第三章 海神と恋人
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ソファに座って緊張で震える手をなんとか押さえ付けながら、千栄理はポセイドンの耳にピアッサーの針を当てる。彼が示した場所を外さないよう軽く当てているだけだが、それでも緊張と不安から彼女の手はぷるぷると震えていた。
「……」
「………………ふっ」
「笑わないでください……っ。ポセイドンさん」
「いや、お前があまりに真剣なものだからな」
「だ、だって、変なところに開けちゃったら、大変ですし!」
「……そうか」
一瞬、「お前から与えられるものなら、たとえ痛みでも構わない」と言いそうになったポセイドンはそのような本音を言ってしまえば、きっと益々千栄理は心配するだろうと思い、口を噤んだ。そのままじっとしていると、真剣な面持ちの千栄理が一度、ポセイドンの耳から離れ、彼と間近で向かい合う形になる。その顔を見ていたポセイドンは何となく、特に理由は無く、顔を近づけてちゅっと唇に口付けた。突然のことに驚いた千栄理は、すぐ顔を真っ赤にして慌てふためく。
「なっ、なんでキスしたんですかっ!?」
「? …………お前がいたからだが?」
「何か問題でも?」とでも言いたげなポセイドンに対して、彼の耳からピアッサーを離した千栄理は両手で顔を覆い、「うぅ~……」と恥ずかしがる。いつまでもキスに慣れない様子の彼女を見ていると、ポセイドンは堪らない愛情を感じずにはいられない。そのまま抱き締めると胸に頭を預けた千栄理は消え入りそうな声で言った。
「そういうのは……ずるい、です」
「――普段のお前は、こうでもしないと余の腕に収まっていない」
だからもう少しこのままで、と暗に言っているポセイドンの意図を理解した千栄理は、何も言えずに大人しくされるがままになっていた。
それから数分して、千栄理の緊張も解れてきた頃を見計らい、再度挑戦する。今度は思い切って針を通すことができ、ポセイドンの両耳にファーストピアスが空けられた姿を見て千栄理は良かったと安堵の息を吐いた。
「余が空けるというのに、まるでお前が空けるようだったな」
「だって、本当は大切な方に傷を付けたくなんてないですから」
「それで良い。お前はずっとそのままでいろ」
優しく頬を撫でる手に目を細める千栄理を見て、自然とポセイドンの口元は緩んでしまうのだった。
それから数日後、千栄理の生活は少しずつ変化していった。最初は用事が無い限り、下層へ赴くのは月に一度だけだったが、各地区の領主達からもっと足を運んで欲しいという要望が多くなり、月に一度から一週間に一度となり、最近では一週間に三度来ることになってしまっていた。千栄理も毎朝神々にパンを運ばなければならないので、もうこれ以上は頻度を増やせないと領主達に言ってあるが、これから先、どうなるかは分からない。各地区にはアスクレピオスを筆頭とした町医者達がいるというのに、それでも皆千栄理の許へやって来るのだった。皆怪我や病気を治したいという目的や健康を願う願掛けが多いだろうが、中には女神の力を一目見たいという目的もあるのだろう。未だ人間達の千栄理への興味と信仰は衰えるどころか、増すばかりだった。
そんな日々が続くと、ある変化が千栄理の身に起こった。下層にいても、上層にいても、昼だろうが、夜だろうが、時間に関係無く、彼女には『ある声』が聞こえるようになっていた。
腹が……減ったなぁ
痛い……痛いよぉ、ママぁ
なんで、死んでからもこんな苦しみに耐えなければならないんだ……!
もうあたしはダメだよ。次の転生にも行けるかどうか……
女神様、どうか娘を助けてください!
