第三章 海神と恋人
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いつものように下層へ降り立った千栄理に、控えていた女達は言った。「今日は特例として中央区から離れ、日本地区へ赴いて頂く」と。女神として『丁重に』扱われるようになってから久しぶりに街に下りられるのかと思うと、千栄理は少しだけ気分が明るくなる。だが、どうして今日に限ってここを離れるのかと女達に問えば、予想外の答えが返ってきた。
「本日は一人、規格外の方がいますので、女神様にはご足労頂きますが、何卒ご容赦頂きますようお願い申し上げます」
「い、いいえ。それは構わないのですけれど……」
恭しく頭を下げる女達にそれ以上、理由を問う気にはなれなかった千栄理は、『規格外』とはどういうことだろうと首を傾げながらも、その後の指示に従おうと頷いた。
それから千栄理は外から見えないようシェードが付けられた車に乗せられ、とある場所に連れて来られた。車から降りると、そこは何やら道場のようなところで、日差しが鈍く反射する瓦屋根の景色がなんだかひどく懐かしく見えた。車から降り立つと日傘とヴェールを差し出され、千栄理は内心「ここでもか」と少し残念に思ったが、仕方ないことだと自分に言い聞かせ、何も言わずに従ってヴェールを頭から被った。
日傘で作られた陰に入りながら、千栄理は建物の中へ足を踏み入れた。狭い玄関から見えたのは土俵。その周りで相撲取り達がそれぞれ稽古に励んでいる。彼女は初めて相撲部屋の中に入ったのだった。
「わ……すごい」
千栄理が思わずそう零してしまうほど、稽古は迫力ある光景だった。丸太ほどの太い柱に向かって体全体でぶつかって行くように張り手を繰り出すと、その激しい音が部屋中に響き渡り、衝撃がこちらにまで伝わってくるようだった。千栄理の傍にいた一人の女が中へ入り、険しい顔で稽古を見ている親方の隣に座っていた女将に挨拶した。女に気付いた女将はすぐさま立ち上がり、親方の肩を軽く叩いてこちらへ意識を向けさせた。
「おう、女神様のご到着かい!?」
「わざわざこちらにまでご足労頂いて、ありがとうございます」
「いいえ。これも女神さまのご意向ですから。癒しの力は皆平等に賜るものですので。それで、お怪我をした方はどちらに?」
「こちらです。足元にどうぞお気をつけて」
「悪いねぇ。狭っ苦しくて適わねぇとは思うが、如何せん、あいつは図体がああだしなぁ」
快活な親方の笑い声に見送られて、千栄理達は女将の案内で上階の個室へ通される。どうやら、怪我をしたのは横綱らしい。部屋の中に入ると、浴衣を着て布団に寝転がっている男が一人。しかし、その大きさはとにかく規格外という言葉が似合うほど大きかった。寝転がっている布団も大きければ、着ている浴衣も普通の成人男性の三倍はあろうかという程で、千栄理は最初に従者の女性に言われた『規格外』という言葉に心中で納得した。
女将に声を掛けられた男はこちらに気が付くと、「おおっ、あんたが噂の女神さんかい?」と居住まいを正した。男の顔を見た時、千栄理が真っ先に連想したのは雷だった。眉や髪型、目つきに至るまでどこか隙の無い鋭さを感じさせる様相だ。しかし、千栄理を目にした途端、男はその鋭い目をへにゃりと人懐っこく緩め、不思議そうに首を傾げる。その動きで千栄理の顔を覗き込もうとしているのだと気づいた付き人の女達は、さっと彼女の前に出て阻止する。その後も何度か男は千栄理の顔を見ようとするも、女もその動きに負けない動きで千栄理の顔を見せまいと頑張っていた。
とうとう男は千栄理の顔を見るのを諦めたのか、深い溜息を吐くと、「なんでぇ、お嬢さん方。随分ケチじゃのう」と拗ねたように口を尖らせる。大きな体格に似合わない子供っぽい仕草に思わず、千栄理の口から笑いが零れた。
「ふふっ」
「女神様っ!」
