ハニーレモンに口付けて
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その日セーニャはいつものように家内にあるレッスンルームで朝の日課となっているお気に入りの曲を一曲弾き終え、部屋のベランダから緑豊かな庭を眺めながら朝食を食べていた。
「今日のパンケーキは蜂蜜入りね、ねぇスチュワート」
「左様でございます、お嬢様は昔からお好きでしたので。」
昔は母が焼いてくれることもあったが今はおねだりすることもない。執事であるスチュワートに用意してくれたパンケーキのお礼を伝えて一口頬張り、追ってアールグレイの紅茶を飲む。
いつからだったか、朝は紅茶がないと始まらない身体になってしまったのも母の影響だ。セーニャは母が大好きでたまらなかった。
気付けば母の後を付いて回っていたセーニャはバイオリニストの母とピアニストの父との間に産まれた。幼少より身近に音楽があり、触れることで大好きになった。そんな母の勧めもありセーニャもバイオリンを弾き始めてかれこれ何年経っただろうか。
セーニャの両親もプロとしてコンサートや公演でプラント中から引っ張りだこ状態でこの家にいることの方が少なく、今では会話も少ないがそんなセーニャもバイオリニストとなり、プロとして仕事するようになって数年経った。
「お嬢様、先ほど今後のスケジュールについてご相談がある、とケヴィン様からご連絡が御座いました。」
「あら、何かあったのかしら。少しの間はゆっくり出来ると聞いていたのだけれど…」
「直接お話したいとの事でこれからお迎えにあがるそうです。」
「わかりました、じゃあもう一曲くらいは出来るかしら」
「もちろんで御座います。」
執事のスチュワートから用件を聞きながらいつのまにか朝食をぺろりと食べ終えたセーニャは出掛ける準備も早々に再度室内へ戻り相棒であるバイオリンを手に取った。
何か新しい事がありそうだな、とわくわくした気持ちで弦を弾く。軽やかな音が室内に響き、あっという間に弾き終えた頃には気付けば3曲ほど続けて弾いてしまっていた。
弾き終えてやり過ぎた、と気付いたのは3曲目を弾き終えたところで拍手が聞こえたからだ。部屋の入り口の方を見やると先ほど話に出てきたケヴィンがそこにいた。
「おはよう、セーニャ。今日は調子良さそうだな。」
「おはようケヴィン。貴方も今日は何かあるみたいね、何かしら?」
「そうそう、その話なんだけど大事な事だからきちんと伝えたくてさ。朝から来ちゃった、ごめんな。」
いいんですよ、と微笑めば「良かった、そう言ってくれると思ってた」と言う。このケヴィンという男は年が3つ上の従兄弟であり私のマネージャーだ。私のスケジュール管理をしてくれるとても仕事の出来る人である。
今日もその仕事について何やら重要な連絡があるようでわざわざ家まで来てくれたようだが、一体何があったのだろうか。表情からは少したどたどしさを感じられるが雰囲気からは悪い話ではないようだ。
そろそろご用件を聞いてもいいかしら?と聞けば彼は「これから話すのは断ってもいい。けど出来れば受けてほしい。」と頭を下げられた。
「まず新たに仕事の話があったから話を相手側から聞いといた。お相手側はピアノでセーニャとデュオコンサートを開かないか、と誘ってきたよ。」
「まぁ素敵。それはぜひお受けしたいですね。」
「…でもその相手が問題なんだよなぁ」
「お相手が?…まさか、」
セーニャがケヴィンの話から推測した相手に顔を一気に蒼白になっていく。思わず口元を手で隠すように抑える。
「そう、そのまさか。セーニャも聞いた事はあると思う方だけど今回そのお話を頂いたのはピアニストのニコル・アマルフィさん。」
「そんな…これではとてもじゃありませんがコンサートどころか演奏すらも…」
「セーニャ、気持ちは痛いほどわかる。でもこのままじゃいけないだろう?仕事の為とは言わない、セーニャの為に、だ。」
そう言ったあとにケヴィンは「まだ相手には検討するとだけ伝えてるからお断りすることも出来る。」と改めて告げられたがセーニャはあまりにも急なことに上手く気持ちを整理出来ないでいた。
セーニャとそのニコルという人との間に問題があるわけではなく、その2人自体は面識はない。しかしセーニャにはある欠点があった。
「セーニャ、あの事件で男性が恐くなったのは無理もない。でもこのままではいけないと、セーニャもそう思うだろう?」
そう、セーニャは男性恐怖症であった。そうは言っても現にケヴィンやスチュワートとは話しが出来ているがそもそもこれにはある事件が関係していた。
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それはセーニャがプロデビューしてから数ヶ月後のソロコンサートだった。プロとしては2度目となるコンサートだったがお客さんもたくさん来てくださり演奏そのものも大満足の出来であった。
その日はもちろん気分良く、そして気持ちよく眠れるものだとセーニャは思っていた。しかし帰り支度をしていたところ、楽屋にノックの音が響いた。
(誰かしら…?)
