二章
柚木と間宮は、ステージの上にいる。
声を出すのは御法度だったから、客席からのブラボーはなかったけれど、間宮は心の中でブラボーと呟いた。
柚木は、長い期間大々的なコンサートができなかったことの鬱憤を晴らすかのごとく、精力的なプログラムを組んだ。
彼はそのすべての曲を終えて、ピアノの前に座っている間宮のほうへ振り向く。
拍手は鳴り止まない。
「順一郎」
彼は呼んだ。
間宮は、いつもと違う呼び方に、はっとして彼のことを見た。
「アンコールって必要だと思うかい」
間宮は面食らって瞬きした。
ライトが眩しい。客席からの拍手が、ホール中を響いて渦巻いている。不思議に現実感のない空間の中で、二人は見つめ合った。
柚木はいつも必ず、客席からのアンコールの声に応えるための曲を用意する。
今日だってそうだ。だいたい何曲か、定番のアンコール曲というのを準備していて、そのうちから気分で選ぶ。
「やりたくないんですか」
アンコールは行わない演奏会もある。
もともとプログラムに掲載されていない曲をおまけとして用意するだけだから、アンコールは客席への完全なるサービスということになる。
しかし柚木がそんなことを言うのは、間宮にとって意外だった。
聴衆かホール、あるいは間宮のことが気に食わなかったのだろうか、と不安になった。
「必要かどうかというと、”そんなことは問題じゃない”」
彼は、ピアノの窪んだところに向かって立ち、ピアノの屋根──演奏されないときは閉じている、弦を覆う大きな蓋──とそれを支える棒を透かすようにして、間宮を見ている。
磨かれた真っ黒のピアノ越しに見る彼は、不吉に美しかった。合わせ鏡の向こうをそっと覗き見るような感覚だ。
間宮は急に悟った。彼と、ヘリオスと話すのはこれで二回目だ、ということを。
「君たちは、音楽を”役に立つのか”、”何かに使えるのか”と急に考え始めたけれど、順番がおかしいね」
「……そんなふうに思っていません」
「君の話じゃなくて、君たち」
彼が君たち、というとき、それは柚木と間宮ではなく、人間一般のことを指していた。
「君たち、何がしたくてこの世に生まれたの。殺し合いに行くのにも、行進曲だの軍歌だの、音楽の力を借りないといけないくせに」
「……」
「みんなぼくのことを移り気だ、みたいに言うけれどね。それは君たちがいけないんだ。すぐに忘れるだろ、何のために生まれたかってことを。働くためでも、食うためでも、生きるためでもないのに、すぐ忘れちゃうから、ぼくだって次々に相手を変えるしかないじゃないか」
彼は魅力的に笑んでいた。間宮は、彼のことをはじめて怖いと感じた。でも、いやだとは思わなかった。
「柚木さんのこと、」
「力のことはすき。君もそうみたいだけど、長くそうありたいね」
幼子をなだめるみたいに、彼は首を傾げて間宮に言った。
「で、アンコールは、やる?」
「もちろんです」
彼はふっと息をつき、客席の方をゆったり振り向いた。
やがてぱっと間宮に向き直り、こう言った。
「順ちゃん、チャルダッシュ!いつも通りに」
それは、普段どおりの柚木だった。彼は、にたっ、といつもの笑い方で笑った。
「無駄なこと、いっぱい、たくさん、していこうね」
そう言った柚木が、すぐさまヴァイオリンを構えてしまったので、間宮は慌てて鍵盤に向き直った。
チャルダッシュは、有名すぎるほど有名な曲で、よく演奏される楽しいレパートリーだ。
しかし、伴奏とよく合っているかどうかが目立ちやすい。ピアノが主導権をとりすぎて、主張が強すぎてもいけないし、置いていかれてもいけないのだ。どんな曲でもそうだけれど、集中しないといけない。
間宮は思う。
もし柚木に何か起こったら、もしかするとそれは間宮のせい、ということになるのかもしれない。なぜなら、柚木とヘリオスを引き合わせたのは、間宮だからだ。
でも、柚木が柚木である限り、そんなことは起きないだろう。そして、間宮も柚木のことを”愛して”いられるだろう。
けれど、今、そんなことはどうでもいい。今はチャルダッシュだ。
最高のヴァイオリニストと素晴らしい音楽、その前にあっては、他のことは間宮にとって瑣末に過ぎないのだから。
<完>
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