第三章 海神と恋人
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それからあまり日を置かずして、始皇帝からピアスの製作が終わったという報せがヘルメスを通して千栄理の耳へ届いた。その報せを聞くと、直ぐ様彼女はポセイドンへ下層へ行ってもいいかと伺いを立てる。窓際に持って来た椅子に座って読書をしていたポセイドンは本から目を外して千栄理の方を見ると、明らかに不機嫌な顔になる。行って欲しくないと表情で語る彼の後ろから抱きついた千栄理は「なるべく早く帰りますね」と言う。そんなことをされれば、ポセイドンは許すしか無かった。いつものように頬や唇、最後に額へキスを落とす。
「余からの祝福だ」
「じゃあ、私も」
座ったままのポセイドンの頬と額にキスをして、そのまま離れようとした千栄理の手をそっと掴んで、ポセイドンは引き止めた。不思議そうに振り返る千栄理に彼は勝気な笑みを浮かべて、トントンと自分の唇を人差し指で示した。
「ここにはしないのか?」
「そっ、れは……」
かあ、と千栄理の頬が紅潮する。恥ずかしがっている彼女を見てポセイドンはキスは貰えないのかと思っていたが、千栄理は頬を押さえていた両手を外し、意を決した顔をしたかと思うと、ちゅっと柔らかな感触がした。一瞬だけしてすぐ離れようとした彼女の後頭部をそっと押さえたポセイドンは、その柔らかな感触を楽しむように唇で優しく食む。離れ難い。離れたくない。そんな感情が透けて見えるキスに、千栄理も同じ気持ちだったが、息が苦しいと彼の胸を軽く叩いて訴える。そっと解放されて千栄理は赤い頬のまま、恥ずかしそうに口を開いた。
「じゃ、じゃあ、私、行って来ますねっ」
「ふふ……。ああ」
何度か周りの家具に体をぶつけそうになりながらも、慌ただしく出て行く千栄理の後ろ姿をポセイドンは優しげな微笑みを浮かべて見送った。
出かける準備を終えた千栄理はポセイドンの城を出て中庭へ。彼女にとっては懐かしいあの場所へ足を運ぶ。中庭から灯りの点いていない武器倉庫の扉を開け、中に入ると同時にしっかり閉めて横切った千栄理は、外庭へ出た。武器倉庫の扉を再び閉めると、彼女の目の前には井戸があった。初めてポセイドンと出会い、下界へ送られた時に通った井戸。少し前にその井戸はある呪文を口にすれば、下界へ降りることができるようにゼウスの力で『調整』してくれたのだった。
井戸の前に立った千栄理はその縁を手で撫でて、下層の人間達の国を思い浮かべながらその『呪文』を唱える。
水よ 我の姿を見よ 我の言葉を聞け
我は海神ポセイドンの眷属なり
我に道を開けよ この呼び声が聞こえるなら
我を彼の地へ運べ この姿を映すのなら
たとえ地の底より来る冥界の使者であろうとも
たとえ何より強硬なる岩石だろうとも
たとえ荒れ狂う雷だろうとも
我に道を開けよ
千栄理は果たしてこの呪文の意味を分かっているのか、甚だ疑問を感じざるを得ない、実に楽しげな様子で唱えているが、ポセイドンが聞いていたらきっと満足そうに微笑んでいたことだろう。呪文を唱え終わると、いつの間にか井戸は澄んだ水で満たされており、その水面に下層の景色を映し出した。それが消えないうちに千栄理は井戸の縁に立つと、そっとその身を水の中へ滑り込ませた。
冷たい水の感触は最初だけですぐに纏わりつく重い水の感覚は無くなり、心地よい浮遊感に包まれる。ゆっくりと目を開けると、千栄理は中央区の展望台へ向かって降りていく景色が見えた。下層の魂魄達とゼウスによって繋がれた千栄理専用の通り道は相も変わらず、天使が舞い降りる時に使うような道で、彼女は内心大袈裟だと思っていた。持って来たトートバッグの肩紐を少し不安げに握り、中にいるグレムリン達は酔ったりしていないかと心配する。千栄理が下層に降りる時には必ず彼らがついて来てくれるようになっていた。やがて展望台に両足がつき、千栄理は傍らにバッグを置いてそのままそこ、『女神の玉座』に座った。神社を想起させる意匠を施した椅子に周囲をギリシャの神殿にあるような柱が点在するその空間は、千栄理の人間離れした見目もあって、空間自体が一つの神座と化していた。