すかさず、すぐ傍にいた女に咎められて慌てて引っ込めるが、男は耳ざとく聞きつけ、「おっ、今のは別嬪さんの声だな?」と嬉しそうな声を上げる。そんな彼の言葉に千栄理は思わず、「そんなことありませんよ」と返してしまう。その返事にもまた女達に注意されるが、男に宥められた。
「まぁまぁ、お嬢さん方。そうカッカするもんじゃねぇよ。女神様だってたまには話してぇことがあるんじゃねぇのかい?」
「で、ですが、本来、我が国の神というのは……」
「それはお前さん達が勝手に言ってるだけだろ? 女神様の意思はちゃんと聞いたのかい?」
その言葉に女達は何も言えなかった。確かに男の言う通り、彼女達は今まで千栄理に『そう』と強いてきただけで、彼女自身からどうしたいだとか、こうしたいだとか直接訊いてはいなかった。黙り込んでしまった女達に少々バツが悪そうに肩を竦めた男は千栄理とヴェール越しに目が合うと、「会心の一撃ってやつだったか?」と呟く。その皮肉の利いた一言に千栄理は今度こそくすくすと笑ってしまった。それを聞いて今度は恥ずかしさで隣にいた女が千栄理を咎めるも、彼女はまだ笑いつつ返した。
「だって、図星だったのかなって、思って……ふふふ」
そう言って千栄理が尚も笑うと、隣に控えていた同い年くらいの女は拗ねたように頬を膨らませて黙り込んでしまった。その様子を見て笑うのを止めた千栄理は宥めようと口を開く。
「怒っちゃいました?」
「……いえ。ですが、女神様。決まりはしっかり守って頂かねば、困ります」
誤魔化すように「さぁ、治療を始めましょう」と促す彼女に従い、千栄理はいつものように本を取り出して男へ言った。
「準備ができましたので、お怪我をしたところを見せてください」
「ですから、女神様。そういったことはこちらで……」
「はいよ」
「もうっ!」
自分の忠告を聞いてくれない千栄理にとうとう怒った女は、ぷいっとそっぽを向いてしまう。珍しく彼女が見せた年相応の姿に千栄理と男は互いに顔を見合わせて笑った。
「稽古中に足をやっちまってね」とやや照れくさそうに患部を差し出した男の治療も終わり、千栄理は本を閉じる。
「はい、これでもう大丈夫ですよ」
「そうかい? それにしちゃあ、何というか……」
「? どこか違和感とかありますか?」
「ん~……そうだねぇ。今度は胸の辺りがちっくと痛むような……」
「えっ!? 見せてください!」
「いや、でも、これは……」
そこで男はぐっと千栄理に顔を近づけ、茶目っ気たっぷりに言ってみせる。
「あんたの顔を見たら、治るかもしれないねぇ。女神様」
「……へ?」
「雷電殿?」
ぐい、と千栄理と男の間に割り込む形で女の手が男・雷電為右衛門の顔を押しやる。それ以上近付くのも禁止だと聞くと、雷電はまた残念そうに「ケチじゃのう」と呟いた。
それからすぐに千栄理は神殿へ帰ることになり、彼女の付き人達はさっさと帰り支度を終えると、千栄理を外に連れ出して行った。相撲部屋に向かっていた時とは違い、日差しが少々強くなっている。付き人の女が差し出した日傘に入って千栄理は見送りに出てきた親方や女将、そして、雷電へ深々と一礼する。それが終わると、千栄理は待たせている車へ向かった。
門を抜けると、いつの間にか人が集まっており、千栄理の姿を認めると、歓声が上がった。街に女神が来ているとどこかから聞いた民衆が、一目見ようと集まって来たのだろう。周囲にたくさんの人がいるせいで、車まで辿り着くのは少々時間が掛かりそうだ。付き人の女達が道を開けるよう呼び掛けるも、人々の騒めきのせいで聞こえていない。どうしようと彼女達が困り果てていると、雷電が動いた。
静かに門前へ出た彼はただ一度、その場に響き渡る程の拍手を見せる。常人の三倍はあろうかという山のような体躯から発された風圧に周囲の人々は驚き、咄嗟に身を引いていく。そうして、道ができると雷電は千栄理の方へ視線を移した。
「おっ」
「あ……」
その瞬間、二人は目が合った。先程の風圧で千栄理のヴェールが翻り、周囲にその顔を晒していたのだ。慌てて付き人達が直したので、皆がその顔を見られたのは一瞬のことだったが、それでも雷電は満足そうににっと笑った。
