第四章 海神と天使
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葬儀から帰ってきたポセイドンは自室へと足を踏み入れる。今年の会議は少し先に延ばすことになった。正装からいつもの戦闘装束に着替え、ソファに座ったところで可愛らしい表紙のノートが目に入る。何とはなしにそれを手に取ると、傍らでプロテウスが気付き、声を掛けてきた。
「ああ、それはポセイドン様がお帰りになられた際にお出ししようと思っていたケーキの図案です」
「……余への?」
「はい。オリジナルケーキをお作りになりたいと、その……千栄理様が」
その名前を聞いた途端、ポセイドンの中でぱちん、と何かが弾けた。素早く槍を手にし、目についた物を片っ端から薙ぎ倒し、粉砕する。「ひいっ……!?」といつになく、荒れる主人の行動にプロテウスは恐れ戦き、彼の傍にいたグレムリン達もキャウキャウと怯える。その声が耳障りだったのか、ポセイドンは弾かれたようにグレムリン達を睨みつけると、底冷えするような声で言った。
「誰の許可を得てここにいる。塵芥に等しい雑魚が。散れ。余の前から消えろ」
ギリギリと槍を掲げて殺そうとする構えを取るポセイドンに怯え切ってしまったグレムリン達は、全てを捨ててその場から、否、ポセイドンの城から出て行ってしまった。あの様子ではもう二度とここには戻って来ないだろう。今の主人には言葉は届かない。そう判断したプロテウスは「お邪魔の様ですので、私はしばらく失礼いたします」とそっと声だけ掛けて部屋を出て行く。新しい執務室を用意しなくてはいけないだろうかと考えを巡らせながら。
プロテウスも出て行ったことにも気付いているのか、いないのか、ポセイドンは槍を振り続けた。壁や床はもちろんのこと、千栄理が褒めた調度品も本棚も何もかもが無残に薙ぎ倒され、ただの残骸と化していく。そうして、周りに壊す物が無くなると、ポセイドンはようやく槍を下ろし、代わりにぶつぶつと呟き始めた。
「何故だ。何故だ。何故だ、何故だ、何故だ、何故だ、何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ……。何故、死んだ!!!!! 何故、余を置いて行った!!!! 千栄理……!!!!!!」
裏切り者め。神である余に不義理を働いた人間め。その言葉を口にできるなら、どれ程楽になろうか。カラン、と手から落ちた槍が床を叩く。カタカタと震えるポセイドンは両手で口元を覆い、吐き出したくて堪らない何かを吐き出せずにいた。心が、怒りが、憎しみが、彼の玉体を突き破って破裂しそうだ。自分の感情で自身をも爆殺できたらどんなに良いだろう。
「……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
止めていた呼吸を思い出し、息を吸う。吸っては、吐く。何故、この心臓は動いている? 何故、この体は呼吸を必要としている? 千栄理はもう、それすらできないというのに。…………少し、眠ろう。
ゆらりと立ち上がったポセイドンはそのままよろよろとベッドへ近付き、倒れ込む。ベッドも例に漏れず、ボロボロだったが、気にせず、そのまま靴も脱がずに目を閉じ、すぐに降りて来る眠気に身を任せた。
「……せ……さ……」
遠くで声が聞こえる。自分を呼んでいるような、柔らかい口調の声だ。それはやがて、段々はっきり聞き取れるようになってくる。
「ポセ…………さん……」
誰だ。余を呼ぶのは。
「ポセイドン……さ……。ポセイドンさん、起きてください」
ぱち、と目が覚めた。最初に目に入ったのは、眩しいほどの陽光が差し込む部屋の中、自分と目を合わせるようにしてこちらを覗き込んでいる千栄理だった。驚き、何も言えないでいると、彼女は「ふふ」と笑って言う。
「もう朝ですよ。一緒に朝ご飯、食べましょう?」
「千栄理……帰って――」
掴んだはずの手には何も残らなかった。いつの間にか外は暗く、ヒュウヒュウと割れた窓ガラスから冷たい夜風が舞い込んで来てボロボロのカーテンを揺らした。全身にびっしょりと汗をかいていた。現実で目覚めたポセイドンの目の前には、何もいなかった。それを認識すると同時にやっと心臓が動きを再開した。
「かはっ……!? はぁ……はぁ……はぁ……」
暗闇と共に恐ろしいまでの静けさが、伸し掛かってきた。何も見えない。何も聞こえない。ただ目の前に広がる常闇の中、ポセイドンはあることに気が付き、ぞっとした。
「!」
眠る時はいつでも千栄理が隣にいた。そのため、ポセイドンはいつも自分の右側、千栄理が寝ていた場所を空けて、腕枕をしている。
今も同じように寝ていた。
それからも、千栄理は度々ポセイドンの前に現れた。ある時はそろそろお茶にしましょうと誘い、ある時はゲルちゃんがと友神の話をし、またある時は今日の配達はですねと楽しかったことを語る。しかし、そのどれもが本当の彼女じゃない。手を伸ばすと泡のように消えてしまう。声を発すると霧散する。朝が来たら溶け消えてしまう。地獄だ。余は今、地獄にいる。彼女を守れなかった己に相応しい地獄に。
