第四章 海神と天使
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千栄理の葬儀は粛々と行われた。ポセイドンの意向で純粋な神々だけが列席を許されるという、天界での人間の弔いの中では異例の式となった。千栄理が日本人だということもあって、葬儀は日本式で行われた。棺に横たわり、花に囲まれ、死の神タナトスと眠りの神ヒュプノス、そして冥界の神ハデスの手によって死に化粧を施された千栄理はまるでただ眠っているだけのように見える。無残な首の痕は綺麗に隠され、死に装束を纏ったその姿に誰もが涙した。生前、彼女と親交があった多くの神々が参列し、棺の中に花を添えていく。その中にはギリシャの神々はもちろんのこと、シヴァやロキの姿もあった。皆が口々に花を添えつつ、別れの言葉や感謝の言葉も添えていく。千栄理の枕元は沢山の花々で囲まれ、いよいよロキの番が回ってきた。
「ほんと、バカだよねぇ」
千栄理が眠る棺の縁に肘を置いて花を添えるロキに、皆が注目する。葬儀の場に相応しくない発言にポセイドンが睨むも、次の言葉とロキの表情にまた視線を外した。
「今まで人間なんかの為に散々下層に降りて、怪我とか病気とか、放っておけば良いのに治して。バカが付く程、お人好しで……。なのに……なのにさ、なんでキミ、こんなとこで寝てんの……? いつもみたいに生意気な口利いて、怒れば良いじゃん! バカみたいに……っ! なんで…………なんで、キミが殺されなきゃいけないの? ほんっと、バカ」
「ロキ……」
意地なのか、ロキは涙は見せなかった。今にも泣き出しそうな顔で、代わりに手に持っていたピンク色のアンスリウムをそっと千栄理の枕元へ置いた。思わず、アレスの口から切なそうな声が溢れた。
「ボクは泣かないよ。ボクはキミが『嫌い』だから。ここに来てやっただけ感謝してよね」
言葉とは裏腹にロキは千栄理の冷たい額を撫でる。自分の言葉に何も反応せず、ただ氷のように冷たく、少し硬いその感触にもう彼女が動くことは二度と無いことがまざまざと分かり、震えた。少し前まで、あんなに熱かったのに。確かに血が通っていたのに。それは永遠に奪われ、物と同じになってしまった。人間の手によって。
棺に背を向け、その場からさっさと立ち去ろうとしたロキの中で次第にふつふつ、ふつふつ、とマグマに似た感情が沸き起こるのが分かった。胸につかえるようなそれは彼の口から言葉となって微かにその片鱗を覗かせた。
「殺してやる……必ず」
そのまま会場を出て行くロキを止める者は誰もいなかった。
彼の次に棺に花入れをしたのは釈迦だ。いつも口に入れている仏陀チャップスは無く、手には白菊が一本。彼らしい花を棺に入れると、釈迦はぽつりと呟いた。
「はぁ……チェリちゃんさぁ、人間と神の架け橋になりたかったんでしょ? だめだよ、死んじゃったら。これじゃ、本末転倒じゃん」
釈迦は今一度、安らかな千栄理の顔を覗き込み、やるせないと言いたげな表情を浮かべる。
「今だから言うけどさ。オレ、チェリちゃんのこと、ちょっと苦手だったんだよね」
よいしょ、と釈迦は棺の傍に座り込む。釈迦は生前の彼女と話していた時と変わらないトーンで棺に話し掛ける。時折、手にしている白菊をちょいちょいとつつきながら。
「だって、チェリちゃんからはあんまり欲とか煩悩って感じしなかったから。どっちかっていうと、『神』に近かったから。だから、ニガテだったんだよね。でも――」
徐に立ち上がった釈迦は棺にそっと白菊を入れて、寂しげに微笑む。
「やっぱ寂しいわ。じゃあね、チェリちゃん」