「やっぱり、別嬪さんだったのう」
真っ直ぐな誉め言葉にかあっと頬が熱くなる千栄理を付き人達は車に乗せ、雷電達や民衆に何度も礼をしながら、去って行った。女神様のご尊顔が見られたと喜ぶ人々の中、雷電も千栄理達と同じように礼を返していた。
「本日は一人、規格外の方がいますので、女神様にはご足労頂きますが、何卒ご容赦頂きますようお願い申し上げます」
「い、いいえ。それは構わないのですけれど……」
恭しく頭を下げる女達にそれ以上、理由を問う気にはなれなかった千栄理は、『規格外』とはどういうことだろうと首を傾げながらも、その後の指示に従おうと頷いた。
それから千栄理は外から見えないようシェードが付けられた車に乗せられ、とある場所に連れて来られた。車から降りると、そこは何やら道場のようなところで、日差しが鈍く反射する瓦屋根の景色がなんだかひどく懐かしく見えた。車から降り立つと日傘とヴェールを差し出され、千栄理は内心「ここでもか」と少し残念に思ったが、仕方ないことだと自分に言い聞かせ、何も言わずに従ってヴェールを頭から被った。
日傘で作られた陰に入りながら、千栄理は建物の中へ足を踏み入れた。狭い玄関から見えたのは土俵。その周りで相撲取り達がそれぞれ稽古に励んでいる。彼女は初めて相撲部屋の中に入ったのだった。
「わ……すごい」
千栄理が思わずそう零してしまうほど、稽古は迫力ある光景だった。丸太ほどの太い柱に向かって体全体でぶつかって行くように張り手を繰り出すと、その激しい音が部屋中に響き渡り、衝撃がこちらにまで伝わってくるようだった。千栄理の傍にいた一人の女が中へ入り、険しい顔で稽古を見ている親方の隣に座っていた女将に挨拶した。女に気付いた女将はすぐさま立ち上がり、親方の肩を軽く叩いてこちらへ意識を向けさせた。
「おう、女神様のご到着かい!?」
「わざわざこちらにまでご足労頂いて、ありがとうございます」
「いいえ。これも女神さまのご意向ですから。癒しの力は皆平等に賜るものですので。それで、お怪我をした方はどちらに?」
「こちらです。足元にどうぞお気をつけて」
「悪いねぇ。狭っ苦しくて適わねぇとは思うが、如何せん、あいつは図体がああだしなぁ」
快活な親方の笑い声に見送られて、千栄理達は女将の案内で上階の個室へ通される。どうやら、怪我をしたのは横綱らしい。部屋の中に入ると、浴衣を着て布団に寝転がっている男が一人。しかし、その大きさはとにかく規格外という言葉が似合うほど大きかった。寝転がっている布団も大きければ、着ている浴衣も普通の成人男性の三倍はあろうかという程で、千栄理は最初に従者の女性に言われた『規格外』という言葉に心中で納得した。
女将に声を掛けられた男はこちらに気が付くと、「おおっ、あんたが噂の女神さんかい?」と居住まいを正した。男の顔を見た時、千栄理が真っ先に連想したのは雷だった。眉や髪型、目つきに至るまでどこか隙の無い鋭さを感じさせる様相だ。しかし、千栄理を目にした途端、男はその鋭い目をへにゃりと人懐っこく緩め、不思議そうに首を傾げる。その動きで千栄理の顔を覗き込もうとしているのだと気づいた付き人の女達は、さっと彼女の前に出て阻止する。その後も何度か男は千栄理の顔を見ようとするも、女もその動きに負けない動きで千栄理の顔を見せまいと頑張っていた。
とうとう男は千栄理の顔を見るのを諦めたのか、深い溜息を吐くと、「なんでぇ、お嬢さん方。随分ケチじゃのう」と拗ねたように口を尖らせる。大きな体格に似合わない子供っぽい仕草に思わず、千栄理の口から笑いが零れた。
「ふふっ」
「女神様っ!」
すかさず、すぐ傍にいた女に咎められて慌てて引っ込めるが、男は耳ざとく聞きつけ、「おっ、今のは別嬪さんの声だな?」と嬉しそうな声を上げる。そんな彼の言葉に千栄理は思わず、「そんなことありませんよ」と返してしまう。その返事にもまた女達に注意されるが、男に宥められた。
「まぁまぁ、お嬢さん方。そうカッカするもんじゃねぇよ。女神様だってたまには話してぇことがあるんじゃねぇのかい?」