千栄理を失った痛みという幻は、猛毒のように確実に神であるポセイドンの心をじわじわとすり減らしていった。そして、それはある日、彼に一つの決意をさせた。
「プロテウス」
「は。何でございましょう、ポセイドン様」
いつものように手元の仕事は止めず、ポセイドンは静かに告げた。
「余はもう、眠らぬことにした」
「は……」
「……毎夜、眠ると彼奴が……千栄理が余の前に現れる。余を……責め苛む」
「そ、そんな……! 千栄理様に限って、ポセイドン様を責めるなど……!」
ギロリ、とポセイドンは傍らに佇んでいるプロテウスを睨む。その目つきにプロテウスは思わず生唾を飲み、それ以上言葉を発することができない。ふい、と視線を逸らしたポセイドンはもう一度、言い聞かせるように告げた。
「余はもう眠らぬ」
「は……はい……。承知致しました……」
それから、ポセイドンは一切眠ろうとしなかった。幾日も幾日も。神であるが故に眠らずとも良く、平気だった。それでも、千栄理との記憶を忘れたかった訳ではない彼の脳裏には、ふとした瞬間に彼女との思い出が蘇る。一度はボロボロにした執務室を直して使っているせいだろうか。ふとした瞬間にうたた寝をし、夢を見ているからだろうか。その度、ポセイドンは胸を焼くような吐き気を催し、何度か口元を押さえることが少し多くなった。
そんなある日、彼の許にハデスから報せが届いた。千栄理を殺した犯人が見付かったらしい。届いた手紙にはあっさりとした答えが書かれていた。犯人は下層の人間達の街に住む牧師で、まだ幼い息子が熱を出した為、千栄理を頼ったらしい。そこでポセイドンは疑問に思った。いくら深夜とはいえ、急患を受け付けていない病院など無い。それこそアスクレピオスの診療所にでも駆け込めば、何の問題も無く診察を受けられる筈だ。人間の子供はよく熱を出すが、その殆どの場合、未熟な免疫の問題であって、重篤な病気ではない。
「どういう……ことだ……」
もしや、千栄理はただ偶然殺された訳ではなく、罠に嵌められて殺されたのではないか。そう思うと、再びあの凄まじいまでの怒りがふつふつと腸の中で煮えくり返るようだった。手紙には犯人とその末路が書かれているだけで、ポセイドンの疑問の答えは書かれていない。兄に直接確認しなくては。
そう思い立ったポセイドンは手紙をデスクに置いて、プロテウスに出かける旨を伝え、部屋を出て行った。向かうは冥界。千栄理が死んだあの時、何があったのか。真実を知らなくてはという思いだけがポセイドンの体を動かしていた。
「ああ、それはポセイドン様がお帰りになられた際にお出ししようと思っていたケーキの図案です」
「……余への?」
「はい。オリジナルケーキをお作りになりたいと、その……千栄理様が」
その名前を聞いた途端、ポセイドンの中でぱちん、と何かが弾けた。素早く槍を手にし、目についた物を片っ端から薙ぎ倒し、粉砕する。「ひいっ……!?」といつになく、荒れる主人の行動にプロテウスは恐れ戦き、彼の傍にいたグレムリン達もキャウキャウと怯える。その声が耳障りだったのか、ポセイドンは弾かれたようにグレムリン達を睨みつけると、底冷えするような声で言った。
「誰の許可を得てここにいる。塵芥に等しい雑魚が。散れ。余の前から消えろ」
ギリギリと槍を掲げて殺そうとする構えを取るポセイドンに怯え切ってしまったグレムリン達は、全てを捨ててその場から、否、ポセイドンの城から出て行ってしまった。あの様子ではもう二度とここには戻って来ないだろう。今の主人には言葉は届かない。そう判断したプロテウスは「お邪魔の様ですので、私はしばらく失礼いたします」とそっと声だけ掛けて部屋を出て行く。新しい執務室を用意しなくてはいけないだろうかと考えを巡らせながら。
プロテウスも出て行ったことにも気付いているのか、いないのか、ポセイドンは槍を振り続けた。壁や床はもちろんのこと、千栄理が褒めた調度品も本棚も何もかもが無残に薙ぎ倒され、ただの残骸と化していく。そうして、周りに壊す物が無くなると、ポセイドンはようやく槍を下ろし、代わりにぶつぶつと呟き始めた。
「何故だ。何故だ。何故だ、何故だ、何故だ、何故だ、何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ……。何故、死んだ!!!!! 何故、余を置いて行った!!!! 千栄理……!!!!!!」
裏切り者め。神である余に不義理を働いた人間め。その言葉を口にできるなら、どれ程楽になろうか。カラン、と手から落ちた槍が床を叩く。カタカタと震えるポセイドンは両手で口元を覆い、吐き出したくて堪らない何かを吐き出せずにいた。心が、怒りが、憎しみが、彼の玉体を突き破って破裂しそうだ。自分の感情で自身をも爆殺できたらどんなに良いだろう。
