第四章 海神と天使
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「……は?」
いきなりそんなことを言われたアスクレピオスは思わず呆けた顔をしていたが、やがてふっと口端から煙草の煙を吐き出して言った。
「いや、別に高くないでしょ。こっち座ってんだから」
「不好。そのような上段に座っているのだから、朕より頭が高いであろう?」
再度、びしっと指されたアスクレピオスは「あー、はいはい」と言って階段を降りた。始皇帝の手にある花束を見て彼は何とはなしに訊いてみた。
「それ、千栄理ちゃんに?」
「ああ。……千栄理は終ぞ朕の許に来るとは言わなかったが、花だけでも贈ろうと思ってな」
それを聞くと、アスクレピオスは密かに「そりゃあ、言わないわな」と納得する。何せ、相手はあのポセイドンだ。いくら始皇帝でも勝ち目は無い。階段の前に花を供える始皇帝。そんなところに供える彼を不思議に思い、何故そんなところに供えるのかと訊くアスクレピオスに、彼は「そなたはそんなことも分からぬのか」という顔をされた後、「ここは千栄理の聖域であろう? 男である朕がそう易々と足を踏み入れて良いものではないと思ってな」と返された。待て、とアスクレピオスはぴたりと動きを止める。
「それだと俺の立場無いんだけど?」
「? そなたは医師だろう? 儀礼的な意味で足を踏み入れるのであればいざ知らず、検証ということならば、別に何の問題も無いのではないか?」
「よくは分からぬが」と最後に付け足す始皇帝にアスクレピオスは内心で「この人間にもそういうこと分かるんだ」と少々失礼なことを考えていたが、その言葉に甘えることにもした。短くなった煙草を携帯灰皿に押し付け、「んじゃ、行きますかぁ」と神殿の中へ足を踏み入れた。
増築という形で造られた千栄理の神殿は意外にも事件当時と何も変わらず、アスクレピオスと始皇帝以外誰もいない。
人間達が誰一人いなくなったせいか、六本の石柱を模した物が立っているそこは最早神聖さというよりはどこか滑稽にも見える。アスクレピオスも建築にはそれ程詳しくはないが、幼い子供が自分にとって精一杯の神聖さを大切にしようとしているような、そんな印象を受けたのだ。そんなことには目を瞑り、アスクレピオスは殺害現場へと近づいた。
「ふむ……ここが千栄理が殺された現場か」
すぐ背後から聞こえる筈の無い声がし、アスクレピオスは驚き、振り返る。そこには当たり前のように始皇帝の姿があった。
「いや、あんた何勝手に入って来てんすか」
「無問題 ! 神であるそなたが既に入っているのだから、皇帝である朕も許されたのだ」
こいつ……! 俺を利用しやがったなとアスクレピオスは悔しさを感じたが、別に始皇帝に現場を荒らそうという気が無いのだと分かると、仕方ないと受け入れることにした。六本の柱を過ぎ、千栄理が倒れていた彼女の神座へ向かう。何も片付けられていないそこは千栄理の遺体だけが無くなっている状態で、彼女が落としたヘルメスの靴も残されていた。片方しかないそれに目を落とし、アスクレピオスは考える。
「……なんで、彼女は飛ばなかったんすかね」
遺体には首を絞めた痕以外、外傷らしいものは無かった。葬儀の前に彼女の検死を担当したベルゼブブから送られた内容は既に頭に入っている。それと照らし合わせても少々、不可解な点があるのだ。外傷は無かったが、確かに彼女には抵抗した証拠があった。右手の爪に僅かだが、犯人のものだと思われる皮膚の一部が付着していた。おそらく、犯人の手から逃れようと相手の顔かどこかを引っ掻いた時に付着したのだろう。この皮膚組織や彼女の体に付着していた体液を調べれば、犯人が誰なのかはすぐ分かるだろうが、具体的な動機は本人から直接訊くしかない。
