一章
そんな柚木が、そのときカフェのテラスでぼんやりしていたので、間宮は思わず声をかけたのだった。
そこは、ホールよりさらに標高の高い、山を目の前にした、観光客に人気の店だ。
真夏だけれども眼前の山壁に雪は残り、見た目にも気温的にも決して暖かいという感じはしない。
「柚木くんだよね?ここで何しているの」
この日の夜に、ヴァイオリン部門のセミファイナルが控えているはずだった。
コンクールの過程で落ちてしまった者や、審査から審査まで何日か休みがある場合には息抜きのために観光に出かける者もいたけれども、柚木がこの日ここでぶらぶらしていて良いわけはない。
「この山ってさぁ」
柚木は間宮の方を振り返ることもせず、岩壁の方を指して言った。
「登るのが難しくて、特にこの崖の方から登るのが難しくて。たくさんの人がチャレンジして、落ちて死んだんだ」
「……」
「それをこのテラスで、みんなで楽しく見たんだって。」
人を拒むようにしてそびえ立つその山は、今日のように晴れた日には、はっきりと仔細まで見ることができる。
柚木が言うことを信じるならば、人が勇気を振り絞って登攀していくところも、滑落していくさまも、生々しく見物することができたのだろう。
柚木の言葉には、そのときの見物人たちのざわめく様子や何かを期待する視線を想像させる力があった。
「ぼく、登山家になるのもいいかな。前から興味があるんだ」
「はあ?」
「誰も登ったことのない山へ登るなんて、ロマンだよね」
今の残酷な話の内容と、そしてコンテスタントとしてコンクールを受けに来ているはずの柚木、それがどうしてこの流れになるのか。
間宮は理解に苦しんだ。
「それにさ、山に登って死んじゃった人たちの死体は、今でもそこにあるらしい。誰にも持って来られないんだけど、ぼくにならできる気がするというわけ」
「……家族のもとに帰りたいだろうから?」
「いや、夫が山でいなくなったけど、生死不明なためになかなか再婚できないとかで」
柚木のもつ、奇妙で頑なな現実主義が光った。死体は何も考えない。
「柚木くんは山には行くなよ。どうせ早死にだよ、君は」
「早死に?」
「才能があるから。そういう人ってすぐ死ぬっていうだろ」
間宮はやはり、大人ぶっていても、まだ子どもだった。
柚木はゆっくりと振り向き、間宮の目を見た。
「口に気をつけたほうがいい。ぼくが実際に死んだとき、君はひどく後悔することになる。呪いってやつがあるなら、ぼくではなく、君にかかるよ」
間宮が虚をつかれて何も言わないでいると、柚木は『呪いっていうのはさ、要するにそういう気のせいってことだから』と言ったきり、また興味を失ったように岩壁を眺め始めた。
「冗談はいいから、君は早くホールに帰らないといけない」
「ホールじゃなくて日本に帰る」
「どうして?セミファイナルに残ってるだろ?結果は見に行ってないけど、柚木くんは残ってるに決まってる」
「ぼくの伴奏者が指を折っちゃったんだよね。凍ってるとこを踏んで、滑って転んだって」
間宮は、柚木のいる席の向かいの椅子を引き、許可も取らずに腰を下ろした。
間宮がそうしても、柚木は間宮のことを再び見ようともせず、岩壁を見ていた。
自分がそうされるのは構わないが、どんな理由にせよ柚木が音楽から目を逸らし、何かを熱心に見つめる羽目になるなんてとんだ悲劇だと間宮は思った。
それがあんな岩壁だなんて。
「で?」
「でって何」
「弾けないのか。」
「弾けないだろ。何言ってるの。指が折れたんだよ」
「じゃあ、どうするんだ。君のことをひとりにして放っておくのか?そいつ」
「いや、だから。それどころじゃないじゃん」
「どうにか頑張って弾けないのかって言ってるんだ」
「……骨折したんだよ」
柚木は、頭おかしいんじゃないの、と言って、改めて間宮の方を見た。
間宮は、柚木のことを歳下だと勘違いをしたままだったので、ずいぶんな言いようだなと思った。
ヴァイオリン部門は、一次予選ではそれぞれ無伴奏の曲を何曲も。二次予選からセミファイナルではピアノ伴奏をつけて審査を。ファイナルではいよいよオーケストラをバックに演奏することができる。