ケヴィンであれば声をかけてくるけれど、と少し不審に思いながらもセーニャははーい、と返事をして扉を開けた。するとそこには見慣れぬ男性が花束を持って立っていた。
「あ、あの!今日の演奏も凄く良くて、その、セーニャさんのこと好きなんです!良かったらこれ受け取ってください…!」
そう言って慌ただしい動きと口調で緊張してるのはバレバレだったがもちろん悪い気はしないので快く男性から花束を受け取った。
「まぁ、嬉しい。とても綺麗なお花ですね、お部屋に飾らせていただきます。ありがとうございます。」
そう言って微笑むと彼はウッと何か詰まったような顔をしたのちまた話し出した。どれほど良かったか、セーニャさんの演奏はいつ聴いても素晴らしい、と大絶賛され居た堪れない気持ちになりつつもプロとなってからこのようにファンから話を聞けたのはこれが初めてで、セーニャは純粋に嬉しかった。
「そんなに聴いてくださったのですね、ありがとうございます。これからも精進いたしますね。」
「そんな!セーニャさんは今のままでも素晴らしい!…でも」
「?でも?」
途切れた言葉に返すとその男性は楽屋へとズカズカ押し入ってきた。部屋のソファへと押し倒されたセーニャは何が起きたか一瞬分からず、目をパチパチとさせたがこれはマズイと瞬時に判断した。
「あの…!」
「セーニャさんは僕といればもっと完璧なんだ!もっと美しく、もっと可憐に!
だから、僕と一緒に生きてくれ、僕の側にずっといてくれ、
君を全部 食ベテアゲル 」
押し倒されたうえ両腕を抑えつけられ、馬乗りになった男性は空いた片手で懐からサバイバルナイフを取り出した。
セーニャは暴れたが力の差は歴然で全く動かず、泣きじゃくりながら助けを求めた。
「やめて!誰か、誰か助けて…!!」
セーニャが暴れることで押さえつけるのに必死になっていて中々刺し殺すことの出来ない男性はイラつき「黙ってくれよ!!君を愛せないだろうが!!」と大きな声で何度も強くセーニャの頬を叩いた。
しかしその声を聞きつけたケヴィンが部屋に入りそのまま男性は取り押さえられた。部屋の隅で震えたセーニャは数ヶ月親族すらもまともに話すことが出来ず部屋に篭っていたのだが、みんなの協力もあり、それから一年後やっと復帰を果たしたのだ。
…だがそれでもセーニャは未だ親族以外の男性とは話すことや近づくことが出来ない。スチュワートは幼い頃から世話を焼いてくれ、ケヴィンも年が離れていないことから幼い頃から共に過ごす事が多かった。それもあり2人とは話せるようになれたのだがそれでも特に初対面の男性とは話す事が厳しく、マネージャーであるケヴィンがすぐ側について補助する事で復帰後は何とか誤魔化していた。
しかしそれをケヴィンは負担だと思ったわけではなく、事件のせいとはいえセーニャがこのままでは生活に支障が出てしまう。現に仕事の面で言えば、ケヴィンが間に入る事でなんとかなっているがそれもいつまで出来るかわからないし、今後ファンとのコミュニケーションも増えていく事を考えればセーニャの男性恐怖症は克服しなければならない課題であった。
過去を思い出し身震いするセーニャにやはりまだ早かったか、とケヴィンは「ごめん、いい機会かと思ったんだ。…でも無理強いさせたいわけでもない。今回はお断りしておくな。」と言う。
ケヴィンの厚意は最もらしく、それでいてセーニャの為を思っての事であるのはもちろん理解していた。そして今回のお相手、ニコルさんはこの事情を知らない。断る事で残念がるだろう。そして今は何とかなっているこの現状もそのままにはしておけない事も確かだった。
「…わかりました、やりましょうコンサート。」
「へ?…いや、無理すんなって!」
「私も克服しなければ、と思ってました。彼の申し出もケヴィンの気持ちも無碍にはできません。」
「セーニャ、…わかった、早速伝えてくるよ」
そう言いながら席を立ち、携帯を取り出しながら一度失礼します、と部屋を出て電話しに行ったようだ。
いってしまった、とふぅと息を吐き出すと後ろに控えていたスチュワートが「差し出がましいようですが、本当に大丈夫でしょうか?」と心配してくれた。
