを防ぎ、いなし、躱していた。その動きはより洗練され、鋭く静かに反撃が始まった。
ポセイドンの攻撃に合わせてまた彼も自らの動きを水のように変化させ、時に大地に流れる川のように、また時に岩に打ち付ける激しい波のように、また時に螺旋を描く渦潮のようにポセイドンの突きを防ぎ、避け、遂には彼の攻撃すら封じつつ、その頬に一撃を見舞ったのだ。
鋭い痛みがポセイドンの頬を撫で、一筋の血が流れ出る。それだけでは終わらず、小次郎は続け様に左肩、右拳、両脇腹へと斬撃を見舞う。最後の一刀を跳んで避け、返しの一撃で仕留めようと突き出されたポセイドンの槍を寸でのところで二刀で止めた。
攻撃を止められた。その事実にポセイドンの苛立ちはまた少し増したが、同時にこうも思っていた。さすがに手を抜き過ぎたか、と。
「こ……こんなことがあって良いのだろうか!? 海のゼウス、ゼウス・エナリオスと畏怖されるあのポセイドン様が……傷だらけだぁああ!!」
騒々しいヘイムダルの声と純然たる事実に神々は驚き、呆然としている。それに対して人類の虫共が蛆のように湧き上がり、無責任な熱狂の渦に飲み込まれる。醜悪なその光景には一切目を向けず、ポセイドンはただ自身の体を撫でていった斬撃から零れ落ちた血を手に取り、眺めていた。
血だ。己の血を見るのは、何千年振りだろうか。否、今まで見たことなど何度あったろうか。それが今、ここにある。ヘマタイトの生気が掌を清め、その温かさが確かな命の脈動を感じる。余は、生きている。それが己の内から血と共に溢れる高揚と歓びとなって、ポセイドンの心臓を飾っていた。
いつの間にか口ずさんでいた鼻歌を止め、自らの顔へ塗り付け、髪をかき上げる。勿体ない、と思ったのだ。耳に揺れるピアスだけでなく、こちらにも飾った方がより強く漲る生気を感じられる気がした。髪に付かなかった分の血を払い、目の前の獲物に対して口を開く。
「余の全てを読めた――……などと、驕りが過ぎる」
もう少しまともに相手をしてやるか。そう思ったポセイドンは槍を掴む腕にぐっと力を込め、突き出した。ただ、それだけだ。ただそれが目の前の人間にとって、神速を伴う重い一撃だったことは容易に窺えた。左肩を少し抉られ、血が噴き出す様を見て焦った様子の小次郎は咄嗟に後退し、距離を取る。神であるヘイムダルですらこの一撃を目することができなかったようだった。
「は、速い――!? 今のは『突き』か!? 小次郎が再び三叉槍
読めるものなら、読んでみろ。この余がまともに相手をしてやるのだ。精々、死にかけの虫のように足掻いて楽しませてみろ。
幼い子供が遊ぶ為だけに手に入れた虫の羽を?ぐような、いっそ無邪気なまでの残酷さでポセイドンは続け様に二撃目を放つ。この死合が始まってからずっと狙っている頭部に当てるつもりだったが、小次郎が咄嗟に頭を左に逸らし、額を切り付けるだけに終わる。折角、全身を切り刻んでくれたのだから、こちらもしっかりと
小次郎は四方八方から襲い来る槍を神経を研ぎ澄まして二刀で弾き続けるしかできない。と思われたが、僅かな隙を見付けては反撃に出る。が、ポセイドンの動きが速すぎて残像を斬り付けるだけに終わってしまう。そして、その一刀が終わるとまたそれ以上に速い刺突の嵐が襲ってくる始末。さすがにこれ程の攻撃を全ていなし、避け続けるのは限界がある。先読みが得意な小次郎故に己の限界がすぐそこまで見えてきて、肉体より先に心が折れかけていた。
