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人はいいぞ

 
 長命種の人生は半永久的に続くけれど、それから逃れる術がないかというと、そういうことでもない。
 長命種の死因第一位は、自殺である。だってそれ以外では死なないのだから。たとえ何百年に一例あるかどうか、という数でも、それが死因第一位になる。

 松本は、清正のことをみずみずしいひとだなと感じている。足立区に会って、その感情が深まった。長命種として、清正はちょっと変わっているのだ。
 感情が豊かだ。清正は泣いたりもするし、料理がうまくいったら喜ぶし、失敗すると悲しむ。フラペチーノはいまだに美味いと言う。
 足立区は、家族に迎えている登山家が死んでも、清正が人間を喪ったときほどには引きずらないだろう。

 清正は留守にしている。松本は、家にある一室に入った。そこは大小さまざまなものが収められている、納戸のような部屋だ。別に入るのを禁じられてはいない。
 清正が人間と暮らすのは、松本が初めてではない。何人もいたのだ。人間が写った写真が何枚もあったし、肖像画もある。いろいろな年代の人間たち。意味のわからないものもある。きっと清正とその人間にだけは、それが何なのかわかるのだろう。
 手紙もかなりの数あった。この日までにすでに松本は、手紙のうち半分ほど読み終えていた。初めて人間の誰かから清正への手紙を読んだときは、罪悪感と好奇心で心がいっぱいだった。しかし、今となっては心理的な胃もたれのようなものを感じ、読みたいと思わなくなっていた。
 その手紙は、みんなこんなふうだ。
 
──私のことを忘れないでよ
──この日には、必ず俺を思い出してください
──生まれ変わったらまた会いに行きますから、見つけてね
──あなたの見る花が僕です、あなたを濡らす雨が僕です

 いったい何を言っているんだ、という憤りと嘲りに似たようなものが、松本の心に苦く広がる。花だって、雨だって?ちょっと笑える。
 こんなふうに書いていては、清正は年がら年中、365日、誰かのことを思い出して過ごさなかればならなくなる。たった100年足らずではない。長久のときを、そう過ごさなければならないのだ。

 こんな手紙もあった。
 
──あの映画を一緒に観ましたね。続編を観ることがかないませんが、あなたは観て、どうだったか確かめて

 映画を一緒に観たことを書いたら、その映画を観るたびに清正は思い出してしまうではないか。
 例えば、自分が『ジョン・ウィックを一緒に観ましたね、殺し屋ってのは大変ですね。犬死ななくてよかったですね』と書くか?
 ジョン・ウィックの続編が、あるいはリバイバルが、もしあるとしたら、そのたびに清正を自分の思い出に引き戻すのか?キアヌ・リーブスが他の役で何かの映画に出たのを観たって、思い出すかもしれないじゃないか。キアヌ・リーブスが死んでもフィルムは残る。

 足立区や他の長命種が銅像や絵のようになっていくのは、自然にそうなっていく、ということもあるだろうが、他の理由もあるにちがいない。
 あれは、自分を守るための防護壁なのだ。感情にさらされたり、心をたびたび動かされていたりすれば、長い人生を歩むことはつらくなる。
 何百年先か、何千年先でも、清正はできるだけ健やかにいたほうがいいのだ。

 松本は、納戸にある品々たちを、捨ててやろうか、と思う。少しずつ捨てていけば、清正は気づかないのでは。ものがなくなれば、忘れていくのでは。死者が恨みに思おうとも、そんなもの知るもんか。けれど松本はまだ、踏み切れないでいる。

 死ぬときに弱気になって、俺はこんな手紙は遺さない。清正さん、俺のことは忘れてくれと言ったきり、死ぬ。
 できれば最期のときまでには清正の本名を突き止め、やっぱり本名のほうがあなたに似合っていてすてきですね、と言ってやる。

 それが松本の、今現在の決意だ。
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