別れの握手のように彼女の小さく、冷たい手を握るその顔は、まるで「迷わずに逝きなよ」と言っているようだった。その達観したような表情と態度が、ほんの僅かにポセイドンの神経を逆撫でていく。しかし、槍を手にするまでには至らず、眼光だけで射殺せるような様相で釈迦を睨みつけるに留まった。それに気付いた彼は「おお、こわ」と小さく呟いて千栄理の手を放し、その場を立ち去って行った。去り際に手を振りながら。
そうして、他の神々の花入れが終わると、最後にギリシャ神達の花入れに移る。千栄理が死んだと報せを受けた時、散々泣いたのにまた涙が溢れてきたアレスは、傍らに立つヘルメスに支えられながら紫色のアリアムを入れ、哀悼の意を示すヘルメスも同じようにカスミソウを入れる。次に紫のヒヤシンスを入れたアポロンは、千栄理が生前好きだと言っていた曲を竪琴で奏で、それにまたアレスが涙した。
「千栄理は幸せ者だね。こんなに大勢の神々がキミの為に哀悼を示し、泣いてくれている」
何気なくアポロンの口から出てきた『幸せ』という言葉に、ポセイドンは静かな怒りを覚える。幸せ、だと……? これのどこが幸せなんだ、と。長兄の意見で始めた葬儀だったが、他の神の言葉や態度にポセイドンの怒りは確かに誰に知られること無く、積み上がっていく。ポセイドンは何故か、周りの神々が彼女の死を受け入れていることに途轍もない怒りを感じていた。ポセイドン自身も分かっている。千栄理が死んだこと、今はその葬儀が行われていること。それは彼自身も受け入れている筈だ。弱く、愚かな人間のように現実を認めていない訳ではない。彼女は、確かに死んでいた。
千栄理が殺されたという報告を受けた後、ハデスの配下達の手によってポセイドンの許へ運ばれた遺体をこの腕に抱いた時、冷え切った小さな体に悍ましい首の痕が付いているのを見たポセイドンは、何としても犯人を自分の前に引きずり出してやろうと決意した。槍でその身を貫くだけではとても足りない。まだ生きているうちに内臓を引きずり出し、これが貴様のどす黒く、つまらない凡愚の中身だと思い知らせ、死にゆく恐怖と絶望を味わわせながら、挽き潰して殺してやりたい。熱を出したという子供も道連れだ。それが罪人の家族であったならば、目の前で惨たらしく殺してやる。それ程の罪を犯したのだと後悔させてやりたい。そんな感情が内で渦巻く中、ふと、千栄理の目元に涙の痕を見たのだ。どれ程、恐ろしかっただろう。どれ程、苦しかっただろう。そして、どれ程……悲しかっただろう、と。思った。思ってしまった。愛していた『人間』に裏切られ、辱められ、無念のうちに殺された。我が妻となる筈だった人間。彼女は、確かに『人間』を愛していたのだ。そんな彼女を貶めるようなことを余がする訳にはいかない。彼女がこの世に在る内はこの醜い感情を見せたくない。彼女には輝かしい光の世界で静かに逝って欲しい。
そう思ったから、こうやって葬儀を執り行った。皆が千栄理を失ったことを悼み、涙している。頭では分かっている。これはそれ程、千栄理が神々に愛されていたのだと。それなのに、ポセイドンの頭の後ろの方で彼自身すら制御できない程の怒りと軽蔑に満ちている感覚が確かにあった。今すぐこの場にいる者共の心臓を貫き殺し、欠片も残らない程粉々にしてやりたい衝動が、ポセイドンの中で怪物のように暴れ回っていた。どうしたというのだ、と彼は思う。かつて、これ程の感情を覚えたことは無い。強過ぎる衝動に、ポセイドンは自分でも戸惑っていた。感情が渦潮のように暴れ回り、却って彼の玉体を硬直させていた。
「……?」
