第四章 海神と天使
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子供はベリアルの手で下層の孤児院に引き取られ、あの家からは牧師の日記が見付かった。自死した牧師の遺体はベリアルがそれとなく近所の者に見付けさせた。それ以上は関わることもないだろうと冥界の神々は関心を向けることを止めた。
「それがこれだ」
冥界に足を運んだポセイドンにハデスは牧師の日記を差し出した。装飾も何も無い、簡素な作りの物だ。「読むかどうかはお前に任せる」と言うハデス。ポセイドンは暫し無言で日記を見つめていたかと思うと、日記を持っている手に力を込め、麩菓子か何かのように親指で穴を空けると、両手で引き千切った。そうして細かい紙片にしてしまうと、感情の読めない目つきで言い放つ。
「余には必要無い。それより、其奴の息子とやらはどこだ? 千栄理と同じ目に遭わせてやろう」
「あの子供なら、もう余が始末した」
事もなげにハデスはそう嘘を吐いた。愛弟に嘘を吐くのは少し後ろめたいが、あの子供を手に掛けるのは本意ではない。情けを掛けることとはまた違うが、罪を犯したのは父親であり、子供には何の罪も無い。そんな思いからポセイドンの意識を他に向けさせようとしたのだ。しかし、それで彼が納得する性格なら、ハデスは弟の面倒さを感じることは無かっただろう。
「何故だ。何故、余に任せなかった。ハデス……答えによってはたとえ、兄上であろうとも……」
「……。やはりか、ポセイドン。お前が納得するとは思えなかったが、仕方ない」
三叉槍を手にし、突きの構えを取るポセイドンに対してハデスも二叉槍を取り出し、振り下ろしの構えを取る。互いに武器を携え、睨み合いが続くと思われた。
が、最初の一歩を踏み出したのはポセイドンの方だった。とんっ、と殆ど体重を感じさせない跳躍から始まり、ハデスに向かって同時に繰り出される連続突きの洪水。その残像がまるで津波のような様から四十日四十夜の大洪水 と名付けられた技。常神ではその一撃一撃を正確に捉えることすら難しいが、冥界の神であり、ギリシャ神の長兄であるハデスには容易にポセイドンの動きが見えていた。
「ふっ……相変わらず、お前は――」
音も無く、ハデスは刺突の洪水の間を縫うようにすり抜け、ある一点に二叉槍をただ一度突き出しただけでポセイドンの三叉槍を絡めて止めた。ぎゃりりっ、と金属同士が擦れ合う甲高い音が響く。
「刺突 ばかりなのだな」
「……」
「お前らしいと言えば、らしいのだが……」
ぐぐ、と二叉槍で絡めた三叉槍を左に押し込み、ポセイドンの体勢が僅かに崩れた。その瞬間、ふ、とハデスは槍を持つ手の力を緩め、そのまま腕を支点としてポセイドンのがら空きになった脇腹へ蹴りを叩き込んだ。
「くっ……!」
咄嗟に防御をしようと身を捩ったポセイドンだったが、二本の槍の重みに腕が持って行かれ、却って大きく体勢を崩す結果となってしまい、そのままハデスの蹴りによって壁に激突した。
「それだけでは余には勝てん」
ややふらつきながらも地に足を付けたポセイドンはそれでも真っ直ぐハデスへ肉薄する。上腕の筋肉が盛り上がり、再び槍を構えて突撃してくる――かに思えた。迎え撃とうとハデスも同じように刺突を繰り出した瞬間、ふっとポセイドンの姿が消える。一瞬、ポセイドンを見失ったことで不意を突かれ、僅かにハデスの反応が遅れた。が、直ぐ様背後に迫る三叉槍の気配を感じ取った彼は、頭を右に倒して避ける。丁度良く突き出された三叉槍を掴み、背後を見ずに裏拳を繰り出すと、丁度人中に当たったらしく、「ぐっ……!?」と呻くようなポセイドンの声が聞こえた。しかし、それで怯む彼ではなかった。ハデスの裏拳でバランスを崩しかけたポセイドンは右足を踏ん張って何とか耐え、槍から片手を放して背後からハデスの頭を掴んだ。
「なっ!? ポセ……」