そして、これも最早恒例だが、彼女がここへ来ると必ず現れる者達がいた。柱の陰からすっと現れたのは、白いローブを着てフードを被っている四人の女達だった。四人共千栄理の顔を見ないよう頭を伏せたままで彼女の周りに集まり、彼女達と同じような白いローブを着せられ、その上から金で造られた首飾りや冠を身に付けた後は白い布を顔が隠れるようにして千栄理に被せてから漸く顔を上げた。こういった『演出』も彼女にとっては不要なものだった。しかし、女神というものはそうもいかないのだろう。以前に断ろうとした彼女だったが、この四人に宥められて仕方なく着ているのだった。柔らかな絹の白布を纏えば、彼女の『女神としての仕事』が始まる。
「女神様のご準備ができましたので、これからお一人ずつ中へ入って頂き、女神様の『加護』を賜りください」
この空間と隣の通路を隔てるカーテンの向こうでそんな声が聞こえる。ここにいる四人の他にも彼女を信奉している者は多い。その内の一人だろう。その言葉が終わると同時に入って来たのは、やはりというべきか、始皇帝だった。彼は千栄理と向かい合わせになるよう指定された座に座ると、いつものように朗らかに口を開いた。
「久しいな、千栄理。そなたに会えるのを楽しみにしていた」
「……」
千栄理が女神として正式に扱われるようになってから、こうして相談者と個人的な会話をすることは控えるように言われていた。そう伝えられた時にも千栄理はおかしいことだとは思ったが、慣例を破ればまたあの『災害』のようなことが絶対に起きないとも考えられない。あれ以降、千栄理は少し慎重になろうと努めていた。
千栄理の傍らにいた女が始皇帝に「お静かに」と注意する。だが、彼はそれに構うことなく、それどころか女達の制止を振り切って千栄理の傍へ近寄った。
「皇帝陛下! 何卒、女神様にはお手を触れぬよう――」
せめて触れることは止めようと発された言葉にまたしても始皇帝は片手を挙げて制止し、さも当然といった風に千栄理の前に跪いてその手に小さな箱を乗せた。ビロードが貼られたその箱を開けると、そこにはラピスラズリとヘマタイトが飾られた一組のピアスが収まっている。千栄理がそれを確認したと分かると、始皇帝は頭を垂れて言った。
「我が愛する女神への献上品だ。そなたに受け取って欲しい」
始皇帝の言葉を聞いて女達は驚愕のあまり、言葉を失った。千栄理には決まった相手ポセイドンがいる。そんなことはここにいる誰もが分かっていることだ。だからこそ、彼女はポセイドンの妻アムピトリテとして崇拝されている。女神である彼女に想いを告げるとはどういうことか、この場にいる誰もがその意味を知らない筈は無かった。
「始皇帝陛下! どうかそれ以上はなりませんっ!」
「……ありがとう、ございます」
「女神様!?」
女神は人間と口を利いてはならない。それでも自分の頼みを聞いてくれた友人として、千栄理は始皇帝へ言葉を返したかった。しかし、それ以上の言葉を許されない彼女は布の下できゅっと唇を引き結び、押し黙るしかない。彼女の事情を理解している始皇帝も何か物言いたげな表情をしていたが、それを口にすることはなく、すっと千栄理から離れる。
「朕の用事は済んだ。ではな、千栄理」
「陛下、みだりに女神様の真名を口になさいませんように」
「むぅ……。ここは決まり事が多いな」