「私も変わらなくてはなりません。ケヴィンに甘えてばかりもいられませんから…。」
「私も微力ながらお手伝いさせていただきます。」
「いつもありがとう、スチュワート。」
そう微笑ましく話ているとケヴィンも明るい表情で電話から戻ってきた。
「マネージャーさんへ連絡したけどとっても喜んでたよ。」
「それは良かったです。」
「次打ち合わせと顔合わせで1週間後手配しておいた、その時また迎えにくるよ。」
そうですか、と意外と近い予定に内心ビビりつつもまだ見ぬお相手に優しい方だと良いな、と覚悟もそこそこにやはり不安になるのであった。
ーーー
そして1週間後の朝、指定されたホテルの一室で顔合わせもとい会食を行うことになったセーニャはケヴィンの運転する車で会場へと向かっていた。
「あと10分くらいで着くよ」
「わかりました、ありがとう。」
そう出来るだけ落ち着き払って返事したつもりだったがバックミラー越しに目があった時にケヴィンに微笑まれ、「心配ないよ」と言われてるような気分になった。
見透かされてるなぁ、なんて思いながら緊張していないわけもなく、車外の流れ行く景色を見ながら静まれ〜と自らに念を送ってみるのだった。
言われた通り数分後にはホテルへと着き、セーニャはラウンジでつばの広い帽子を外して膝の上に乗せてケヴィンを待った。予約者の名前を出して受付を済ませたケヴィンが戻ってきて「お待たせ、こっちだってさ。」と案内してくれるようなのでそれに続いて立ち上がる。
ホテルの廊下を歩き進む度この後訪れる彼との対面に酷く心臓が暴れている。何事もなく終わればいいが、はたして無事終わるだろうか、と始まる前からまだ見ぬ相手に怯えつつ今日という日の無事を願っている自分がいた。
あっという間に部屋に着き「開けるぞ」とケヴィンが扉を開けてくれる。もうこの時がきてしまったか!と慌ててももう遅い。開かれた扉の先には突然開いたことで少々驚いた様子で椅子から立ち上がる、淡い若草色の髪色をした青年がそこにいた。
ぎくしゃくとした足取りで彼の向かいの席へと来ると彼は「お会いできて光栄です、本日はよろしくお願いしますセーニャさん。」ととても丁寧に挨拶をしてくれた。返さなくては、と迅る気持ちに口がぱくぱくと動くばかりでなかなか音にならない。
するとケヴィンが外面よろしく「こちらこそ本日はよろしくお願いします。」と先に挨拶をし、それへ便乗するようにセーニャも「よ、ろしくお願いします」と発するのが精一杯となった。
少し不審に思ったが気に留めない様子で「お座りください、今日はセーニャさんとゆっくりお話がしたかったんです。」と青年に微笑まれる。
この現状に慌てるばかりで何も変わってなどいないじゃないか、と気付いたセーニャは自身を奮い立たせて話し出した。
「…お、お待たせしてすみません。私はセーニャ・アマリリスです。本日、そしてデュオコンサートのお申し出、本当にありがとうございます。」
うまく言えただろうか、おかしくなかったか、挙動不審になっていた気はするがケヴィンよ、妥協点をつけてほしい。そんなセーニャの内心に気付くことなく青年も自己紹介した。
「失礼しました…!僕はニコル・アマルフィといいます。こちらこそお受けくださりありがとうございました。」
「私はニコルのマネージャーのハンナです。何か御座いましたら気兼ねなくご連絡くださいね。」
「私はセーニャのマネージャーのケヴィンです。こちらこそよろしくお願いします。先日もご連絡ありがとうございました。」
「とんでもありません!突然のこちらの申し出を受けてくださり大変感謝しております。実はニコルはセーニャさんの大ファンなんですよ」
「ちょ、ハンナ!それは言わないでとお願いしたではありませんか…!」
「あら、昨日の夜に突然電話してきて「どうしよう、明日本当に会えるかと思うと眠れません」って言ってきたじゃない。」
「ハンナ、勘弁してください…!」
2人の様子を見るにとても仲が良く、そしてニコルはセーニャと会えることを心待ちとしていた様子だった。今回のコンサートもニコルがセーニャのファンだと知ってニコルのために最初は黙ってハンナが手配したとのことだった。