がつんっ、と力任せに膝裏を蹴られ、ハデスは片膝を付く形になってしまう。まずい、と思った時には既に遅く、背後から床に付いた方のふくらはぎを踏み付けたポセイドンが「獲った」と笑うのが気配で分かった。
「止めいっ!!」
そんな二人の間に唐突に第三者の腕が割り込む形で、ポセイドンを威嚇するように手刀が入れられた。反射的にハデスから離れると、割り込んできた神・ゼウスを睨み付ける。ポセイドンが離れると、ハデスは立ち上がり、少々安堵した様子でゼウスを見やった。
「今回ばかりは助かったな……末弟よ」
「ほっほっほ。たまには良いじゃろ? 弟に助けられるっちゅうんも」
口調は朗らかだが、その腕と体はポセイドンの倍近く大きくなっており、自分の手から逃れようと暴れる彼を取り押さえている。怒りで最早言葉にならない唸り声を上げ、尚もハデスに向かって行こうとするポセイドンの勢いに、ゼウスはギリギリのところで何とか押さえ付けているのがやっとのようだった。怒りで我を失っているポセイドンが発せた唯一の言葉はハデスが彼の目の前まで近付いた時の獣のような絶叫だけだった。
「ハデスッ!!!!」
「ポセイドン……お前は少し、休め」
その一言と共にハデスはポセイドンの鳩尾を殴って意識を奪った。意識を失う直前まで「ぐぅっ……この……」と何か言っていたポセイドンだったが、すぐに目を閉じ、ぐったりと脱力する。やっと大人しくなった兄の体を支えて、ゼウスはハデスに託した。
「ふぅ……やっと大人しくなったわい。で、気絶させたは良いが、どうするんじゃ? ハデス」
ゼウスの問いにハデスは一際重い溜息を吐いて言う。
「一度、ポセイドンとは冷静に話し合いたい……が、生憎とそれは叶わぬだろう」
「そりゃあ、そうじゃろうなぁ。ポセイドンは……愛しておったからのう、千栄理ちゃんのことを」
ポセイドンと千栄理が共に過ごしていた時間はまだそう遠くはない思い出の筈なのに、ゼウスには何だかとても遠い記憶のように思えた。取り敢えず、ポセイドンが起きた時にまた暴れ出さないよう、ハデスはゼウスに彼を椅子に縛り付けるように言い、手近な椅子を滑らせるようにして寄越した。
ポセイドンさん
もうっ! ポセイドンさんは……
ポセイドンさん……
白い霧のような千栄理が見える。笑った顔、怒った顔、悲しげな顔。そのどれもが現れては消え、消えては現れる。とん、と手に小さな手が重なるような感触でポセイドンは目を覚ました。はっと混濁した意識がはっきりすると、まず目に入った自分の体が太い鎖で縛り付けられていることに気付いた。
「起きたか」
声のする方へ視線を移すと、そこにはゼウスと何やら話していた様子のハデスがいた。ハデスに食ってかかったあの時からそれ程、時間は経っていないようだ。彼の姿を見た瞬間、再び火が点いたように怒りがぶり返し、また飛び掛かろうとするも、鎖に邪魔されたポセイドンは椅子から離れられなかった。
「まぁ、そう急くな。ポセイドン、それ程人類が憎いか?」
ハデスの問いにポセイドンは言葉で答える代わりに、今にも射殺さんばかりの目つきで兄を睨む。そんな弟にハデスは内心で仕方ない奴だと思いつつ、今ゼウスから聞いたばかりの話をしようと話題を切り替える。
「今、末弟から丁度良い話を聞いてな。お前の怒りを鎮めるのに、うってつけだと思っていた」
「…………なんだ」
「もうすぐ人類存亡会議があるだろう? 此度のことで、神々の人類に対する心象はどうなると思う?」
「……」
「対象となった人間、起こった事象、それらがもたらした結果。そして、このタイミング……全てが最悪だ。ならば、お前の望みも叶うとは思わんか?」
「……望み」
「ああ、そうだ。ポセイドン。滅ぼしたいのは一人だけか? 神がたかが人間一人殺したところで満足すると思うか? ……もう一度言う。人類存亡会議なら、お前の望みが叶う可能性は充分にある。滅びが決まった世界でなら、暴れられもするだろう」
