二章
春崎は、間宮に相談したいことがあり、柚木のやってこないタイミングを見計らっていた。
ホールには調律の終えられたグランドピアノが静かに佇み、そこで間宮は指ならしに弾いていた。
まだライトがすべてはついておらず、舞台上は薄明るく、眠気を誘うような光量だ。
春崎は邪魔をしないようにしようと思っていたが、やがて間宮が舞台袖に戻ってきたので話しかけた。
「間宮さん」
「うん?」
「最近柚木さんの悪霊具合がマジでやばくて」
「……何か見たのかい」
「見た……っていうか。この前もレコーディングのときバリ怖かったんスよ」
「それは聞いたけど」
春崎は、柚木のホールレコーディングの様子を、すでに間宮に伝えていた。
「靴音が聞こえたんだろう」
「いや靴音じゃなくて、裸足の足音です」
「裸足?」
楽譜の整理をしていた間宮が、ぴたっと動きを止めた。
あれ、言わなかったっけ、と春崎は思った。
春崎は足音がした、とだけ伝えていて、どうやらそれが裸足で歩き回るような音だったということは伝え忘れていたらしい。
「それだけじゃないんですよ。最近、柚木さんの動画で心霊騒ぎがあって」
柚木はコンサートの回数が減り、時間ができたので、動画配信を始めていた。
内容は聞きやすい曲の演奏から、難しいテクニックのレクチャーまで、多岐にわたる。編集作業は外注している。
ヴァイオリンという流麗な楽器と、それに似合わない性格というのは世間にウケたし、バケモノみたいなテクニックを『こうすればできるから』とつまらなそうに言う彼の姿はおもしろかった。
たぶん、あまり参考にはならないだろう。これはエンターテイメントである。
柚木はもともと、ルックスも言動も耳目を集めるのに向いているタイプだ。
プラットフォームから発信するのは彼に合っていた。しかし、それはひっくり返して考えてみると炎上しやすいタイプということでもある。
華々しい人間というのは、人の注目を集め、はっと目をひく力があるが、人をひやひやさせるという副作用もある。この人はなんとなく”ヤバそうだ”という得体のしれない不安を、人は魅力的だと感じるものなのだ。
”ヤバそう”の内訳はなんでも構わない。何かをしでかしそう、言ってはいけないことを言いそう、そのうち逮捕されそう、死にそう、とても貧乏そう、反感を買いそう……。なんでもいいのだ。
そういうわけで、春崎はひやひやしていた。柚木のことは悪い人間ではないと思っているし、愛嬌があって愛せると思っているからだ。それに、春崎によく奢ってくれる。
多くの人間にとって、柚木は鑑賞用の人間にすぎない。
見た目がいいな、とか、ヴァイオリンがうますぎるな、といった感想ならまだいいが、自分にとって”鑑賞用”にすぎない人間に暴言を吐く人間が多すぎるのがこの世のいやなところだった。
間宮が柚木と面と向かって口論をするのとは訳が違うのだ。邪悪っぽい人間ならどれだけでも叩いてよいというわけではない。
だから、春崎は、別にそうしろと柚木に頼まれたわけではなかったが、動画がアップされる前に内容をざっと確認するようにしていた。
彼のそんな努力もあって、柚木の動画での活動は円滑に進んでいた。
『何か聞こえる』
『変なものが写り込んでいる』
動画に、そんなコメントがつき始める前は。
柚木の動画の再生回数が異様に回り始め、コメント数も跳ね上がった。
様子がおかしいので春崎が見にいくと──柚木はヴァイオリンに没頭し始めるとすでに投稿された動画のことなど気にしなくなる──コメント欄がそんな内容のコメントばかりで溢れていた。
春崎が慌てて別のSNSでサーチすると、そちらでも柚木の動画は話題になりかけていた。プラットフォームの垣根を超えて話題になる場合、騒ぎが大きくなることが多い。
春崎が、すでに投稿されている動画を再生し、音量を上げて音声を聞いてみると、おかしな音が入っていることがあった。
春崎がホールレコーディングで聞いたときのような、人の声が何重にもなったような音だった。
「これはもう」
「……」
「やっぱヘリオスがやばいんじゃないですか!?」
春崎がそう言うと、間宮は困ったように腕を組んだ。
ヘリオスは曰く付きの楽器である。
「柚木さんはヘリオスを持つ前から、ちょっとおかしいよ」
「前から性格悪いって意味ですか、それとも」
「性格はずっとあんなだけど、あれ、と思うような、変なことは前からあった」
どうしたらいいんでしょうか、と春崎は途方にくれた。
だいたい、間宮にこんなことを話しても仕方がないのだが、とにかくどうにかしなくてはならないと彼は思っている。
いくらなんでも怖い。それに、これを放っておいたら、柚木自身にもゆくゆくは何かが起きるのではないか。
「昔からずっとなんですか」
「いや、昔はもっと……気のせいかな、で済むような感じだった」
でもたぶん、最近のは本当にヘリオスが関係しているかも、と間宮は言った。
「こ、怖……!俺、怖いっス」
「原因がヘリオスだとして、どうするという話なんだよ」
ヴァイオリニストにとってヴァイオリンは、歌手にとっての声である。
柚木にとって、ヘリオス以上の楽器はない。
「……お焚き上げとか?」
「何を言ってるんだ、あれはスイスの銀行から貨りている楽器だよ。美術館や博物館で保管されるべき楽器で、生涯貸与だ。柚木さんが死ぬまで」
論外だ、と間宮は言った。
そうだ、論外だ。
もし自分のトロンボーンが呪われているからそんなことをすると言われたら、いやちょっと待ってくれと思う。
それに、この楽器は柚木が死んだら返還しなくてはならないのだ。
「あれほどの楽器は、普通、ヴァイオリニストはずっと手放さないからね」
「引退するときまで、返さないんすね」
「……あの楽器はたくさんの人の手を渡ってきている」
「そりゃいい楽器ですからね、いろんな人が弾きたいから」
「たくさんだよ。すごく多いんだ。君が見たヘリオスのウィキペディアに載っているのはごく一部」
「なんでだろ?期間を区切って貸出してたとか?」
間宮はぼそりと呟いた。
「みんな早く死ぬからだ」
春崎は絶句した。
ホールレコーディングのときに聞いた、ざわざわとした人の声の集まりのような音が耳の奥によみがえる。
「え、じゃあ、どうしたらいいんすか」
「できることは何もない。あれは柚木さんが持っているべき楽器だ。引き離すなんてありえない。最高のヴァイオリニストには最高の楽器でないと」
舞台袖は薄暗い。
春崎は間宮の表情を読もうとしたが、かなわなかった。
「柚木さんを除霊……とかしたりして」
「……除菌みたいっスね」
「それで柚木さんの腕前が落ちたりしたら、私としてはいやだな。昔から”悪魔憑き”は優れたヴァイオリニストの称号みたいなものだ」
──この人、柚木さんに負けず劣らず、どうかしてる
そう春崎は思った。
たぶん、間宮が最後に言ったのは冗談だ。でも、冗談だとしても、ちょっといかれている。