セミファイナルを通るためには、伴奏者が必要なのだった。
「コンクールの方で、伴奏者の手配をしてくれないのか」
「本人が伴奏者を準備すること。そういうふうに要項に書いてあるだろ」
「頼んでもだめなのか。緊急事態でも?」
「だめだってさ」
「コンクール側が柔軟に対応したこともあったって聞いた。楽器が破損したときには貸し出すとか」
「それってぼくがスイス人だったらの話じゃなくて?アジア人だからそもそも無理なんじゃないの」
柚木は皮肉げに顔を歪めた。
今回のコンクールは、ヴァイオリン部門に限り、特殊な賞品が賭けられている。一位をとった者には、スイス銀行がヴァイオリンの名器を生涯貸与するというのだ。
ここはスイスで、スイス銀行の持ち物である名器を、スイス人が持つことになれば、“理想的だ”ということだろう。
アジア人である、日本国籍である、ということについて、少なくとも間宮はこの時点ではどこのコンクールにおいても嫌な思いをしたことはなかった。
が、それは間宮の話であり、柚木がどうだったかということは間宮には分からない。
「他のヴァイオリニストの伴奏者を借りられない?」
「どうしてライバルに、自分の伴奏者を貸すの」
「もう落ちた人の伴奏者を借りるんだ」
「だから、落ちたとはいえ、どうしてライバルに、自分の伴奏者を貸すの」
「……」
間宮は黙り込んだ。
「まあ、一位は空位にするつもりかもしれないし、もともと」
冷たい空気に身体を晒すように伸びをしながら、柚木は言った。
このコンクールは、ファイナリストのうちどれも気に食わなければ一位、二位を平気で空位にし、誰にも栄誉を与えない。
今回はヴァイオリンが掛かっているので、最初から一位を無しにするつもりなのではないか、ということだ。
そうしておけば、コンクールのPRにもなった上、ヴァイオリンは誰にも渡さずに済む。
──柚木くんがヴァイオリンを手にするべきだ。
間宮は、そう強く思った。奪いとってほしい。柚木には、その力と資格があるはずだ。
柚木の持っていたヴァイオリンは、悪くはないのだろうが、明らかに疲れていた。盛りを過ぎた楽器だった。今まさに花開くという柚木にとって、あの楽器では心許ない。
ヴァイオリンの生きる時間は長いけれど、どの楽器もずっと前線で活躍できるわけではないのだ。
「柚木くんが使っていた楽器のことだけど」
「これ?」
柚木は傍に置いた古びたヴァイオリンケースから、ヴァイオリンを取り出した。落ち着いた色味の楽器だ。
くるりと柚木がそれをひっくり返すと、ヴァイオリンの背中にあたる部分の大きな修復痕が目をひいた。痛々しい。
何かに当たったか、落としたか、気温や湿度の変化によるものか。いつか遠い日に割れ、手をかけられて直されたけれども、やはり疲れ果てている。
それでも、いい楽器だった時期は長かったのだろうと窺わせる、静かな気品の漂うヴァイオリンだった。
「師匠のやつなんだ。貰った」
「他の楽器に変えようという気にはならなかった?」
「最近急に金が無い。ヴァイオリンって高いんだよねぇ」
間宮は、経済状況の心配をしたことがない。
親は音楽関係者ではないが、資産のある家に生まれている。
金と不動産、土地は家のもので、間宮家に生まれたからには、自然と間宮順一郎のものでもある。音楽を仕事にしていくという展望はあったものの、金について真剣に悩んだことなど一度もないのだ。
しかし、とにかく、柚木にはあの名器──ヘリオスというらしい──が火急に必要なのだということは、間宮には分かった。
柚木にはあの楽器が、あの楽器には柚木がふさわしい。
「戻ろう。伴奏者の変更は認められるはずだ」
自分が伴奏を代わるといきなり言い出した間宮に、柚木は驚いて声を出した。
これ以降、彼らの関係において、驚かせるのはほとんど柚木で、驚くのは間宮になるのだが、間宮はそんなことはまだ知らない。
きっと柚木だって知らなかっただろう。
「柚木くん、人の登ったことがない山は、もう無いよ」
冒険は諦めろと間宮は言った。
柚木には、山に置き去りにされた死体を見つけることよりも他にするべきことがあるのだ。