「……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
止めていた呼吸を思い出し、息を吸う。吸っては、吐く。何故、この心臓は動いている? 何故、この体は呼吸を必要としている? 千栄理はもう、それすらできないというのに。…………少し、眠ろう。
ゆらりと立ち上がったポセイドンはそのままよろよろとベッドへ近付き、倒れ込む。ベッドも例に漏れず、ボロボロだったが、気にせず、そのまま靴も脱がずに目を閉じ、すぐに降りて来る眠気に身を任せた。
「……せ……さ……」
遠くで声が聞こえる。自分を呼んでいるような、柔らかい口調の声だ。それはやがて、段々はっきり聞き取れるようになってくる。
「ポセ…………さん……」
誰だ。余を呼ぶのは。
「ポセイドン……さ……。ポセイドンさん、起きてください」
ぱち、と目が覚めた。最初に目に入ったのは、眩しいほどの陽光が差し込む部屋の中、自分と目を合わせるようにしてこちらを覗き込んでいる千栄理だった。驚き、何も言えないでいると、彼女は「ふふ」と笑って言う。
「もう朝ですよ。一緒に朝ご飯、食べましょう?」
「千栄理……帰って――」
掴んだはずの手には何も残らなかった。いつの間にか外は暗く、ヒュウヒュウと割れた窓ガラスから冷たい夜風が舞い込んで来てボロボロのカーテンを揺らした。全身にびっしょりと汗をかいていた。現実で目覚めたポセイドンの目の前には、何もいなかった。それを認識すると同時にやっと心臓が動きを再開した。
「かはっ……!? はぁ……はぁ……はぁ……」
暗闇と共に恐ろしいまでの静けさが、伸し掛かってきた。何も見えない。何も聞こえない。ただ目の前に広がる常闇の中、ポセイドンはあることに気が付き、ぞっとした。
「!」
眠る時はいつでも千栄理が隣にいた。そのため、ポセイドンはいつも自分の右側、千栄理が寝ていた場所を空けて、腕枕をしている。
今も同じように寝ていた。
それからも、千栄理は度々ポセイドンの前に現れた。ある時はそろそろお茶にしましょうと誘い、ある時はゲルちゃんがと友神の話をし、またある時は今日の配達はですねと楽しかったことを語る。しかし、そのどれもが本当の彼女じゃない。手を伸ばすと泡のように消えてしまう。声を発すると霧散する。朝が来たら溶け消えてしまう。地獄だ。余は今、地獄にいる。彼女を守れなかった己に相応しい地獄に。
千栄理を失った痛みという幻は、猛毒のように確実に神であるポセイドンの心をじわじわとすり減らしていった。そして、それはある日、彼に一つの決意をさせた。
「プロテウス」
「は。何でございましょう、ポセイドン様」
いつものように手元の仕事は止めず、ポセイドンは静かに告げた。
「余はもう、眠らぬことにした」
「は……」
「……毎夜、眠ると彼奴が……千栄理が余の前に現れる。余を……責め苛む」
「そ、そんな……! 千栄理様に限って、ポセイドン様を責めるなど……!」
ギロリ、とポセイドンは傍らに佇んでいるプロテウスを睨む。その目つきにプロテウスは思わず生唾を飲み、それ以上言葉を発することができない。ふい、と視線を逸らしたポセイドンはもう一度、言い聞かせるように告げた。
「余はもう眠らぬ」
「は……はい……。承知致しました……」
それから、ポセイドンは一切眠ろうとしなかった。幾日も幾日も。神であるが故に眠らずとも良く、平気だった。それでも、千栄理との記憶を忘れたかった訳ではない彼の脳裏には、ふとした瞬間に彼女との思い出が蘇る。一度はボロボロにした執務室を直して使っているせいだろうか。ふとした瞬間にうたた寝をし、夢を見ているからだろうか。その度、ポセイドンは胸を焼くような吐き気を催し、何度か口元を押さえることが少し多くなった。
そんなある日、彼の許にハデスから報せが届いた。千栄理を殺した犯人が見付かったらしい。届いた手紙にはあっさりとした答えが書かれていた。犯人は下層の人間達の街に住む牧師で、まだ幼い息子が熱を出した為、千栄理を頼ったらしい。そこでポセイドンは疑問に思った。いくら深夜とはいえ、急患を受け付けていない病院など無い。それこそアスクレピオスの診療所にでも駆け込めば、何の問題も無く診察を受けられる筈だ。人間の子供はよく熱を出すが、その殆どの場合、未熟な免疫の問題であって、重篤な病気ではない。
「どういう……ことだ……」
もしや、千栄理はただ偶然殺された訳ではなく、罠に嵌められて殺されたのではないか。そう思うと、再びあの凄まじいまでの怒りがふつふつと腸の中で煮えくり返るようだった。手紙には犯人とその末路が書かれているだけで、ポセイドンの疑問の答えは書かれていない。兄に直接確認しなくては。
そう思い立ったポセイドンは手紙をデスクに置いて、プロテウスに出かける旨を伝え、部屋を出て行った。向かうは冥界。千栄理が死んだあの時、何があったのか。真実を知らなくてはという思いだけがポセイドンの体を動かしていた。
