第四章 海神と天使
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ポセイドンがそうして静かに見守る中、ゼウスの花入れが終わり、残すところはハデスとポセイドンのみとなった。恋人であったポセイドンは最後に入れる手筈だったので、ハデスが棺の前に出る。その手には白百合。それをそっと棺に入れると、ハデスは千栄理の冷たくなった頬に触れる。
「千栄理よ。今までよく、頑張ったな」
そう言って兄らしく微笑むハデス。妹を労うその微笑みを見たポセイドンは、はっとして自分の内側から帰って来ることができた。
「余からの最期の手向けだ」
そっとハデスは千栄理の額にキスをする。もう酷なまでの冷たさしか返ってこないが、それでもハデスは満足そうに笑んだ。
「もうお前を苦しめるものは無い。どうか安らかに逝くと良い」
そうして、静かに棺から離れたハデスと入れ替わるようにして、ポセイドンが最後の花を入れる番となった。花の女神・クローリスが差し出す籠から自ら選び取った花を持ち、棺の前に出る。
冷たくなった千栄理は神々が入れた花々で飾られ、それがどれだけ彼女が神々に愛されていたのかを示している。その中に、水晶で出来たあのペンダントがあった。彼女へのお守りとして渡した物が死後の千栄理の首元を飾っている。それを目にした瞬間、確かにポセイドンの中に湧き上がってきたものがあった。
『憎しみ』だ。
「……………………………………ぜだ」
「?」
「ポセイドン様……?」
「どうしたんじゃ? ポセイドン」
何故だ、何故だ、何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故、余を呼ばなかった……!!!! 何故、余は微塵も気付けなかった!!!!!! 何故……!!!!!!!!
「余は……お前の傍にいてやれなかった……?」
「ポセイドン……」
喉元まで胸につかえていたものがせり上がり、言葉にできたのはそれだけだった。上手く呼吸ができていない気がした。よろ、と足元が覚束なくなり、駆け寄ってきたハデスに支えられた。どこか遠くで「あのポセイドン様が……」だの「ポセイドン様、可哀想……」などと聞こえる。ただ、それに心動かされることなど無かった。今のポセイドンには戯言以下の、どうでもいいことだった。
「大事ないか、ポセイドン」
そんな声達を無視して隣を見れば、そこにはハデスがいる。ポセイドンが唯一、信頼している兄。この兄に情けないところは見せられない。それだけでポセイドンはもう一度しっかり立つと、ハデスの肩を押しやり、「大したことはない」と答えられた。手の中の花は無事だろうかと今一度、確認する。神通力の込められた花は瑞々しく、変わりない。良かった、と思い、それをそっと千栄理の髪に差してやる。それは紫蘭だった。そうしても、もう彼女がはにかんで微笑むことは無い。ひやりとする頬に名残惜し気に触れ、ポセイドンは最後にその小さな唇へキスを送った。
「…………お前と、永遠を共にしたかった」
ポセイドンが離れると、千栄理にあることが起こった。
「は……」
「これは……」
ゼウスやハデス、ポセイドンも他の神々も皆息を飲み、己の目を疑った。花だ。千栄理の手の中で花が咲いたのだ。その花を見た瞬間、ポセイドンは瞠目し、ゼウスとハデスは何か納得したように笑んだ。
「ほほ。千栄理ちゃんらしいのう」
「我が義妹が最期の最期に奇跡を起こしたか……」
それは青リンドウだった。その千栄理らしい花は種も水も無いのに彼女の手の中で咲き誇り、その姿はまるでポセイドンへ差し出しているようにも見えた。
「千栄理……余へ、か」
そっと慎重な手つきでポセイドンは青リンドウを受け取る。それをじっと見つめ、愛おしそうに撫でた彼はその花に神通力を込めた。次第に花の姿が崩れ、青い光となったそれを自分の首元へ当てる。すると、青リンドウだった光はポセイドンのチョーカーへと収束し、やがてリンドウの彫り物となってチョーカーを飾った。もう、それで良いとポセイドンは思った。