未だ日本の神の扱い方に些か不満を露わにしながらも、始皇帝は「ではな」と言い残してカーテンの向こうへ去って行った。友人にまともに礼を言うことも許されない現状に、やるせない思いを抱きながら、千栄理はその背中を見送った。しかし、それも束の間。
「では、次の方」
その言葉が終わると、また違う誰かがカーテンを開いて千栄理の前に現れるのだった。
「余からの祝福だ」
「じゃあ、私も」
座ったままのポセイドンの頬と額にキスをして、そのまま離れようとした千栄理の手をそっと掴んで、ポセイドンは引き止めた。不思議そうに振り返る千栄理に彼は勝気な笑みを浮かべて、トントンと自分の唇を人差し指で示した。
「ここにはしないのか?」
「そっ、れは……」
かあ、と千栄理の頬が紅潮する。恥ずかしがっている彼女を見てポセイドンはキスは貰えないのかと思っていたが、千栄理は頬を押さえていた両手を外し、意を決した顔をしたかと思うと、ちゅっと柔らかな感触がした。一瞬だけしてすぐ離れようとした彼女の後頭部をそっと押さえたポセイドンは、その柔らかな感触を楽しむように唇で優しく食む。離れ難い。離れたくない。そんな感情が透けて見えるキスに、千栄理も同じ気持ちだったが、息が苦しいと彼の胸を軽く叩いて訴える。そっと解放されて千栄理は赤い頬のまま、恥ずかしそうに口を開いた。
「じゃ、じゃあ、私、行って来ますねっ」
「ふふ……。ああ」
何度か周りの家具に体をぶつけそうになりながらも、慌ただしく出て行く千栄理の後ろ姿をポセイドンは優しげな微笑みを浮かべて見送った。
出かける準備を終えた千栄理はポセイドンの城を出て中庭へ。彼女にとっては懐かしいあの場所へ足を運ぶ。中庭から灯りの点いていない武器倉庫の扉を開け、中に入ると同時にしっかり閉めて横切った千栄理は、外庭へ出た。武器倉庫の扉を再び閉めると、彼女の目の前には井戸があった。初めてポセイドンと出会い、下界へ送られた時に通った井戸。少し前にその井戸はある呪文を口にすれば、下界へ降りることができるようにゼウスの力で『調整』してくれたのだった。
井戸の前に立った千栄理はその縁を手で撫でて、下層の人間達の国を思い浮かべながらその『呪文』を唱える。
水よ 我の姿を見よ 我の言葉を聞け
我は海神ポセイドンの眷属なり
我に道を開けよ この呼び声が聞こえるなら
我を彼の地へ運べ この姿を映すのなら
たとえ地の底より来る冥界の使者であろうとも
たとえ何より強硬なる岩石だろうとも
たとえ荒れ狂う雷だろうとも
我に道を開けよ
千栄理は果たしてこの呪文の意味を分かっているのか、甚だ疑問を感じざるを得ない、実に楽しげな様子で唱えているが、ポセイドンが聞いていたらきっと満足そうに微笑んでいたことだろう。呪文を唱え終わると、いつの間にか井戸は澄んだ水で満たされており、その水面に下層の景色を映し出した。それが消えないうちに千栄理は井戸の縁に立つと、そっとその身を水の中へ滑り込ませた。
冷たい水の感触は最初だけですぐに纏わりつく重い水の感覚は無くなり、心地よい浮遊感に包まれる。ゆっくりと目を開けると、千栄理は中央区の展望台へ向かって降りていく景色が見えた。下層の魂魄達とゼウスによって繋がれた千栄理専用の通り道は相も変わらず、天使が舞い降りる時に使うような道で、彼女は内心大袈裟だと思っていた。持って来たトートバッグの肩紐を少し不安げに握り、中にいるグレムリン達は酔ったりしていないかと心配する。千栄理が下層に降りる時には必ず彼らがついて来てくれるようになっていた。やがて展望台に両足がつき、千栄理は傍らにバッグを置いてそのままそこ、『女神の玉座』に座った。神社を想起させる意匠を施した椅子に周囲をギリシャの神殿にあるような柱が点在するその空間は、千栄理の人間離れした見目もあって、空間自体が一つの神座と化していた。