「『飛ばなかった』のではなく、『飛べなかった』のだろう」
千栄理に好意を抱いていた始皇帝にしては、厭に冷静な調子で放たれた言葉に意味深な視線を送りつつ、アスクレピオスはもう一度足元へ視線を落とした。
現場を見た瞬間、アスクレピオスは長年の経験からおおよその予想はついていた。おそらく、最初から千栄理をここで辱めるつもりだったのだろう。しかし、犯人にとって抵抗されることは予想外だったらしく、言うことを聞かせようと首を絞めたら死んでいた。そんなところだろう。しかし、ただの人間がヘルメスの靴を外せるだろうか。あれはオーディンの治癒の書と同様、ゼウスが許可していない人間が触れれば、ただでは済まない代物だ。それに、あの指の跡は――
そこまで考えてアスクレピオスはもう一度ポケットからスマホを取り出し、ベルゼブブの検死結果を確認する。遺体の画像を見て、やはりかと目を眇めた。不可解な点、それは彼女の首に付いた指の跡が妙な形で付いていることだった。
「これじゃまるで……いや、でも、そうだとしたら……」
アスクレピオスの中である一つの仮説に行きつき、改めて彼はぞっとした。その悍ましさと愚かさにぐっ、と拳を握り締める。彼女の首に残っていた指の跡は項に点状に二つ、喉に十本の帯状の跡の中に、項と同じような跡が付いていた。
「どうした?」
彼の独り言に、独自に現場を調べていた様子の始皇帝が振り返る。一瞬、彼に伝えようかどうしようかと迷ったアスクレピオスだったが、まだ何の確証も得ていない段階で教えるのは得策ではないと判断し、その旨を伝えると、始皇帝は「そうか」と言って引き下がる。かに見えた。
「で、そなたは何を予感したのだ?」
「いや、だから、今はなんも言えないって言ったじゃないすか」
「だが、そなたの予想が合っていようとも、いなかろうとも、人類が聞けるのはかなり後になろう? なら、朕は今聞いておきたい」
「めっちゃ我儘っすね、あんた」
「朕は皇帝だからな。仕方ない、諦めよ」
さも当然のようにそう言ってのける始皇帝。それからはアスクレピオスも何度かダメだと食い下がったが、尚も始皇帝は押して押して押して押した。遂には壁際に追い詰められるまでに至ったアスクレピオスの方がとうとう折れた。
「ああ、もう。しょうがないっすねぇ。いいすか? これはあくまでも俺の想像の域を出ない話っすよ?」
「好 。良きに計らえ」
そうしてアスクレピオスが自身の予想を話すと、最初はにこやかに聞いていた始皇帝の表情も段々と神妙なものになっていく。遂には明らかに不快感を表し、黙り込んでしまった。よくよく思案した後、彼は口を開く。
「もし、そなたの予想が合っていたとしたら……いや、そんなことは起こって欲しくないが、そのポセイドンとやらが怒りをこちらに向けてくるのは至極真っ当だろうな」
「でしょ? だから、気軽に話せないんすよ」
「というか、朕でもこれ程の怒りを感じているのだから、実際千栄理の恋人であったその神は怒り狂っているのではないか?」
「う~ん……ショックは受けてると思うんすけど、俺らの目からはそういう感じは無かったっすね」
「……そうなのか? 愛していたのだろう?」
「そうなんすけど……まぁ、あの神の心を計ろうとすること自体、畏れ多いことだし、本神も口数が多い方じゃないんで、よく分からないが正解っすね」
「ふむ……そうか。それならば、また何か分かり次第、朕に報告せよ」
「いや、なんでっすか。別にあんた個人に報告する義務、俺に無いっすから」
そう言うと始皇帝は快活に笑い、「では、任せたぞ」とだけ言い残してその場を立ち去って行った。アスクレピオスはその背に小さく「いや、だから、俺に報告する義務無いですって」と呟いたが、なんだかんだ報告しに行く自分の姿が容易に想像できて、難儀なものだと溜息を吐いた。
