第三章 海神と恋人
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十月に入り、ポセイドンは会議へ向かう為、出かける準備をしていた。いつもの戦闘装束ではなく、千栄理もいつか見た白いスーツ姿に着替えるのを彼女もプロテウスと共に手伝った。最初は「お前はこんなことをする必要は無い」と言うポセイドンに千栄理が「こういうの、ちょっと憧れてたんです」と笑って言えば、ポセイドンは簡単に許してしまった。
「私の家は母子家庭だったんですけど、小さい頃、友達に聞いた話で、こうやって奥さんが旦那さんのネクタイを結んであげたりするって聞いてから、私も『好きな人と一緒に暮らせたら、絶対しよう』って決めてたんです」
「…………そうか」
こんなことを恋人に笑顔で言われたら、誰だって許してしまうだろう。それは海の最恐神と恐れられているポセイドンも例外ではなかった。好きにさせてやり、支度が調うとポセイドンは千栄理を引き寄せ、ソファに座る。時間ギリギリまでそうしていたいらしく、いつもなら「ダメですよ、ポセイドンさん」と注意する千栄理も一ヶ月間会えないと分かっているせいか、何も言わずに彼の手に頬を擦り寄せている。
ゼウスの説得により、ヘラクレスが来るのは数日後となった。「何故だ」と不服を唱えたポセイドンだったが、ヘラクレスにも都合というものがあると、頑として譲らなかった結果である。少々不安は残るが、仕方ない。そのことを以前にも伝えたが、再度ポセイドンが同じように伝えると、千栄理は彼を安心させるようににこっと微笑んだ。
「大丈夫ですよ、ポセイドンさん。私、ちゃんとここでプロテウスさん達と待ってます。お仕事、頑張って来て下さいね」
そんな言葉と共に頬へキスを送られれば、もう百人力である。表情には一切出さないが、ポセイドンは今年の会議は爆速で終わらせようと心中で固く決意する。実際はポセイドンの他にも大勢の神が出席するのだが、どんな手を使っても絶対に早く終わらせると決めたからには実現せねばならない。それが神としての彼の矜持だった。多分にゼウスが聞いたら、「そんなところで神の矜持を発揮すな」と言われそうだが。
「数日後にはなるが、ヘラクレス……彼奴も来る。それまであまり城から出るな」
「ええ? もう、どうしたんですか? 私なら大丈夫ですよ」
初めの頃に比べて友神や顔見知りも増えた千栄理にとって、天界は最早あまり危険なものの無い場所という認識だ。今更、ポセイドンがそんなことを言うのが少しおかしく思い、不思議そうに小首を傾げる。しかし、ポセイドンの不安は払拭されないようで、ほんの少しだけ眉を下げ、彼らしくなく、内にある不安を露わにして千栄理の頭を撫でる。千栄理がポセイドンの城に来てからこれ程長期間彼が城を空けることが無かったせいか、どうしても千栄理の身が心配なようだ。またぎゅっと自分の胸に彼女を抱き寄せると、耳元に唇を寄せてぼそりと囁く。
「余が留守の間、下層には行くな」
「それは……ちょっと難しいです」
「……」
少しだけ抱き締める力を緩め、互いの顔が見えるようになると、ポセイドンは何かを訴えるように眉を顰めて千栄理をじっと見つめる。その表情から自分の言うことを聞かない千栄理に対しての不満を読み取った彼女は、「だって……」と言葉を濁す。
「聞こえてくるんです……怪我や病気で苦しんでいる人達の声が。私、放っておくことなんてできません」
悲しげにそう返す千栄理。彼女の性格を知っているポセイドンは、言っても聞かないだろうと予測し、諦めたように息を吐いた。それを呆れからきた溜め息だと思った千栄理は小さく「ごめんなさい」と謝る。ポセイドンはそれを否定する為にもう一度彼女を抱き締め、「良い」といつものように優しく告げる。
「それでも余がいない間、何があるか分からぬ。用心はしておけ」
「ふふ。はい」
「……余は真面目に言っているつもりだが?」