その言葉を聞いたポセイドンの目にまた生来の暗く、落ち着いた暗色が戻る。それを見たハデスは聡い弟に苦笑を漏らした。
「それでお前が納得するなら、世界が滅ぼうとも致し方あるまい」
その言葉にポセイドンもゼウスも静かに瞠目した。
「それがこれだ」
冥界に足を運んだポセイドンにハデスは牧師の日記を差し出した。装飾も何も無い、簡素な作りの物だ。「読むかどうかはお前に任せる」と言うハデス。ポセイドンは暫し無言で日記を見つめていたかと思うと、日記を持っている手に力を込め、麩菓子か何かのように親指で穴を空けると、両手で引き千切った。そうして細かい紙片にしてしまうと、感情の読めない目つきで言い放つ。
「余には必要無い。それより、其奴の息子とやらはどこだ? 千栄理と同じ目に遭わせてやろう」
「あの子供なら、もう余が始末した」
事もなげにハデスはそう嘘を吐いた。愛弟に嘘を吐くのは少し後ろめたいが、あの子供を手に掛けるのは本意ではない。情けを掛けることとはまた違うが、罪を犯したのは父親であり、子供には何の罪も無い。そんな思いからポセイドンの意識を他に向けさせようとしたのだ。しかし、それで彼が納得する性格なら、ハデスは弟の面倒さを感じることは無かっただろう。
「何故だ。何故、余に任せなかった。ハデス……答えによってはたとえ、兄上であろうとも……」
「……。やはりか、ポセイドン。お前が納得するとは思えなかったが、仕方ない」
三叉槍を手にし、突きの構えを取るポセイドンに対してハデスも二叉槍を取り出し、振り下ろしの構えを取る。互いに武器を携え、睨み合いが続くと思われた。
が、最初の一歩を踏み出したのはポセイドンの方だった。とんっ、と殆ど体重を感じさせない跳躍から始まり、ハデスに向かって同時に繰り出される連続突きの洪水。その残像がまるで津波のような様から
「ふっ……相変わらず、お前は――」
音も無く、ハデスは刺突の洪水の間を縫うようにすり抜け、ある一点に二叉槍をただ一度突き出しただけでポセイドンの三叉槍を絡めて止めた。ぎゃりりっ、と金属同士が擦れ合う甲高い音が響く。
「
「……」
「お前らしいと言えば、らしいのだが……」
ぐぐ、と二叉槍で絡めた三叉槍を左に押し込み、ポセイドンの体勢が僅かに崩れた。その瞬間、ふ、とハデスは槍を持つ手の力を緩め、そのまま腕を支点としてポセイドンのがら空きになった脇腹へ蹴りを叩き込んだ。
「くっ……!」
咄嗟に防御をしようと身を捩ったポセイドンだったが、二本の槍の重みに腕が持って行かれ、却って大きく体勢を崩す結果となってしまい、そのままハデスの蹴りによって壁に激突した。
「それだけでは余には勝てん」
ややふらつきながらも地に足を付けたポセイドンはそれでも真っ直ぐハデスへ肉薄する。上腕の筋肉が盛り上がり、再び槍を構えて突撃してくる――かに思えた。迎え撃とうとハデスも同じように刺突を繰り出した瞬間、ふっとポセイドンの姿が消える。一瞬、ポセイドンを見失ったことで不意を突かれ、僅かにハデスの反応が遅れた。が、直ぐ様背後に迫る三叉槍の気配を感じ取った彼は、頭を右に倒して避ける。丁度良く突き出された三叉槍を掴み、背後を見ずに裏拳を繰り出すと、丁度人中に当たったらしく、「ぐっ……!?」と呻くようなポセイドンの声が聞こえた。しかし、それで怯む彼ではなかった。ハデスの裏拳でバランスを崩しかけたポセイドンは右足を踏ん張って何とか耐え、槍から片手を放して背後からハデスの頭を掴んだ。
「なっ!? ポセ……」
がつんっ、と力任せに膝裏を蹴られ、ハデスは片膝を付く形になってしまう。まずい、と思った時には既に遅く、背後から床に付いた方のふくらはぎを踏み付けたポセイドンが「獲った」と笑うのが気配で分かった。
「止めいっ!!」