「で、ですが、本来、我が国の神というのは……」
「それはお前さん達が勝手に言ってるだけだろ? 女神様の意思はちゃんと聞いたのかい?」
その言葉に女達は何も言えなかった。確かに男の言う通り、彼女達は今まで千栄理に『そう』と強いてきただけで、彼女自身からどうしたいだとか、こうしたいだとか直接訊いてはいなかった。黙り込んでしまった女達に少々バツが悪そうに肩を竦めた男は千栄理とヴェール越しに目が合うと、「会心の一撃ってやつだったか?」と呟く。その皮肉の利いた一言に千栄理は今度こそくすくすと笑ってしまった。それを聞いて今度は恥ずかしさで隣にいた女が千栄理を咎めるも、彼女はまだ笑いつつ返した。
「だって、図星だったのかなって、思って……ふふふ」
そう言って千栄理が尚も笑うと、隣に控えていた同い年くらいの女は拗ねたように頬を膨らませて黙り込んでしまった。その様子を見て笑うのを止めた千栄理は宥めようと口を開く。
「怒っちゃいました?」
「……いえ。ですが、女神様。決まりはしっかり守って頂かねば、困ります」
誤魔化すように「さぁ、治療を始めましょう」と促す彼女に従い、千栄理はいつものように本を取り出して男へ言った。
「準備ができましたので、お怪我をしたところを見せてください」
「ですから、女神様。そういったことはこちらで……」
「はいよ」
「もうっ!」
自分の忠告を聞いてくれない千栄理にとうとう怒った女は、ぷいっとそっぽを向いてしまう。珍しく彼女が見せた年相応の姿に千栄理と男は互いに顔を見合わせて笑った。
「稽古中に足をやっちまってね」とやや照れくさそうに患部を差し出した男の治療も終わり、千栄理は本を閉じる。
「はい、これでもう大丈夫ですよ」
「そうかい? それにしちゃあ、何というか……」
「? どこか違和感とかありますか?」
「ん~……そうだねぇ。今度は胸の辺りがちっくと痛むような……」
「えっ!? 見せてください!」
「いや、でも、これは……」
そこで男はぐっと千栄理に顔を近づけ、茶目っ気たっぷりに言ってみせる。
「あんたの顔を見たら、治るかもしれないねぇ。女神様」
「……へ?」
「雷電殿?」
ぐい、と千栄理と男の間に割り込む形で女の手が男・雷電為右衛門の顔を押しやる。それ以上近付くのも禁止だと聞くと、雷電はまた残念そうに「ケチじゃのう」と呟いた。
それからすぐに千栄理は神殿へ帰ることになり、彼女の付き人達はさっさと帰り支度を終えると、千栄理を外に連れ出して行った。相撲部屋に向かっていた時とは違い、日差しが少々強くなっている。付き人の女が差し出した日傘に入って千栄理は見送りに出てきた親方や女将、そして、雷電へ深々と一礼する。それが終わると、千栄理は待たせている車へ向かった。
門を抜けると、いつの間にか人が集まっており、千栄理の姿を認めると、歓声が上がった。街に女神が来ているとどこかから聞いた民衆が、一目見ようと集まって来たのだろう。周囲にたくさんの人がいるせいで、車まで辿り着くのは少々時間が掛かりそうだ。付き人の女達が道を開けるよう呼び掛けるも、人々の騒めきのせいで聞こえていない。どうしようと彼女達が困り果てていると、雷電が動いた。
静かに門前へ出た彼はただ一度、その場に響き渡る程の拍手を見せる。常人の三倍はあろうかという山のような体躯から発された風圧に周囲の人々は驚き、咄嗟に身を引いていく。そうして、道ができると雷電は千栄理の方へ視線を移した。
「おっ」
「あ……」
その瞬間、二人は目が合った。先程の風圧で千栄理のヴェールが翻り、周囲にその顔を晒していたのだ。慌てて付き人達が直したので、皆がその顔を見られたのは一瞬のことだったが、それでも雷電は満足そうににっと笑った。
「やっぱり、別嬪さんだったのう」
真っ直ぐな誉め言葉にかあっと頬が熱くなる千栄理を付き人達は車に乗せ、雷電達や民衆に何度も礼をしながら、去って行った。女神様のご尊顔が見られたと喜ぶ人々の中、雷電も千栄理達と同じように礼を返していた。