「いいえ。ただ、心配してくれるのが嬉しくて……だめでしたか?」
真面目な話をしているのに、そう言ってはにかむ千栄理を見ていると、ポセイドンまで少し楽観的な気持ちになり、思わず彼も口元にふ、と微笑みを浮かべる。今は彼女を叱っている時なのだからと思い、千栄理に悟られまいとポセイドンは手で口元を隠す。
「それは少し、考えものだな」
「えへへ。ごめんなさい」
「良い。余が戻った時、お前がここにいれば良い」
「ポセイドン様、そろそろ……」
もう出なければいけない時刻が迫っていると報せてくれたプロテウスの声に、ポセイドンは応える代わりに立ち上がる。会議に出向こうと向けた爪先をふとずらし、ドアの傍にあるチェストへ近寄った。そこに置いてあったビロード張りの箱を開け、さっとあのピアスを耳に通す。
「あ、ポセイドンさん。それ……」
「着けて行くんですか?」と目で問う千栄理に向かって優しく微笑したポセイドンは、見せつけるように人差し指で片方のピアスに触れて言った。しゃらり、と涼し気な音がする。
「では、行って来る」
「はわ……」
暗に「見せびらかしてくる」と言われ、千栄理は羞恥で言葉にならない。いつもなら言える「行ってらっしゃい」もポセイドンの不意打ちのせいでままならず、耳まで真っ赤な顔でぽすんとソファに座り直すしかできなかった。まさか寡黙な主人がそんな小悪魔的なことをするとは思っていなかったプロテウスも、ぽかんと口を開けて呆けている。そんな二人を意に介した様子は無く、ポセイドンは涼しい顔でプロテウスへ言葉を掛ける。
「後は任せる」
「……え、あ、は、はっ! ご随意に!」
いつも冷静沈着なプロテウスも流石にすぐには反応できず、混乱する頭でもなんとか返事だけはできた。ポセイドンを見送ろうとついていく後ろ姿を見て、千栄理も慌てて立ち上がり、ぱたぱたと駆けて行く。そんな彼女の腕や肩にグレムリン達が掴まり、落ちないように皆それぞれいつもの落ち着く場所へ腰かけた。
外には既に会場へ向かう馬車の準備ができており、ステップが降りていた。見送りに来た一柱、一人と五匹へ振り返ったポセイドンは、千栄理へ手招きする。何だろうと思った彼女が近づくと、ポセイドンはその柔らかな頬に唇を寄せ、軽く触れた。最後に千栄理と目が合うようにじっと見つめると、何事も無かったかのようにステップを上がり、馬車へ乗り込んだ。その音ではっと我に返った千栄理はポセイドンに声が届くうちに告げた。
「行ってらっしゃい、ポセイドンさん」
その声に馬車に乗り込んだポセイドンは千栄理の方へ目をやり、安心させるように微笑みを返した。
「ああ、行って来る」
声は届かなかったが、口の動きでそう言ったのだと分かり、手を振るポセイドンに千栄理も同じように返した。
「では、行って参ります」
御者がそう言ってプロテウスへ一礼すると、彼と千栄理も同じように礼を返した。
馬車が見えなくなるまで手を振り、ポセイドンの見送りが終わると、途端に少し寂しげな顔をする千栄理にプロテウスは元気づけようと口を開いた。
「では、千栄理様。ポセイドン様がご不在なうちにケーキをお作りになってみてはいかがでしょう?」
「ケーキですか?」
一瞬、何のためのケーキだろうと考える千栄理にプロテウスは「あの方がお帰りになられるということは今年の会議も無事、終わったということ。長い勤務を終えたポセイドン様をお労りになるという意味でも、千栄理様のケーキがあれば、お喜びになられると思いますよ」と助言する。それはとても素敵なことだと思った千栄理は、「はい、是非!」と元気を取り戻した。
「プロテウスさん。ポセイドンさんが帰って来るまで一カ月もありますし、折角ならオリジナルのケーキを作ってみたいです!」
「おや、それはそれは。でしたら、ポセイドン様も驚くような大作にいたしましょう」
「はい! えへへ。楽しみですね」