そんな二人の間に唐突に第三者の腕が割り込む形で、ポセイドンを威嚇するように手刀が入れられた。反射的にハデスから離れると、割り込んできた神・ゼウスを睨み付ける。ポセイドンが離れると、ハデスは立ち上がり、少々安堵した様子でゼウスを見やった。
「今回ばかりは助かったな……末弟よ」
「ほっほっほ。たまには良いじゃろ? 弟に助けられるっちゅうんも」
口調は朗らかだが、その腕と体はポセイドンの倍近く大きくなっており、自分の手から逃れようと暴れる彼を取り押さえている。怒りで最早言葉にならない唸り声を上げ、尚もハデスに向かって行こうとするポセイドンの勢いに、ゼウスはギリギリのところで何とか押さえ付けているのがやっとのようだった。怒りで我を失っているポセイドンが発せた唯一の言葉はハデスが彼の目の前まで近付いた時の獣のような絶叫だけだった。
「ハデスッ!!!!」
「ポセイドン……お前は少し、休め」
その一言と共にハデスはポセイドンの鳩尾を殴って意識を奪った。意識を失う直前まで「ぐぅっ……この……」と何か言っていたポセイドンだったが、すぐに目を閉じ、ぐったりと脱力する。やっと大人しくなった兄の体を支えて、ゼウスはハデスに託した。
「ふぅ……やっと大人しくなったわい。で、気絶させたは良いが、どうするんじゃ? ハデス」
ゼウスの問いにハデスは一際重い溜息を吐いて言う。
「一度、ポセイドンとは冷静に話し合いたい……が、生憎とそれは叶わぬだろう」
「そりゃあ、そうじゃろうなぁ。ポセイドンは……愛しておったからのう、千栄理ちゃんのことを」
ポセイドンと千栄理が共に過ごしていた時間はまだそう遠くはない思い出の筈なのに、ゼウスには何だかとても遠い記憶のように思えた。取り敢えず、ポセイドンが起きた時にまた暴れ出さないよう、ハデスはゼウスに彼を椅子に縛り付けるように言い、手近な椅子を滑らせるようにして寄越した。
ポセイドンさん
もうっ! ポセイドンさんは……
ポセイドンさん……
白い霧のような千栄理が見える。笑った顔、怒った顔、悲しげな顔。そのどれもが現れては消え、消えては現れる。とん、と手に小さな手が重なるような感触でポセイドンは目を覚ました。はっと混濁した意識がはっきりすると、まず目に入った自分の体が太い鎖で縛り付けられていることに気付いた。
「起きたか」
声のする方へ視線を移すと、そこにはゼウスと何やら話していた様子のハデスがいた。ハデスに食ってかかったあの時からそれ程、時間は経っていないようだ。彼の姿を見た瞬間、再び火が点いたように怒りがぶり返し、また飛び掛かろうとするも、鎖に邪魔されたポセイドンは椅子から離れられなかった。
「まぁ、そう急くな。ポセイドン、それ程人類が憎いか?」
ハデスの問いにポセイドンは言葉で答える代わりに、今にも射殺さんばかりの目つきで兄を睨む。そんな弟にハデスは内心で仕方ない奴だと思いつつ、今ゼウスから聞いたばかりの話をしようと話題を切り替える。
「今、末弟から丁度良い話を聞いてな。お前の怒りを鎮めるのに、うってつけだと思っていた」
「…………なんだ」
「もうすぐ人類存亡会議があるだろう? 此度のことで、神々の人類に対する心象はどうなると思う?」
「……」
「対象となった人間、起こった事象、それらがもたらした結果。そして、このタイミング……全てが最悪だ。ならば、お前の望みも叶うとは思わんか?」
「……望み」
「ああ、そうだ。ポセイドン。滅ぼしたいのは一人だけか? 神がたかが人間一人殺したところで満足すると思うか? ……もう一度言う。人類存亡会議なら、お前の望みが叶う可能性は充分にある。滅びが決まった世界でなら、暴れられもするだろう」
その言葉を聞いたポセイドンの目にまた生来の暗く、落ち着いた暗色が戻る。それを見たハデスは聡い弟に苦笑を漏らした。
「それでお前が納得するなら、世界が滅ぼうとも致し方あるまい」
その言葉にポセイドンもゼウスも静かに瞠目した。