いきなりそんなことを言われたアスクレピオスは思わず呆けた顔をしていたが、やがてふっと口端から煙草の煙を吐き出して言った。
「いや、別に高くないでしょ。こっち座ってんだから」
「不好。そのような上段に座っているのだから、朕より頭が高いであろう?」
再度、びしっと指されたアスクレピオスは「あー、はいはい」と言って階段を降りた。始皇帝の手にある花束を見て彼は何とはなしに訊いてみた。
「それ、千栄理ちゃんに?」
「ああ。……千栄理は終ぞ朕の許に来るとは言わなかったが、花だけでも贈ろうと思ってな」
それを聞くと、アスクレピオスは密かに「そりゃあ、言わないわな」と納得する。何せ、相手はあのポセイドンだ。いくら始皇帝でも勝ち目は無い。階段の前に花を供える始皇帝。そんなところに供える彼を不思議に思い、何故そんなところに供えるのかと訊くアスクレピオスに、彼は「そなたはそんなことも分からぬのか」という顔をされた後、「ここは千栄理の聖域であろう? 男である朕がそう易々と足を踏み入れて良いものではないと思ってな」と返された。待て、とアスクレピオスはぴたりと動きを止める。
「それだと俺の立場無いんだけど?」
「? そなたは医師だろう? 儀礼的な意味で足を踏み入れるのであればいざ知らず、検証ということならば、別に何の問題も無いのではないか?」
「よくは分からぬが」と最後に付け足す始皇帝にアスクレピオスは内心で「この人間にもそういうこと分かるんだ」と少々失礼なことを考えていたが、その言葉に甘えることにもした。短くなった煙草を携帯灰皿に押し付け、「んじゃ、行きますかぁ」と神殿の中へ足を踏み入れた。
増築という形で造られた千栄理の神殿は意外にも事件当時と何も変わらず、アスクレピオスと始皇帝以外誰もいない。
人間達が誰一人いなくなったせいか、六本の石柱を模した物が立っているそこは最早神聖さというよりはどこか滑稽にも見える。アスクレピオスも建築にはそれ程詳しくはないが、幼い子供が自分にとって精一杯の神聖さを大切にしようとしているような、そんな印象を受けたのだ。そんなことには目を瞑り、アスクレピオスは殺害現場へと近づいた。
「ふむ……ここが千栄理が殺された現場か」
すぐ背後から聞こえる筈の無い声がし、アスクレピオスは驚き、振り返る。そこには当たり前のように始皇帝の姿があった。
「いや、あんた何勝手に入って来てんすか」
「
こいつ……! 俺を利用しやがったなとアスクレピオスは悔しさを感じたが、別に始皇帝に現場を荒らそうという気が無いのだと分かると、仕方ないと受け入れることにした。六本の柱を過ぎ、千栄理が倒れていた彼女の神座へ向かう。何も片付けられていないそこは千栄理の遺体だけが無くなっている状態で、彼女が落としたヘルメスの靴も残されていた。片方しかないそれに目を落とし、アスクレピオスは考える。
「……なんで、彼女は飛ばなかったんすかね」
遺体には首を絞めた痕以外、外傷らしいものは無かった。葬儀の前に彼女の検死を担当したベルゼブブから送られた内容は既に頭に入っている。それと照らし合わせても少々、不可解な点があるのだ。外傷は無かったが、確かに彼女には抵抗した証拠があった。右手の爪に僅かだが、犯人のものだと思われる皮膚の一部が付着していた。おそらく、犯人の手から逃れようと相手の顔かどこかを引っ掻いた時に付着したのだろう。この皮膚組織や彼女の体に付着していた体液を調べれば、犯人が誰なのかはすぐ分かるだろうが、具体的な動機は本人から直接訊くしかない。
「『飛ばなかった』のではなく、『飛べなかった』のだろう」