そう言って、嬉しそうにステップを踏んで城内へ戻っていく千栄理とそんな彼女の手を引くプロテウス。本人は全く気付いていないが、幸せを体現したような彼女にはいつしか儚くも確かに後光が差し始めているのをプロテウスはただ見守っていた。
「私の家は母子家庭だったんですけど、小さい頃、友達に聞いた話で、こうやって奥さんが旦那さんのネクタイを結んであげたりするって聞いてから、私も『好きな人と一緒に暮らせたら、絶対しよう』って決めてたんです」
「…………そうか」
こんなことを恋人に笑顔で言われたら、誰だって許してしまうだろう。それは海の最恐神と恐れられているポセイドンも例外ではなかった。好きにさせてやり、支度が調うとポセイドンは千栄理を引き寄せ、ソファに座る。時間ギリギリまでそうしていたいらしく、いつもなら「ダメですよ、ポセイドンさん」と注意する千栄理も一ヶ月間会えないと分かっているせいか、何も言わずに彼の手に頬を擦り寄せている。
ゼウスの説得により、ヘラクレスが来るのは数日後となった。「何故だ」と不服を唱えたポセイドンだったが、ヘラクレスにも都合というものがあると、頑として譲らなかった結果である。少々不安は残るが、仕方ない。そのことを以前にも伝えたが、再度ポセイドンが同じように伝えると、千栄理は彼を安心させるようににこっと微笑んだ。
「大丈夫ですよ、ポセイドンさん。私、ちゃんとここでプロテウスさん達と待ってます。お仕事、頑張って来て下さいね」
そんな言葉と共に頬へキスを送られれば、もう百人力である。表情には一切出さないが、ポセイドンは今年の会議は爆速で終わらせようと心中で固く決意する。実際はポセイドンの他にも大勢の神が出席するのだが、どんな手を使っても絶対に早く終わらせると決めたからには実現せねばならない。それが神としての彼の矜持だった。多分にゼウスが聞いたら、「そんなところで神の矜持を発揮すな」と言われそうだが。
「数日後にはなるが、ヘラクレス……彼奴も来る。それまであまり城から出るな」
「ええ? もう、どうしたんですか? 私なら大丈夫ですよ」
初めの頃に比べて友神や顔見知りも増えた千栄理にとって、天界は最早あまり危険なものの無い場所という認識だ。今更、ポセイドンがそんなことを言うのが少しおかしく思い、不思議そうに小首を傾げる。しかし、ポセイドンの不安は払拭されないようで、ほんの少しだけ眉を下げ、彼らしくなく、内にある不安を露わにして千栄理の頭を撫でる。千栄理がポセイドンの城に来てからこれ程長期間彼が城を空けることが無かったせいか、どうしても千栄理の身が心配なようだ。またぎゅっと自分の胸に彼女を抱き寄せると、耳元に唇を寄せてぼそりと囁く。
「余が留守の間、下層には行くな」
「それは……ちょっと難しいです」
「……」
少しだけ抱き締める力を緩め、互いの顔が見えるようになると、ポセイドンは何かを訴えるように眉を顰めて千栄理をじっと見つめる。その表情から自分の言うことを聞かない千栄理に対しての不満を読み取った彼女は、「だって……」と言葉を濁す。
「聞こえてくるんです……怪我や病気で苦しんでいる人達の声が。私、放っておくことなんてできません」
悲しげにそう返す千栄理。彼女の性格を知っているポセイドンは、言っても聞かないだろうと予測し、諦めたように息を吐いた。それを呆れからきた溜め息だと思った千栄理は小さく「ごめんなさい」と謝る。ポセイドンはそれを否定する為にもう一度彼女を抱き締め、「良い」といつものように優しく告げる。
「それでも余がいない間、何があるか分からぬ。用心はしておけ」
「ふふ。はい」
「……余は真面目に言っているつもりだが?」
「いいえ。ただ、心配してくれるのが嬉しくて……だめでしたか?」
真面目な話をしているのに、そう言ってはにかむ千栄理を見ていると、ポセイドンまで少し楽観的な気持ちになり、思わず彼も口元にふ、と微笑みを浮かべる。今は彼女を叱っている時なのだからと思い、千栄理に悟られまいとポセイドンは手で口元を隠す。