そして、これも最早恒例だが、彼女がここへ来ると必ず現れる者達がいた。柱の陰からすっと現れたのは、白いローブを着てフードを被っている四人の女達だった。四人共千栄理の顔を見ないよう頭を伏せたままで彼女の周りに集まり、彼女達と同じような白いローブを着せられ、その上から金で造られた首飾りや冠を身に付けた後は白い布を顔が隠れるようにして千栄理に被せてから漸く顔を上げた。こういった『演出』も彼女にとっては不要なものだった。しかし、女神というものはそうもいかないのだろう。以前に断ろうとした彼女だったが、この四人に宥められて仕方なく着ているのだった。柔らかな絹の白布を纏えば、彼女の『女神としての仕事』が始まる。
「女神様のご準備ができましたので、これからお一人ずつ中へ入って頂き、女神様の『加護』を賜りください」
この空間と隣の通路を隔てるカーテンの向こうでそんな声が聞こえる。ここにいる四人の他にも彼女を信奉している者は多い。その内の一人だろう。その言葉が終わると同時に入って来たのは、やはりというべきか、始皇帝だった。彼は千栄理と向かい合わせになるよう指定された座に座ると、いつものように朗らかに口を開いた。
「久しいな、千栄理。そなたに会えるのを楽しみにしていた」
「……」
千栄理が女神として正式に扱われるようになってから、こうして相談者と個人的な会話をすることは控えるように言われていた。そう伝えられた時にも千栄理はおかしいことだとは思ったが、慣例を破ればまたあの『災害』のようなことが絶対に起きないとも考えられない。あれ以降、千栄理は少し慎重になろうと努めていた。
千栄理の傍らにいた女が始皇帝に「お静かに」と注意する。だが、彼はそれに構うことなく、それどころか女達の制止を振り切って千栄理の傍へ近寄った。
「皇帝陛下! 何卒、女神様にはお手を触れぬよう――」
せめて触れることは止めようと発された言葉にまたしても始皇帝は片手を挙げて制止し、さも当然といった風に千栄理の前に跪いてその手に小さな箱を乗せた。ビロードが貼られたその箱を開けると、そこにはラピスラズリとヘマタイトが飾られた一組のピアスが収まっている。千栄理がそれを確認したと分かると、始皇帝は頭を垂れて言った。
「我が愛する女神への献上品だ。そなたに受け取って欲しい」
始皇帝の言葉を聞いて女達は驚愕のあまり、言葉を失った。千栄理には決まった相手ポセイドンがいる。そんなことはここにいる誰もが分かっていることだ。だからこそ、彼女はポセイドンの妻アムピトリテとして崇拝されている。女神である彼女に想いを告げるとはどういうことか、この場にいる誰もがその意味を知らない筈は無かった。
「始皇帝陛下! どうかそれ以上はなりませんっ!」
「……ありがとう、ございます」
「女神様!?」
女神は人間と口を利いてはならない。それでも自分の頼みを聞いてくれた友人として、千栄理は始皇帝へ言葉を返したかった。しかし、それ以上の言葉を許されない彼女は布の下できゅっと唇を引き結び、押し黙るしかない。彼女の事情を理解している始皇帝も何か物言いたげな表情をしていたが、それを口にすることはなく、すっと千栄理から離れる。
「朕の用事は済んだ。ではな、千栄理」
「陛下、みだりに女神様の真名を口になさいませんように」
「むぅ……。ここは決まり事が多いな」
未だ日本の神の扱い方に些か不満を露わにしながらも、始皇帝は「ではな」と言い残してカーテンの向こうへ去って行った。友人にまともに礼を言うことも許されない現状に、やるせない思いを抱きながら、千栄理はその背中を見送った。しかし、それも束の間。
「では、次の方」
その言葉が終わると、また違う誰かがカーテンを開いて千栄理の前に現れるのだった。