そんな声がどこからともなく、彼女の耳に届くのだ。その度に千栄理は心を痛めて下層へ赴く。生来、心優しい彼女がその声を無視することなど、できはしないのだから。
そうやって人々の痛みや苦しみを癒している日々の中、千栄理はある男に出会った。
いつものように下層へ降り立って少しして、何やらカーテンの向こうからざわざわと数人のざわめきが聞こえてきた。その中で一段と大きな声が響く。
「いいから女神様に診て貰って来い。小次郎」
「いやぁ、武蔵殿。大した怪我じゃなし、吾は遠慮しておこう。女神様だって忙しい身の上。煩わせるようなことは――どわぁああっ!?」
カーテンの向こうからそんなやり取りが聞こえてきたかと思うと、どんっと押されてもんどり打ちながら入って来たのは、長い白髪を一つに結った侍風の老人だった。「何も押さなくともいいだろうに」とぶつぶつぼやき、痛そうに打った腰を押さえつつ、よっこいしょとこちらへ振り向いた彼は暫し無言で静止していた。ベール越しに千栄理と目が合った男はぱちくりと何度か瞬きをした後、近くにいた女の「あの……?」という一言に我に返ったようだった。
「おお、これはすまなんだ。いやぁ、随分と別嬪さんがいたもんで、驚いてしまった」
「え……?」
自分はベールを被っているのに、目の前の男の目には見えているのだろうか。驚きから微かに声を上げた千栄理は、はっと思わず口を押さえる。彼女の様子を見て、侍はまた少し驚いたようだった。
「おお、ここの女神様は喋らないと聞いていたが、そんなことは無いのかねぇ? 吾は運が良いと見える」
「す、すみません……」
「なぁに、こんなところに一日中詰めていちゃあ、女神様だって喋りたくなっちまうだろうねぇ。幸い、吾の怪我は大したものじゃない。治さなくとも良かったんだが……」
「女神様はどんな怪我も病気も立ちどころに治すことができますので、皆様こぞって、ここへ足を運ばれますよ」
「そうなのかい? その割にはなんだか、女神様の方が疲れてるように見えるねぇ」
どこか飄々としていながらも、鋭い観察眼を持っている侍に思わず、千栄理は恐縮してしまう。言葉にしていないその気配すら気取られたのか、侍は気さくに続ける。
「いや、余計なことだったかい? 女神様を怖がらせるつもりは無かったんだがねぇ」
「――いえ、お気遣いありがとうございます」
感謝の言葉に侍はまたも驚いて千栄理をまじまじと見つめた。彼の様子に不思議そうに首を傾げる彼女に、侍は「いや、少し驚いちまったもんで」とバツが悪そうに頭を掻く。
「お前さんは天界にいる女神様とはちょっと違う女神様みたいだねぇ」
そう言われても千栄理にはどういうことか分からず、どう答えて良いものか考えあぐねていると、周囲で控えていた女達が侍に患部を見せるよう促す。それに彼は「ああ、ここをやっちまってねぇ」と着物の左袖を捲った。そこには既にいくつもの古傷ができていたが、更にその上からぱっくりと大きく裂けている。彼の話によれば、山中を散策中に枝に引っ掛けて切ってしまったのだという。素人目に見ても、それは千栄理に余計な心配を掛けさせない為の嘘であろうと分かるが、彼女は彼の優しさに甘えることにした。いつものように本を開いて治癒の魔法を使うと、たちまち傷は塞がり、血も止まる。治った傷痕を感心したように見つめて侍は口を開いた。
「ほぉ、こいつぁ凄ぇ。……通りでみんなお前さんのとこに来る訳だ。これは……他の奴らが欲しがるのも無理は無い」
「佐々木小次郎殿、治療が済みましたら、速やかに退室をお願い致します」
「おお、すまないねぇ。お前さん達には世話になった。この恩はそちらさんに何かあった時の為に取っておこう。吾に返せるものがあれば、良いんだけどねぇ」
それだけ言い残して深々と一礼し、侍佐々木小次郎はカーテンの向こうへ消えた。
「……」
「………………ふっ」
「笑わないでください……っ。ポセイドンさん」
「いや、お前があまりに真剣なものだからな」
「だ、だって、変なところに開けちゃったら、大変ですし!」
「……そうか」
一瞬、「お前から与えられるものなら、たとえ痛みでも構わない」と言いそうになったポセイドンはそのような本音を言ってしまえば、きっと益々千栄理は心配するだろうと思い、口を噤んだ。そのままじっとしていると、真剣な面持ちの千栄理が一度、ポセイドンの耳から離れ、彼と間近で向かい合う形になる。その顔を見ていたポセイドンは何となく、特に理由は無く、顔を近づけてちゅっと唇に口付けた。突然のことに驚いた千栄理は、すぐ顔を真っ赤にして慌てふためく。
「なっ、なんでキスしたんですかっ!?」
「? …………お前がいたからだが?」
「何か問題でも?」とでも言いたげなポセイドンに対して、彼の耳からピアッサーを離した千栄理は両手で顔を覆い、「うぅ~……」と恥ずかしがる。いつまでもキスに慣れない様子の彼女を見ていると、ポセイドンは堪らない愛情を感じずにはいられない。そのまま抱き締めると胸に頭を預けた千栄理は消え入りそうな声で言った。
「そういうのは……ずるい、です」
「――普段のお前は、こうでもしないと余の腕に収まっていない」
だからもう少しこのままで、と暗に言っているポセイドンの意図を理解した千栄理は、何も言えずに大人しくされるがままになっていた。
それから数分して、千栄理の緊張も解れてきた頃を見計らい、再度挑戦する。今度は思い切って針を通すことができ、ポセイドンの両耳にファーストピアスが空けられた姿を見て千栄理は良かったと安堵の息を吐いた。
「余が空けるというのに、まるでお前が空けるようだったな」
「だって、本当は大切な方に傷を付けたくなんてないですから」
「それで良い。お前はずっとそのままでいろ」
優しく頬を撫でる手に目を細める千栄理を見て、自然とポセイドンの口元は緩んでしまうのだった。
それから数日後、千栄理の生活は少しずつ変化していった。最初は用事が無い限り、下層へ赴くのは月に一度だけだったが、各地区の領主達からもっと足を運んで欲しいという要望が多くなり、月に一度から一週間に一度となり、最近では一週間に三度来ることになってしまっていた。千栄理も毎朝神々にパンを運ばなければならないので、もうこれ以上は頻度を増やせないと領主達に言ってあるが、これから先、どうなるかは分からない。各地区にはアスクレピオスを筆頭とした町医者達がいるというのに、それでも皆千栄理の許へやって来るのだった。皆怪我や病気を治したいという目的や健康を願う願掛けが多いだろうが、中には女神の力を一目見たいという目的もあるのだろう。未だ人間達の千栄理への興味と信仰は衰えるどころか、増すばかりだった。
そんな日々が続くと、ある変化が千栄理の身に起こった。下層にいても、上層にいても、昼だろうが、夜だろうが、時間に関係無く、彼女には『ある声』が聞こえるようになっていた。
腹が……減ったなぁ
痛い……痛いよぉ、ママぁ
なんで、死んでからもこんな苦しみに耐えなければならないんだ……!