「それは少し、考えものだな」
「えへへ。ごめんなさい」
「良い。余が戻った時、お前がここにいれば良い」
「ポセイドン様、そろそろ……」
もう出なければいけない時刻が迫っていると報せてくれたプロテウスの声に、ポセイドンは応える代わりに立ち上がる。会議に出向こうと向けた爪先をふとずらし、ドアの傍にあるチェストへ近寄った。そこに置いてあったビロード張りの箱を開け、さっとあのピアスを耳に通す。
「あ、ポセイドンさん。それ……」
「着けて行くんですか?」と目で問う千栄理に向かって優しく微笑したポセイドンは、見せつけるように人差し指で片方のピアスに触れて言った。しゃらり、と涼し気な音がする。
「では、行って来る」
「はわ……」
暗に「見せびらかしてくる」と言われ、千栄理は羞恥で言葉にならない。いつもなら言える「行ってらっしゃい」もポセイドンの不意打ちのせいでままならず、耳まで真っ赤な顔でぽすんとソファに座り直すしかできなかった。まさか寡黙な主人がそんな小悪魔的なことをするとは思っていなかったプロテウスも、ぽかんと口を開けて呆けている。そんな二人を意に介した様子は無く、ポセイドンは涼しい顔でプロテウスへ言葉を掛ける。
「後は任せる」
「……え、あ、は、はっ! ご随意に!」
いつも冷静沈着なプロテウスも流石にすぐには反応できず、混乱する頭でもなんとか返事だけはできた。ポセイドンを見送ろうとついていく後ろ姿を見て、千栄理も慌てて立ち上がり、ぱたぱたと駆けて行く。そんな彼女の腕や肩にグレムリン達が掴まり、落ちないように皆それぞれいつもの落ち着く場所へ腰かけた。
外には既に会場へ向かう馬車の準備ができており、ステップが降りていた。見送りに来た一柱、一人と五匹へ振り返ったポセイドンは、千栄理へ手招きする。何だろうと思った彼女が近づくと、ポセイドンはその柔らかな頬に唇を寄せ、軽く触れた。最後に千栄理と目が合うようにじっと見つめると、何事も無かったかのようにステップを上がり、馬車へ乗り込んだ。その音ではっと我に返った千栄理はポセイドンに声が届くうちに告げた。
「行ってらっしゃい、ポセイドンさん」
その声に馬車に乗り込んだポセイドンは千栄理の方へ目をやり、安心させるように微笑みを返した。
「ああ、行って来る」
声は届かなかったが、口の動きでそう言ったのだと分かり、手を振るポセイドンに千栄理も同じように返した。
「では、行って参ります」
御者がそう言ってプロテウスへ一礼すると、彼と千栄理も同じように礼を返した。
馬車が見えなくなるまで手を振り、ポセイドンの見送りが終わると、途端に少し寂しげな顔をする千栄理にプロテウスは元気づけようと口を開いた。
「では、千栄理様。ポセイドン様がご不在なうちにケーキをお作りになってみてはいかがでしょう?」
「ケーキですか?」
一瞬、何のためのケーキだろうと考える千栄理にプロテウスは「あの方がお帰りになられるということは今年の会議も無事、終わったということ。長い勤務を終えたポセイドン様をお労りになるという意味でも、千栄理様のケーキがあれば、お喜びになられると思いますよ」と助言する。それはとても素敵なことだと思った千栄理は、「はい、是非!」と元気を取り戻した。
「プロテウスさん。ポセイドンさんが帰って来るまで一カ月もありますし、折角ならオリジナルのケーキを作ってみたいです!」
「おや、それはそれは。でしたら、ポセイドン様も驚くような大作にいたしましょう」
「はい! えへへ。楽しみですね」
そう言って、嬉しそうにステップを踏んで城内へ戻っていく千栄理とそんな彼女の手を引くプロテウス。本人は全く気付いていないが、幸せを体現したような彼女にはいつしか儚くも確かに後光が差し始めているのをプロテウスはただ見守っていた。
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