舵を取れ、その手で
海の上で迷子になることほど、恐ろしいことはない。
緯度と経度がわかれば、船の現在位置がわかる。
地球を横に走る緯度を割り出す方法はとっくに開発され、船の上で活用されていた。しかし、地球を縦に走る経度を測るのは至難の技で、実用化されて間もない。
経度を手間をかけずに割り出すには、誤差のない正確な時計が必要だった。しかし海軍の軍艦でもまだ十分に行き渡っていないのに、海賊船にそんなものがあるわけがない。
そのため、月と太陽、または他の星との位置関係を測って経度を算出する、という方法が、サトー船長の船ではとられていた。
複雑な計算がいる。
自分の名前すら書けない船乗りが多い中で、サトー船長はその計算をこなしていた。一体どこでこれを学んだのか、わからない。
イリタニが生い立ちをそれとなく聞き出そうとするたび、サトー船長は『実は俺は王室の血を継いでいてね』『本当は没落した公爵家の息子なんだ』などと嘘を言った。
言うことが毎回絶対に違うので、あきらかな嘘だとわかる。若かったイリタニと出会ったときから、サトーはすでに海賊船の船長だったから、出生に関することはわからない。
「やってみろよ」
あるときサトーは、イリタニにそう言った。緯度と経度を割り出す天測を、である。
「なぜですか」
イリタニは心の底から不思議に思って、聞いた。こんなものできるわけがないのだ。
イリタニは、数字はまあ読めるものの、その他の読み書きはほとんどできない。どうして自分なのだろう、と思った。
「できるようになれば、お前にとって悪いものでもない。俺が教えてやるよ」
いつか必要になるかも。サトーはそう言ったが、イリタニには理解不能だった。計算が、ではなく、なぜそんなことをしなくてはならないのか、ということについてだ。
こんなことを、ものすごく苦労しなくてはいけないだろうこんなことを、船長でもない、自分の船を持つ予定もない一介の船乗りが習得してどうする。そもそも、この船にはサトー船長がいる。
イリタニの仕事は、ロープを必死に引っ張って帆の向きを変えたり、どうにかみんなで嵐を乗り切るために、船の上で尽力したりすることだ。他のことはできない。
サトー船長がいれば、どこへ行けばいいか、わかるではないか。いないのなら、もはやすべてが終わりなのだ。
イリタニが納得しないでいると、サトー船長はこう言った。
「俺の知り合いの、海賊船の船長をしている奴は俺とは違う意見だったようだが。最近は付き合いがないが……」
サトーは、その海賊について話した。その海賊の船長自身は読み書きもできたし、むずかしい航海術も理解していた。しかし、腕利きの大砲の砲手に文字を教えることや、役割の振られた船員に対して無駄な知識を与えることに消極的だったという。
サトーは、その海賊船の船長の見た目の特徴を話した。イリタニは、その船長とは面と向かって会ったことがないようだったけれど、出回っている手配書に描かれていた人物と頭の中で一致させることができた。名の知れた海賊で、賞金首だ。捕まらず、うまくやっている。
その海賊船の船長は、サトーとは合わなかったようだ。主に、人道に関する事柄において。
「俺の考えでは……船に乗ってる奴らは、全員一人ひとり、生きてるわけだ。部品じゃない。砲手も測深してる奴も、操舵手も船長もだ。船を動かすためのパーツであってはいけない。誰も、何かの一部ってわけじゃないのさ。独立している。まあ、他の船には他の船のやり方があって、俺の船もそうだという話だよ」
「他の船の話はわかりません」
「そうか。そうだな。まああいつのほうがずっと出世はしたしなあ。船同士で戦わせたら、あいつの船は強かったけど」
サトーはその先を言わなかった。強かったけど、それだけだ、と言いたいようだった。
サトーの大切にするものは、その船長は重要視しなかったのだろう。変わったやつだ、とサトーは言うが、海賊として変わっているのはサトーの方だ。けれど、サトーは自分のことを変わっていると思ったことはないらしい。
件の船長の乗る船は、非常に手強いだろうとイリタニは感じる。その海賊船を相手にして戦いたくはない。
船は生き物だ。方向転換も、風を間切って精一杯海を走るときも、船員が力を合わせて船を動かさなければならない。サトーはこう言うが、船は “一つの生命体”でないといけない。それが誇りでもある。
けれど、船員一人ひとりを認めてこそ、サトーなのだった。
「だから……なんだっていうんです」
「だから、個人として、一人でできることは増やしておけって話さ。遭難したらどうする?」
「どうにか生き延びます」
「そうだろ。俺だって、いつああなるとも限らんのだぞ。ひとではなく、星を頼りに生きろ」
サトー船長が言った、ああなる、の”ああ”とは、港で遠目に見た、絞首刑後の海賊の死体のことを指している。
「天測ができれば、自分が今、いる位置がわかる。いいか。海でなくても、陸でも使えるんだ。どこへだって行ける」
「それに何の得がありますか」
納得しないイリタニに、サトーはちょっとだけ微笑んで海のほうへと顔を向けた。船の周りは、三百六十度海である。だから、サトーはこういうとき、どこへ顔を向けても構わない。
ほどよく風があり、おかげで舵のききやすい、気持ちの良い日だった。
「自分のいる場所がわからなければ、どこへ向かえばいいかもわからないじゃないか。自分がどこにいるか分かれば、自ずと向かう場所だって見える。この方向で何日進めば、その何日かだけしのげば、碇泊できる場所がある、と自分を励ますことだってできる」
それが、だからわからないのだ。サトー船長のいる場所がこの船の、そしてイリタニの場所ではないか。
俺がいつ縛り首になるかわからない、とサトー船長が言うなら、イリタニだってそうだ。きっと同じときに、同じ場所で吊るされるに違いない。遭難して死ぬときでさえ、きっと一緒だ。
それは、ある種、破滅的な甘美な想像だった。ロマンチックだった。同じとき、同じ場所で終わりを迎えるということ。サトーにはわからない種類の甘美さだ。
イリタニは、しかしその不毛な想像を押しやって考えた。他に選択肢はないのか?
この人は、遠からず、”ああ”なる。
見せしめに、死んだ後も吊るされて野晒しにされ、鳥が啄んでいく死体に。このまま放っておけば、断崖に吹き寄せられてなすすべもなく座礁する船のように、いつかそうなる。
海賊というのは、遅かれ早かれ、ああなるのだ。個人の邪悪さの度合いには関係なく。海賊なのだから仕方ない。
みんなで吊るされるのではなく、みんなで生き残る術はないのか。サトーを含めて。
そう思っていたときに、恩赦の触れが出されたのだった。