ふと、ポセイドンは自分の体を見下ろす。微かに震えている。彼は自分は恐怖しているのかと思った。だが、すぐにそれは違うのだと分かる。彼の肉体は洪水のように目まぐるしく変化している感情をどうにか内に留めておこうと硬直させ、外に出さないようにしているのだ。満杯になったコップの水が溢れ出さないようにしている表面張力のように。その証拠に彼は無意識に歯を食いしばり、パキパキと口の中で歯が擦れ合う音がしている。あまりにも様々な感情で埋め尽くされると、神も人間もある境地に達する。
それは『完全な無』だった。
「ほんと、バカだよねぇ」
千栄理が眠る棺の縁に肘を置いて花を添えるロキに、皆が注目する。葬儀の場に相応しくない発言にポセイドンが睨むも、次の言葉とロキの表情にまた視線を外した。
「今まで人間なんかの為に散々下層に降りて、怪我とか病気とか、放っておけば良いのに治して。バカが付く程、お人好しで……。なのに……なのにさ、なんでキミ、こんなとこで寝てんの……? いつもみたいに生意気な口利いて、怒れば良いじゃん! バカみたいに……っ! なんで…………なんで、キミが殺されなきゃいけないの? ほんっと、バカ」
「ロキ……」
意地なのか、ロキは涙は見せなかった。今にも泣き出しそうな顔で、代わりに手に持っていたピンク色のアンスリウムをそっと千栄理の枕元へ置いた。思わず、アレスの口から切なそうな声が溢れた。
「ボクは泣かないよ。ボクはキミが『嫌い』だから。ここに来てやっただけ感謝してよね」
言葉とは裏腹にロキは千栄理の冷たい額を撫でる。自分の言葉に何も反応せず、ただ氷のように冷たく、少し硬いその感触にもう彼女が動くことは二度と無いことがまざまざと分かり、震えた。少し前まで、あんなに熱かったのに。確かに血が通っていたのに。それは永遠に奪われ、物と同じになってしまった。人間の手によって。
棺に背を向け、その場からさっさと立ち去ろうとしたロキの中で次第にふつふつ、ふつふつ、とマグマに似た感情が沸き起こるのが分かった。胸につかえるようなそれは彼の口から言葉となって微かにその片鱗を覗かせた。
「殺してやる……必ず」
そのまま会場を出て行くロキを止める者は誰もいなかった。
彼の次に棺に花入れをしたのは釈迦だ。いつも口に入れている仏陀チャップスは無く、手には白菊が一本。彼らしい花を棺に入れると、釈迦はぽつりと呟いた。
「はぁ……チェリちゃんさぁ、人間と神の架け橋になりたかったんでしょ? だめだよ、死んじゃったら。これじゃ、本末転倒じゃん」
釈迦は今一度、安らかな千栄理の顔を覗き込み、やるせないと言いたげな表情を浮かべる。
「今だから言うけどさ。オレ、チェリちゃんのこと、ちょっと苦手だったんだよね」
よいしょ、と釈迦は棺の傍に座り込む。釈迦は生前の彼女と話していた時と変わらないトーンで棺に話し掛ける。時折、手にしている白菊をちょいちょいとつつきながら。
「だって、チェリちゃんからはあんまり欲とか煩悩って感じしなかったから。どっちかっていうと、『神』に近かったから。だから、ニガテだったんだよね。でも――」
徐に立ち上がった釈迦は棺にそっと白菊を入れて、寂しげに微笑む。
「やっぱ寂しいわ。じゃあね、チェリちゃん」
別れの握手のように彼女の小さく、冷たい手を握るその顔は、まるで「迷わずに逝きなよ」と言っているようだった。その達観したような表情と態度が、ほんの僅かにポセイドンの神経を逆撫でていく。しかし、槍を手にするまでには至らず、眼光だけで射殺せるような様相で釈迦を睨みつけるに留まった。それに気付いた彼は「おお、こわ」と小さく呟いて千栄理の手を放し、その場を立ち去って行った。去り際に手を振りながら。