もうあたしはダメだよ。次の転生にも行けるかどうか……
女神様、どうか娘を助けてください!
そんな声がどこからともなく、彼女の耳に届くのだ。その度に千栄理は心を痛めて下層へ赴く。生来、心優しい彼女がその声を無視することなど、できはしないのだから。
そうやって人々の痛みや苦しみを癒している日々の中、千栄理はある男に出会った。
いつものように下層へ降り立って少しして、何やらカーテンの向こうからざわざわと数人のざわめきが聞こえてきた。その中で一段と大きな声が響く。
「いいから女神様に診て貰って来い。小次郎」
「いやぁ、武蔵殿。大した怪我じゃなし、吾は遠慮しておこう。女神様だって忙しい身の上。煩わせるようなことは――どわぁああっ!?」
カーテンの向こうからそんなやり取りが聞こえてきたかと思うと、どんっと押されてもんどり打ちながら入って来たのは、長い白髪を一つに結った侍風の老人だった。「何も押さなくともいいだろうに」とぶつぶつぼやき、痛そうに打った腰を押さえつつ、よっこいしょとこちらへ振り向いた彼は暫し無言で静止していた。ベール越しに千栄理と目が合った男はぱちくりと何度か瞬きをした後、近くにいた女の「あの……?」という一言に我に返ったようだった。
「おお、これはすまなんだ。いやぁ、随分と別嬪さんがいたもんで、驚いてしまった」
「え……?」
自分はベールを被っているのに、目の前の男の目には見えているのだろうか。驚きから微かに声を上げた千栄理は、はっと思わず口を押さえる。彼女の様子を見て、侍はまた少し驚いたようだった。
「おお、ここの女神様は喋らないと聞いていたが、そんなことは無いのかねぇ? 吾は運が良いと見える」
「す、すみません……」
「なぁに、こんなところに一日中詰めていちゃあ、女神様だって喋りたくなっちまうだろうねぇ。幸い、吾の怪我は大したものじゃない。治さなくとも良かったんだが……」
「女神様はどんな怪我も病気も立ちどころに治すことができますので、皆様こぞって、ここへ足を運ばれますよ」
「そうなのかい? その割にはなんだか、女神様の方が疲れてるように見えるねぇ」
どこか飄々としていながらも、鋭い観察眼を持っている侍に思わず、千栄理は恐縮してしまう。言葉にしていないその気配すら気取られたのか、侍は気さくに続ける。
「いや、余計なことだったかい? 女神様を怖がらせるつもりは無かったんだがねぇ」
「――いえ、お気遣いありがとうございます」
感謝の言葉に侍はまたも驚いて千栄理をまじまじと見つめた。彼の様子に不思議そうに首を傾げる彼女に、侍は「いや、少し驚いちまったもんで」とバツが悪そうに頭を掻く。
「お前さんは天界にいる女神様とはちょっと違う女神様みたいだねぇ」
そう言われても千栄理にはどういうことか分からず、どう答えて良いものか考えあぐねていると、周囲で控えていた女達が侍に患部を見せるよう促す。それに彼は「ああ、ここをやっちまってねぇ」と着物の左袖を捲った。そこには既にいくつもの古傷ができていたが、更にその上からぱっくりと大きく裂けている。彼の話によれば、山中を散策中に枝に引っ掛けて切ってしまったのだという。素人目に見ても、それは千栄理に余計な心配を掛けさせない為の嘘であろうと分かるが、彼女は彼の優しさに甘えることにした。いつものように本を開いて治癒の魔法を使うと、たちまち傷は塞がり、血も止まる。治った傷痕を感心したように見つめて侍は口を開いた。
「ほぉ、こいつぁ凄ぇ。……通りでみんなお前さんのとこに来る訳だ。これは……他の奴らが欲しがるのも無理は無い」
「佐々木小次郎殿、治療が済みましたら、速やかに退室をお願い致します」
「おお、すまないねぇ。お前さん達には世話になった。この恩はそちらさんに何かあった時の為に取っておこう。吾に返せるものがあれば、良いんだけどねぇ」
それだけ言い残して深々と一礼し、侍佐々木小次郎はカーテンの向こうへ消えた。
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