おもむろに手の中に槍を呼び出し、千栄理の胸を貫く。彼女の体はガラス細工のようにひび割れ、やがて細かな欠片となって空中へと消えていく。魂の完全消滅(ニブルヘル)だ。周囲の神々が何か言っているが、ポセイドンはまるで意に介さなかった。
「ぽ、ポセイドン様っ!? 何をなさいます!?」
「千栄理はしかるべき儀式を受けなければ、転生することすら……」
「ポセイドン! 乱心したのですかっ!? 何故、魂の完全消滅(ニブルヘル)など……」
驚き、動揺する神々の中から進み出たのは運命の三女神だった。しかし、彼女達が言えたのはそこまでで、ポセイドンに近付いた瞬間、その槍で跡形も無く、粉々にされていた。一瞬にして場は静まり返り、運命の女神が死んだ様を見守ることしかできない。重苦しい静寂の中、ポセイドンは静かに告げた。
「ゼウス」
「ぽ……」
名を呼ばれたゼウスは、兄に何か言葉を掛けようと口を開きかけたが、すぐに閉じる。
「余は、人類を滅す。良いな?」
ポセイドンは一度もこちらへ振り返らずにそう告げる。今の兄は何を言っても、その決意を揺るがすことは無いのだろう。それが分かっているゼウスの答えは既に決まっていた。
「……わ……分かったわい」
こうなった兄は誰にも止められない。誰よりも神らしい神はそれから一言も発することは無かった。
「どうしてなんスかっ!?」
ヘラクレスから千栄理が亡くなったと告げられたゲルは一頻り泣いた後、自分達が葬儀に出られないことに怒った。そんな彼女にヘラクレスもやるせない顔をする。
「仕方ないんだ、ゲル。オレも出たかったが、ポセイドン様のご意向で、葬儀には……純粋な神しか出席を認められない。辛いだろうが、堪えてくれ」
「でもっ……でも、ぼく、せめて最後に、千栄理に……お、別れを……」
そこでまた悲しみが込み上げ、泣き出してしまったゲルの背中を慰めるように摩ってやっているヘラクレスへブリュンヒルデは悲しみを湛えた目を向ける。
「ですが、ヘラクレス兄様。どうして、あの子は殺されなければならなかったのです? あの子が誰かの恨みを買うようには見えませんでしたけれど……」
「ああ。……そうだな。まだ確かな証拠は見付かっていないが、報告では千栄理は……人間の手で殺されたらしい」
「えっ!?」
「……そうですか」
「えっ、えっ……な、なんで? なんでッスか? だって、千栄理は……」
思わず、ヘラクレスの腕に掴み掛ろうとしたゲルの肩を引き寄せて止めたブリュンヒルデは、酷く痛ましい表情を浮かべる。
「ゲル。あなたはまだ知らないかもしれませんが、人間はたとえ、憎んでいなくとも相手を殺してしまうこともあるのです」
「え……? ヒルデお姉様。それはどういう……」
ゲルがそこまで言いかけたところで、「それと……」とヘラクレスは更に続ける。
「ヒルデ、ゲル。最初に言っておくが、これはポセイドン様直々のご命令だ。……『今後、千栄理の名を口にすることを禁じ、彼女の存在をも忘れよ』……ということだ」
「………………は? え? でも、だって、それじゃあ……」
ゲルは己の耳を疑った。千栄理の存在を忘れよ。それは彼女との思い出を思い返すことすら禁じられるということだった。どうして、ポセイドンがそんな酷い命令をするのか、彼女には心底分からなかった。しかし、長姉であるブリュンヒルデはヘラクレスへ恭しく一礼して告げる。
「承知いたしました」
「ええっ!? ひ、ヒルデお姉様、どうして……」
「辛いだろうが、頼んだぞ。ヒルデ」
そう言ってヘラクレスは立ち去って行った。後に残されたブリュンヒルデは何事も無かったかのようにお茶の準備を始める。
「お、お姉様。どうして……」
「仕方のない……ことなんです。ゲル。あの子を心の底から愛していたのは、ポセイドン様なのですから」
「ほら、あなたもお菓子を用意して」とどこか寂し気に促すブリュンヒルデにゲルは何とも言えずに従い、厨房へ姿を消す。ゲルの姿が見えなくなると、布巾でテーブルを拭いていたブリュンヒルデの手元に雫が落ちる。