そうして、他の神々の花入れが終わると、最後にギリシャ神達の花入れに移る。千栄理が死んだと報せを受けた時、散々泣いたのにまた涙が溢れてきたアレスは、傍らに立つヘルメスに支えられながら紫色のアリアムを入れ、哀悼の意を示すヘルメスも同じようにカスミソウを入れる。次に紫のヒヤシンスを入れたアポロンは、千栄理が生前好きだと言っていた曲を竪琴で奏で、それにまたアレスが涙した。
「千栄理は幸せ者だね。こんなに大勢の神々がキミの為に哀悼を示し、泣いてくれている」
何気なくアポロンの口から出てきた『幸せ』という言葉に、ポセイドンは静かな怒りを覚える。幸せ、だと……? これのどこが幸せなんだ、と。長兄の意見で始めた葬儀だったが、他の神の言葉や態度にポセイドンの怒りは確かに誰に知られること無く、積み上がっていく。ポセイドンは何故か、周りの神々が彼女の死を受け入れていることに途轍もない怒りを感じていた。ポセイドン自身も分かっている。千栄理が死んだこと、今はその葬儀が行われていること。それは彼自身も受け入れている筈だ。弱く、愚かな人間のように現実を認めていない訳ではない。彼女は、確かに死んでいた。
千栄理が殺されたという報告を受けた後、ハデスの配下達の手によってポセイドンの許へ運ばれた遺体をこの腕に抱いた時、冷え切った小さな体に悍ましい首の痕が付いているのを見たポセイドンは、何としても犯人を自分の前に引きずり出してやろうと決意した。槍でその身を貫くだけではとても足りない。まだ生きているうちに内臓を引きずり出し、これが貴様のどす黒く、つまらない凡愚の中身だと思い知らせ、死にゆく恐怖と絶望を味わわせながら、挽き潰して殺してやりたい。熱を出したという子供も道連れだ。それが罪人の家族であったならば、目の前で惨たらしく殺してやる。それ程の罪を犯したのだと後悔させてやりたい。そんな感情が内で渦巻く中、ふと、千栄理の目元に涙の痕を見たのだ。どれ程、恐ろしかっただろう。どれ程、苦しかっただろう。そして、どれ程……悲しかっただろう、と。思った。思ってしまった。愛していた『人間』に裏切られ、辱められ、無念のうちに殺された。我が妻となる筈だった人間。彼女は、確かに『人間』を愛していたのだ。そんな彼女を貶めるようなことを余がする訳にはいかない。彼女がこの世に在る内はこの醜い感情を見せたくない。彼女には輝かしい光の世界で静かに逝って欲しい。
そう思ったから、こうやって葬儀を執り行った。皆が千栄理を失ったことを悼み、涙している。頭では分かっている。これはそれ程、千栄理が神々に愛されていたのだと。それなのに、ポセイドンの頭の後ろの方で彼自身すら制御できない程の怒りと軽蔑に満ちている感覚が確かにあった。今すぐこの場にいる者共の心臓を貫き殺し、欠片も残らない程粉々にしてやりたい衝動が、ポセイドンの中で怪物のように暴れ回っていた。どうしたというのだ、と彼は思う。かつて、これ程の感情を覚えたことは無い。強過ぎる衝動に、ポセイドンは自分でも戸惑っていた。感情が渦潮のように暴れ回り、却って彼の玉体を硬直させていた。
「……?」
ふと、ポセイドンは自分の体を見下ろす。微かに震えている。彼は自分は恐怖しているのかと思った。だが、すぐにそれは違うのだと分かる。彼の肉体は洪水のように目まぐるしく変化している感情をどうにか内に留めておこうと硬直させ、外に出さないようにしているのだ。満杯になったコップの水が溢れ出さないようにしている表面張力のように。その証拠に彼は無意識に歯を食いしばり、パキパキと口の中で歯が擦れ合う音がしている。あまりにも様々な感情で埋め尽くされると、神も人間もある境地に達する。
それは『完全な無』だった。
