一章
セミファイナルでは、あらかじめ公示されていたヴァイオリン協奏曲三曲のうち一曲が選ばれ、演奏するように指示される。
自分が演奏しなければならない曲が分かるのは、当日、審査が始まってからだ。
どれを演奏するか事前には知らされないため、参加者は三曲すべて披露できるように準備する必要がある。
「チャイコフスキーとベートーヴェンは!?」
チャイコフスキー、ベートーヴェン、そしてメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。
公示されている課題曲はその三曲だった。本番までに時間がないため、柚木と間宮はコンテスタントが自由に使える練習室で急遽リハーサルをしているのだった。
が、柚木は最初に『メンデルスゾーンをやろう』と言ったきり他の二曲に移らずにいる。
「やらない」
「なんで」
「だって多分、ぼくが今日弾くのはメンデルスゾーンだ」
「どうして分かる?」
「そんな感じってだけ」
「いやいやいやいや」
こいつ本当にイカれてるのか?卓越しているのは演奏だけなのか?そう思い、間宮は唖然とした。
柚木がかなり変わった人格をしているということは、出会ってからの短い時間でも感じることができた。
「オカルトなんて信じないけど、ぼくは勘がいいんだよ。マークシートの試験なんか、ほとんど勘で通っちゃうくらい。マークシートってかなり問題がある試験方法だと言えるよね」
「妙なことを言うなよ。柚木くんとはチャイコフスキーもベートーヴェンも一度もやったことがない。ていうか初合わせ!こっちが不安なんだ」
「わかった、合わせる合わせる。でも君のためにやってあげるんだから、そこのところ分かっておいて」
なんて態度がでかいんだ、なんでこっちがお願いしているんだ、と間宮は思ったが、二人はとりあえず、三曲とも主要な部分を合わせ終わった。
柚木があまりにメンデルスゾーンだと言って自信満々なので、間宮はとある可能性に行き当たった。
「柚木くん、誰かに、何か聞いた?」
柚木か、柚木をサポートする誰かが、コンクール関係者からリークを受けているのではないか、という可能性である。
彼にはあらかじめ弾かされる曲が分かっていて、それでこのような言動をするのではないか。
「それってつまり、どういうこと?」
柚木はゆっくりと瞬きをした。
そうすると彼は夜の森で一匹たたずむ梟のようだ。
無垢そうに見える瞳が、間宮のことを責めるようだった。ぼくのことを信じないの。間宮は慌てて発言を撤回した。
「いや……変なことを言った」
「さっきは勘だと言ったけどね、君に疑われちゃ仕方ないから白状すると」
柚木は、メンデルスゾーンを弾かされるのではないかという予想の根拠について話した。
このコンクールは、その前にその楽器の部門が開催されたときに、セミファイナルで弾かせた曲と同じ作曲者の曲を弾かせない。だから、それに当てはまるベートーヴェンはもともと弾かせる気がない。
チャイコフスキーについては、近い時期に開催されている別のコンクールの課題曲として挙がっているので、弾かせないのではないかと言う。
間宮は、その理論は穴だらけだと思った。
前と同じ作曲者の曲を弾かせないというのもそういう噂があるだけで、確約されているわけではないし──間宮は以前に開催されたヴァイオリン部門で誰の何の曲が演奏されたのか、そもそも覚えていなかった──別のコンクールで演奏されるから弾かせないというのも、そこまでコンクール同士が意識し合うのだろうかと思う。
要するにこれは、柚木の直感に無理やり理由付けをしているだけなのだ。
理由のない直感や予感めいたものを何やら柚木が感じていて、そこにべたべたとありそうな根拠を貼り付けただけ。
間宮は腕時計を見た。そろそろリハーサルは切り上げなくてはならない。メンデルスゾーンであってもそうでなくても、間宮の覚悟は決まった。
きっとうまくやる、柚木のために。
「柚木くんは、”今日はメンデルスゾーンだ”って感じがするんだ。それに理由はないんだよな。わかったよ。信じる」
柚木のことをそもそもよく知らない間宮は、言葉通りに柚木の話を信じたわけではなかった。が、彼のことをはっきりと疑ったわけでもない。ひいては、”今日はメンデルスゾーン”も信用ならない。
ただ、柚木は信じてほしがっているのだということを感じて、それに沿っただけだった。
今は信じる信じないで言い争っている場合ではない、間宮はステージの上で仕事をするのだ。
優秀なヴァイオリニストと素晴らしい音楽、その前にあっては、他のことは間宮にとって瑣末に過ぎない。
そうして二人──ひとりのソリストと伴奏者は、舞台に出たのだった。