「せめて……せめて私は、あの子が安らかに逝けるよう、祈ることしかできませんね……。……くっ、うぅ……」
それ以上、自分を誤魔化すことができなかったブリュンヒルデは静かに、声を殺して泣いた。
「千栄理よ。今までよく、頑張ったな」
そう言って兄らしく微笑むハデス。妹を労うその微笑みを見たポセイドンは、はっとして自分の内側から帰って来ることができた。
「余からの最期の手向けだ」
そっとハデスは千栄理の額にキスをする。もう酷なまでの冷たさしか返ってこないが、それでもハデスは満足そうに笑んだ。
「もうお前を苦しめるものは無い。どうか安らかに逝くと良い」
そうして、静かに棺から離れたハデスと入れ替わるようにして、ポセイドンが最後の花を入れる番となった。花の女神・クローリスが差し出す籠から自ら選び取った花を持ち、棺の前に出る。
冷たくなった千栄理は神々が入れた花々で飾られ、それがどれだけ彼女が神々に愛されていたのかを示している。その中に、水晶で出来たあのペンダントがあった。彼女へのお守りとして渡した物が死後の千栄理の首元を飾っている。それを目にした瞬間、確かにポセイドンの中に湧き上がってきたものがあった。
『憎しみ』だ。
「……………………………………ぜだ」
「?」
「ポセイドン様……?」
「どうしたんじゃ? ポセイドン」
何故だ、何故だ、何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故、余を呼ばなかった……!!!! 何故、余は微塵も気付けなかった!!!!!! 何故……!!!!!!!!
「余は……お前の傍にいてやれなかった……?」
「ポセイドン……」
喉元まで胸につかえていたものがせり上がり、言葉にできたのはそれだけだった。上手く呼吸ができていない気がした。よろ、と足元が覚束なくなり、駆け寄ってきたハデスに支えられた。どこか遠くで「あのポセイドン様が……」だの「ポセイドン様、可哀想……」などと聞こえる。ただ、それに心動かされることなど無かった。今のポセイドンには戯言以下の、どうでもいいことだった。
「大事ないか、ポセイドン」
そんな声達を無視して隣を見れば、そこにはハデスがいる。ポセイドンが唯一、信頼している兄。この兄に情けないところは見せられない。それだけでポセイドンはもう一度しっかり立つと、ハデスの肩を押しやり、「大したことはない」と答えられた。手の中の花は無事だろうかと今一度、確認する。神通力の込められた花は瑞々しく、変わりない。良かった、と思い、それをそっと千栄理の髪に差してやる。それは紫蘭だった。そうしても、もう彼女がはにかんで微笑むことは無い。ひやりとする頬に名残惜し気に触れ、ポセイドンは最後にその小さな唇へキスを送った。
「…………お前と、永遠を共にしたかった」
ポセイドンが離れると、千栄理にあることが起こった。
「は……」
「これは……」
ゼウスやハデス、ポセイドンも他の神々も皆息を飲み、己の目を疑った。花だ。千栄理の手の中で花が咲いたのだ。その花を見た瞬間、ポセイドンは瞠目し、ゼウスとハデスは何か納得したように笑んだ。
「ほほ。千栄理ちゃんらしいのう」
「我が義妹が最期の最期に奇跡を起こしたか……」
それは青リンドウだった。その千栄理らしい花は種も水も無いのに彼女の手の中で咲き誇り、その姿はまるでポセイドンへ差し出しているようにも見えた。
「千栄理……余へ、か」
そっと慎重な手つきでポセイドンは青リンドウを受け取る。それをじっと見つめ、愛おしそうに撫でた彼はその花に神通力を込めた。次第に花の姿が崩れ、青い光となったそれを自分の首元へ当てる。すると、青リンドウだった光はポセイドンのチョーカーへと収束し、やがてリンドウの彫り物となってチョーカーを飾った。もう、それで良いとポセイドンは思った。
おもむろに手の中に槍を呼び出し、千栄理の胸を貫く。彼女の体はガラス細工のようにひび割れ、やがて細かな欠片となって空中へと消えていく。魂の完全消滅(ニブルヘル)だ。周囲の神々が何か言っているが、ポセイドンはまるで意に介さなかった。