千栄理に好意を抱いていた始皇帝にしては、厭に冷静な調子で放たれた言葉に意味深な視線を送りつつ、アスクレピオスはもう一度足元へ視線を落とした。
現場を見た瞬間、アスクレピオスは長年の経験からおおよその予想はついていた。おそらく、最初から千栄理をここで辱めるつもりだったのだろう。しかし、犯人にとって抵抗されることは予想外だったらしく、言うことを聞かせようと首を絞めたら死んでいた。そんなところだろう。しかし、ただの人間がヘルメスの靴を外せるだろうか。あれはオーディンの治癒の書と同様、ゼウスが許可していない人間が触れれば、ただでは済まない代物だ。それに、あの指の跡は――
そこまで考えてアスクレピオスはもう一度ポケットからスマホを取り出し、ベルゼブブの検死結果を確認する。遺体の画像を見て、やはりかと目を眇めた。不可解な点、それは彼女の首に付いた指の跡が妙な形で付いていることだった。
「これじゃまるで……いや、でも、そうだとしたら……」
アスクレピオスの中である一つの仮説に行きつき、改めて彼はぞっとした。その悍ましさと愚かさにぐっ、と拳を握り締める。彼女の首に残っていた指の跡は項に点状に二つ、喉に十本の帯状の跡の中に、項と同じような跡が付いていた。
「どうした?」
彼の独り言に、独自に現場を調べていた様子の始皇帝が振り返る。一瞬、彼に伝えようかどうしようかと迷ったアスクレピオスだったが、まだ何の確証も得ていない段階で教えるのは得策ではないと判断し、その旨を伝えると、始皇帝は「そうか」と言って引き下がる。かに見えた。
「で、そなたは何を予感したのだ?」
「いや、だから、今はなんも言えないって言ったじゃないすか」
「だが、そなたの予想が合っていようとも、いなかろうとも、人類が聞けるのはかなり後になろう? なら、朕は今聞いておきたい」
「めっちゃ我儘っすね、あんた」
「朕は皇帝だからな。仕方ない、諦めよ」
さも当然のようにそう言ってのける始皇帝。それからはアスクレピオスも何度かダメだと食い下がったが、尚も始皇帝は押して押して押して押した。遂には壁際に追い詰められるまでに至ったアスクレピオスの方がとうとう折れた。
「ああ、もう。しょうがないっすねぇ。いいすか? これはあくまでも俺の想像の域を出ない話っすよ?」
「
そうしてアスクレピオスが自身の予想を話すと、最初はにこやかに聞いていた始皇帝の表情も段々と神妙なものになっていく。遂には明らかに不快感を表し、黙り込んでしまった。よくよく思案した後、彼は口を開く。
「もし、そなたの予想が合っていたとしたら……いや、そんなことは起こって欲しくないが、そのポセイドンとやらが怒りをこちらに向けてくるのは至極真っ当だろうな」
「でしょ? だから、気軽に話せないんすよ」
「というか、朕でもこれ程の怒りを感じているのだから、実際千栄理の恋人であったその神は怒り狂っているのではないか?」
「う~ん……ショックは受けてると思うんすけど、俺らの目からはそういう感じは無かったっすね」
「……そうなのか? 愛していたのだろう?」
「そうなんすけど……まぁ、あの神の心を計ろうとすること自体、畏れ多いことだし、本神も口数が多い方じゃないんで、よく分からないが正解っすね」
「ふむ……そうか。それならば、また何か分かり次第、朕に報告せよ」
「いや、なんでっすか。別にあんた個人に報告する義務、俺に無いっすから」
そう言うと始皇帝は快活に笑い、「では、任せたぞ」とだけ言い残してその場を立ち去って行った。アスクレピオスはその背に小さく「いや、だから、俺に報告する義務無いですって」と呟いたが、なんだかんだ報告しに行く自分の姿が容易に想像できて、難儀なものだと溜息を吐いた。
