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一章


「柚木さん、お待ちしていました!もっと早くに連絡をくだされば、日本中から楽器を集めたのに」

 浜川社は、ヴァイオリンをはじめとする弦楽器、及びピアノを得意にしている、日本の会社だ。
 社長が世襲制で、どの時代も浜川という人間が代表をつとめている。

 この浜川は浜川博貴といい、なんの楽器も弾かず楽譜も読まないものの、経営の手腕がとくに評価されている四代目である。

 日本では、オールドヴァイオリンでなくばHAMAKAWAだ、習うのだってまずはHAMAKAWAだ、と言われるくらい、弦楽器やピアノの普及に貢献しているのだった。

「間宮さんまでいるじゃないですか!」
「……どうも」
「是非うちの楽器を弾いていってください。間宮さんはドイツ製のものしか触らないと聞きましたけど、でもうちのは本当に良いですよ。自信をもっておすすめします」
「ドイツ製しか?そんなことはないですよ。誰がそんな……」

 誰がそんな、と言って間宮は柚木のほうを見た。あなた以外に誰が?
 しかし、柚木は素知らぬふりで間宮の視線を完璧に無視した。興味もないくせに、廊下のところに飾られた歴代の社長の写真を見ている。

「今回ホールにあるのだってHAMAKAWAさんのものです。質実剛健で、高温多湿によく耐えて、いい楽器です」
「いやいや音色を褒めてくださいよ!やだなあ!」

 間宮はこの浜川が苦手だった。商売に秀でた人間だ。間宮には、馴れ馴れしくもあるように感じられる。

「博貴さん、早速だけど弾きたいんだ」

 間宮と浜川が発している微妙な雰囲気をまったく意に介さず、柚木は言った。
 
 浜川が柚木たちを案内した防音の部屋に、HAMAKAWA製のヴァイオリンは五十丁ほどあった。
 急な来訪だったのに、これが浜川社の意地だ。長机の上にそれらが折り目正しく並べられている。

 柚木は部屋に入るや否や、楽器を掴んで触っては、右と左に選り分けていった。
 掴んだ瞬間にすぐさま右に避けられるものがあれば、少し右手と左手で触れてから、左へと選別されるものもあった。

 柚木が選ぶ手伝いをしようとした社員が他に三人いたが、何を言う暇を与えるでもなく柚木はその作業をひたすら続けていった。

 その間、柚木はヴァイオリンに弓を落とすことはおろか、構えることさえ一度もしなかった。間宮と浜川は、それをただ見ている他になかった。

 そして、二十丁あまりのヴァイオリンが左に残された。柚木は振り向き、言った。

「出ていってくれますか」

 その一言で、浜川も間宮も浜川社の社員も、すべてその防音の部屋から追い出されてしまった。
 
 やがて、十五分ほどが経ち、その防音のドアは再び開いた。柚木はそこから顔だけを出した。

「順ちゃん」

 柚木はそれだけ言うと、また中へ引っ込んでしまった。間宮は呼ばれたことで、ほっとした気持ちだった。
 その廊下には、完全に手持ち無沙汰になったものの元の仕事には戻れない浜川社の社員と浜川、そして間宮が所在なく立っていたからだった。

 間宮は部屋の中へ入った。部屋の外から浜川たちが中を窺いたそうにしていたが、それを許さずしっかりと扉を閉じ、空間を密閉してしまった。

 感じ慣れた、空気が遮断される感覚。
 部屋の中には、三本のみ、ヴァイオリンが選別されてあった。淡い黄色のコートは無造作に脱がれ、椅子へと掛かっている。
 
 柚木は何も言わず、間宮の方へ向き直ると、構えた。
 ひとつ目のヴァイオリンだ。まばたきほどの静寂が落ち、そのあとには、柚木の世界があった。

 なぜこれほど良いのだろう、と間宮は思う。

 柚木は素晴らしいテクニックをもっていて、アグレッシブなタイプの弾き手であるけれども、それは単に彼の才能にくっついた、付属した部分にすぎない。
 彼には不自然なところがなく、常に豊かだった。

 地上には、他にもたくさんのヴァイオリニストがいる。
 しかし、どうして彼だけが違うのか。どうして、みんな彼のように生まれられないのだろう。

 柚木は一本目のヴァイオリンを置くと、二本目に移った。間宮はその音色を聴き、眉根を寄せることになった。そのヴァイオリンは、ヘリオスに見た目が似ていた。若々しい色合いと、はつらつとした見た目。

 が、しかしこれは若々しいのではなく、実際に生まれたてで、まだ未熟なだけなのだった。木自体に湿気が未だ重く乗っているような、土に生えていた木が、切り落とされてなお大地に甘え、恋しく思っているような。要するに鳴りがよくない。

 柚木はいつも、柔らかい肘と手首で大きく弓を使うのだけれども、今は楽器を鳴らそうとして、いつもよりも強引になった。

 三本目は、暗い色味のヴァイオリンだった。
 なぜこうまで色味や細かい見た目が違うかというと、浜川社がさまざまな産地の木、ニスを使い、研究を重ねているからだという。
 浜川社はヴァイオリンを作っては湿度と温度が管理された倉庫にヴァイオリンを寝かせておき、だからヴァイオリンの年齢についても、幅があるのだった。


 三本のヴァイオリンを弾き終わると、柚木は間宮に向かって首を傾げ、無言で意見を求めた。

「最後のものが良い」

 間宮は言った。

「あら、意見が合ったね。二本目についてはどう?」
「どうしてそれがベストスリーに残ったのか、教えてほしい」
「いやあ、これヘリオスに似てるから、遠目なら分からないんじゃないかと思って」

──そんなことだろうとは思っていた。

 間宮は呆れる思いで柚木を見た。過ぎたユーモアがそこにはある。
 柚木は薄く笑いながら、間宮が何か続けるのを待っているようだった。

 意見が合ったね、と柚木は言ってみせたものの、自分の意見など柚木は意に介さないだろうと間宮は分かっている。

 あらかじめ柚木は答えを見つけ出していて、それを間宮に再発見させるというだけの話なのだ。もし柚木と間宮で意見が違ったとしても、柚木がそれを受け入れることはない。

「一本目は、良さそうだけど、よそよそしい感じ。三本目は、すでにあなたのことがかなり好きという感じです。素直な感じ?」
「従順な感じ」
「急なことだしそれが一番だと思いますけど」
「良いね」
「明日までに、その楽器に慣れそう?」
「ぼくに馴れさせるよ」

 “素直”を “従順”、”楽器に慣れる”を“ぼくに馴れさせる”と言い換えた柚木は、うんうんと満足げに頷いた。間宮の答えも及第点だったのだろう。

「名前をつけてあげようか」

 親しくなるためにはまず名付けが必要だ。使役する場合も同じだ。
 識別番号はあるけれども、この楽器にあらかじめつけられた名称はない。

「H-3980-007、贅沢な名だね。今日からお前は……」

 柚木は、一度は識別番号から名付けのヒントを得ようとした。

「ジェームズくん、またはダニエルくんかな」
「……」
「いや、やめよう。Converseにする」
「コンバース?スニーカーの?」
「そう。安いし、外を歩けなくもない。けど、ぼくの足にきちんと合っているわけじゃないから、最高ではない。登山とかも無理だし、どこにも行けない靴だけど、他にないならそれを履く」

 柚木の独特のネーミングセンスを目の当たりにし、間宮は過去のことを思い出した。
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