「ぽ、ポセイドン様っ!? 何をなさいます!?」
「千栄理はしかるべき儀式を受けなければ、転生することすら……」
「ポセイドン! 乱心したのですかっ!? 何故、魂の完全消滅(ニブルヘル)など……」
驚き、動揺する神々の中から進み出たのは運命の三女神だった。しかし、彼女達が言えたのはそこまでで、ポセイドンに近付いた瞬間、その槍で跡形も無く、粉々にされていた。一瞬にして場は静まり返り、運命の女神が死んだ様を見守ることしかできない。重苦しい静寂の中、ポセイドンは静かに告げた。
「ゼウス」
「ぽ……」
名を呼ばれたゼウスは、兄に何か言葉を掛けようと口を開きかけたが、すぐに閉じる。
「余は、人類を滅す。良いな?」
ポセイドンは一度もこちらへ振り返らずにそう告げる。今の兄は何を言っても、その決意を揺るがすことは無いのだろう。それが分かっているゼウスの答えは既に決まっていた。
「……わ……分かったわい」
こうなった兄は誰にも止められない。誰よりも神らしい神はそれから一言も発することは無かった。
「どうしてなんスかっ!?」
ヘラクレスから千栄理が亡くなったと告げられたゲルは一頻り泣いた後、自分達が葬儀に出られないことに怒った。そんな彼女にヘラクレスもやるせない顔をする。
「仕方ないんだ、ゲル。オレも出たかったが、ポセイドン様のご意向で、葬儀には……純粋な神しか出席を認められない。辛いだろうが、堪えてくれ」
「でもっ……でも、ぼく、せめて最後に、千栄理に……お、別れを……」
そこでまた悲しみが込み上げ、泣き出してしまったゲルの背中を慰めるように摩ってやっているヘラクレスへブリュンヒルデは悲しみを湛えた目を向ける。
「ですが、ヘラクレス兄様。どうして、あの子は殺されなければならなかったのです? あの子が誰かの恨みを買うようには見えませんでしたけれど……」
「ああ。……そうだな。まだ確かな証拠は見付かっていないが、報告では千栄理は……人間の手で殺されたらしい」
「えっ!?」
「……そうですか」
「えっ、えっ……な、なんで? なんでッスか? だって、千栄理は……」
思わず、ヘラクレスの腕に掴み掛ろうとしたゲルの肩を引き寄せて止めたブリュンヒルデは、酷く痛ましい表情を浮かべる。
「ゲル。あなたはまだ知らないかもしれませんが、人間はたとえ、憎んでいなくとも相手を殺してしまうこともあるのです」
「え……? ヒルデお姉様。それはどういう……」
ゲルがそこまで言いかけたところで、「それと……」とヘラクレスは更に続ける。
「ヒルデ、ゲル。最初に言っておくが、これはポセイドン様直々のご命令だ。……『今後、千栄理の名を口にすることを禁じ、彼女の存在をも忘れよ』……ということだ」
「………………は? え? でも、だって、それじゃあ……」
ゲルは己の耳を疑った。千栄理の存在を忘れよ。それは彼女との思い出を思い返すことすら禁じられるということだった。どうして、ポセイドンがそんな酷い命令をするのか、彼女には心底分からなかった。しかし、長姉であるブリュンヒルデはヘラクレスへ恭しく一礼して告げる。
「承知いたしました」
「ええっ!? ひ、ヒルデお姉様、どうして……」
「辛いだろうが、頼んだぞ。ヒルデ」
そう言ってヘラクレスは立ち去って行った。後に残されたブリュンヒルデは何事も無かったかのようにお茶の準備を始める。
「お、お姉様。どうして……」
「仕方のない……ことなんです。ゲル。あの子を心の底から愛していたのは、ポセイドン様なのですから」
「ほら、あなたもお菓子を用意して」とどこか寂し気に促すブリュンヒルデにゲルは何とも言えずに従い、厨房へ姿を消す。ゲルの姿が見えなくなると、布巾でテーブルを拭いていたブリュンヒルデの手元に雫が落ちる。
「せめて……せめて私は、あの子が安らかに逝けるよう、祈ることしかできませんね……。……くっ、うぅ……」
それ以上、自分を誤魔化すことができなかったブリュンヒルデは静かに、声を殺して泣いた。
