一章
「寒い。こう寒いとやんなるな。もっと南の方で公演をしたい」
駐車場に停めた車から這い出しながら、柚木は言った。
雪がいつ降り出してもおかしくないほど、きんと固くこおった空気があたりに満ちている。彼はすぐさまコートを羽織った。
「そのコート」
「ああ、もらったんだ」
「誰に」
「友だち」
柚木の羽織ったコートは、彼の体にぴったりと合っていて、淡いイエローをしていた。柚木はもともと、はっと心が明るくなるような色を好んで着る。
セーターにしろ、シャツにしろ、あたたかい生成り、本当に薄いピンク、繊細な花びらのようなほのかなパープル、そういった軽快な色が、華やかな彼によく似合っていた。
黒を着るのは、どうしても正当な燕尾服やタキシードを着る必要があるときだけだ。あるいは喪服を着なければならないときだけ。
間宮はステージに出るときも私服でいるときも暗い色ばかりなので、二人の装いは対照的だった。柚木は間宮のそれを、まるで死神みたい、と言って揶揄した。
“友だち”からもらったというそのコートは、美しい色の次に、首元のファーが目をひいた。
「フォックスだって。死んだキツネ」
間宮が何か言う前に、間宮の視線を追った柚木は言った。リアルファー、このサステナブルの時代に、贈り物として、高価なコートを、友だちが。
間宮は顔を顰めないようにして、柚木に手袋を差し出した。
「少し歩きます。建物をぐるっと回らないと。玄関は向こうだから」
柚木はどんな寒い季節でも、街中では手袋を持ち歩かない。放っておくといつもポケットに手を突っ込むか、それさえしないで冷えるに任せている。
間宮は自分がはめる手袋と、もう一対を鞄の中に忍ばせるのが常になっていた。間宮も演奏家としては手に関して神経質な方ではないものの、柚木は何から何まで気にしない性質なのだった。
彼はヴァイオリンで指や腕を故障したことは一度もない。ヴァイオリンを弾くことは、彼にとってやりやすい、自然な行いで、冷えて腱や筋肉の様子が変わるのを気にかけることもない。
そんなことが気にかからないくらい、もっと太く深く、ヴァイオリンと柚木は繋がっている。