その話し方や雰囲気からまだ彼の全てを推し量ることは出来ないが少なくとも悪い人ではないと感じたセーニャは2人のやりとりを見て思わずくすりと笑ってしまった。
「お、お恥ずかしいところをお見せしました。」
「いえ、おふたりが仲良くて微笑ましいと思いましたわ。羨ましいです。」
続けてそう伝えれば手を前に出して左右に振りながらそんな!と言うニコルに警戒心は徐々に解けていく。
「さ、自己紹介も済みましたしお食事しながらお話いたしましょうか。」
「そうですね。僕はここに来たことがあるんですがパンプキンスープがとても美味しかったですよ。」
「そうなんですね、では私はそれにします。」
そうメニューの話をして注文もケヴィンが給仕へまとめて伝える。
その後すぐケヴィンが少し真面目な顔つきになった事で例の件を伝えるのだな、とセーニャは理解し思わず顔を下に向けた。
「それでは今後についてお話を進めたいのですが先にお伝えしなければならない事があります。」
「はい、なんでしょうか?」
「ちょうど2年程前にセーニャが一年活動休止していた事をご存知でしょうか?」
「存じてます。体調不良との事でしたが…」
「はい、公にはそのようにしておりました。」
「公には…?」
ケヴィンのただならぬ気配を感じ取ったニコルとハンナは少し姿勢を正すようにして耳を傾けた。そこからはケヴィンが例の事件のこと、それをきっかけにセーニャが今尚男性恐怖症であること、自分や親族と話せるようにはなったが今後活動を続けるならば克服しなくてはならないこと、復帰後はケヴィンが誤魔化しながら過ごしてきたこと、それら全てを伝えた。
「…後からこのような大事な事をお伝えして申し訳ありません。ですがセーニャも克服したいと思い今回のデュオを受けると言いました。その気持ちを汲み、どうかご協力いただけませんでしょうか。」
「私からもお願いします。ご迷惑をお掛けすることとなるかもしれません、ですが、どうか…」
「そんな、頭を上げてくださいお2人とも…!」
「でも…」
「事情は分かりました。思い出すのも辛いであろうお話をしてくださりありがとうございます。そして僕で宜しければいくらでもお付き合いします、むしろ手伝わせてください。」
一緒に頑張りましょうね、とニコルに微笑まれなんて優しいのだろうかと思わず潤みそうになった目元を擦り、セーニャはありがとうございます、と言うのがやっとであった。
ハンナも「それならば女性として私に出来ることがあればお手伝いしますよ」と申し出てくれた。今日初対面となる人からこんなカミングアウトをされた上でも二つ返事で了承してくれた2人の優しさにセーニャは感謝で胸がいっぱいだった。
セーニャはこの2人の優しさを無碍にしない為にも克服してみせる、と来る前にはなかった決意を新たに固め直したのであった。
その後食事とスケジュールの擦り合わせを行い、次回は数日後スタジオで会うことになった。
そこまで話したところで「では今日はこの辺で。セーニャさんもお疲れかと思いますのでお先に失礼しますね。ゆっくりお休みください。」とニコルが告げハンナ共々部屋を後にした。
思い返してみれば男性と話すことすら出来なかったセーニャからすれば今日は素晴らしいほどの進歩であった。まだしっかりと顔を見る事は出来ないがそれでも今日は満点だったと言える。
そしてそのセーニャを気遣って本来ならば退席時に男性が女性をエスコートするところを自分がいると疲れるだろうと察したニコルが先に席を立ってくれた。彼は本当に紳士的で素晴らしい。
そんなこんなで今日1日で克服はもちろん出来なかったが大きな一歩を踏み出したセーニャにケヴィンも「凄いよ!今まで話した中で最長記録更新だ!」と自分のことのように喜んでくれた。
よく頑張ったな、と微笑んでくれるケヴィンにありがとうとだけ告げて深く息を吐いた。やっと今日と言う日が終わったと思うと全身の力が抜けたのだ。セーニャが疲れてるのを察したケヴィンは「そんじゃ我々も帰ろうか」と部屋を後にしたのであった。
ーまずはお話してみましょうー