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二章


 季節は進み、それから半年が経った。
 演奏者としては手の冷えに気を遣う季節までもうあと少し、という時期だ。

 感染症を取り巻く世の中の状況を見て、柚木は客席を間引いてのコンサートを行うことにした。
 柚木が、伴奏をいつも通り間宮に頼む、と言ったので、春崎はほっとした。仲直りが済んだのだ。
 
 柚木や間宮、周りのスタッフの体調の様子も気がかりだったが──もし柚木に何かあればこのコンサート自体が中止になる──何ごともなく当日までやってくることができた。春崎は重ね重ねほっとしている。

 ちなみに柚木はワクチンを何回接種してもほとんど体調に変化がなかった。間宮は接種するたびに体調を崩していた。
 柚木さん元気すぎる、と間宮がぼやいていた。


 春崎は、奨学金を払い続けているものの、安定した給料をもらっている。
 柚木にも間宮にも言うことはなかったが、カラオケに行って、トロンボーンを吹いた。相変わらず、こんなことは無駄だな、と思う。

 無駄なことをやる余裕が、春崎には生まれていた。



 今、間宮と春崎は、ホールの楽屋にいる。

 柚木はヘリオスと共に席を外していた。
 まだ公演開始までずいぶん時間があるが、無人のホールで音の響きを確かめるために弾いているのだろう。

「大和田くん、今韓国にいるの、知ってました?」

 春崎はそう言って、間宮に携帯端末の画面を見せた。

「アイドルのオーディション番組なんですけど、彼これに出てるんスよ〜」

 それは今話題の、アイドルデビューを目指す男の子たちのための、視聴者投票型オーディション番組だった。

 いわゆるサバイバルオーディション、というやつだ。

 画面の中の大和田は、名前が出ていなければわからないほど、見た目が変わっていた。

 眼鏡をしておらず、重たい黒髪はきれいに整えられ、垢抜けて見える。

 メイクが彼の顔に映えて、ひょろっとして頼りなかった身体も身長も、彼を魅力的に見せている。何より表情が明るかった。

「……コンテスタントなのか?」

 間宮が言った。
 コンテスタント。コンクールや、オーディションを受ける人、競争する人──意味は合っているはずだけど、と春崎は首を傾げた。

「練習生なんですって。すごいな〜!かなり人気あるみたいですよ」
「大学生ってことかな。歌手で?」
「え、違いますよ。事務所に入って、デビュー目指して練習してるって意味です」

 間宮は全然わからなかったみたいだった。
 そもそもアイドルグループのシステムをまったく知らないのだ。春崎は放っておいた。

 大和田は高校を辞めてから新しい道を志したので、練習生期間が短い。
 しかし、ダンスも歌もぐんぐん覚えて、持ち前の我慢強さでなんでも自分のものにしていく姿勢がファンの心を掴んでいる。

 彼は韓国語を習得するのも速かった。聞いて、ひとまずその通り真似してみる、というのはクラシックの練習の基本と通じる。

『特技はヴァイオリンです。音楽学校にも通っていました』

 もうそれは過去のこと、というふうに画面の中の彼は言い、ヴァイオリンを構えた。

「これ彼のヴァイオリンじゃないな。あれ、売れたのかな」

 めざとく間宮が言った。
 このヴァイオリンは新しく適当に見繕ったものか、オーディション番組側で用意したものだろう。
 よくわかったな、と春崎は思う。間宮は本当によく見ている。

 大和田が演奏したのは、ラ・カンパネラだった。

「またパガニーニだ。きらいになったわけじゃないんだ」

 間宮はやわらかく微笑んだ。有名な曲なので、ヴァイオリンの曲目については実はあまり詳しくない春崎でもわかった。

 間宮はたぶん、『大和田がこの曲を選んだのは、この曲が好きだからだ』と思ったのだろう。

 しかし、春崎はアイドルには間宮よりはるかに詳しいので、K-POPの有名なガールズグループがこの曲を取り入れた歌で、最近カムバックしたのを知っている。

 大和田は別にパガニーニに思い入れがあるわけではないかもしれないし、クラシックに対しもう何も感慨はないかもしれない。
 アイドルオーディション番組を観るような人間なら、ガールズグループにも詳しい層がいるだろうから、この曲が刺さると知っていて選んだのだ。

 彼にとって、ヴァイオリニストは目指すべきものではなく、ヴァイオリンがひとつのステップだったのだ。
 彼は音楽に使役されるのではなく、ヴァイオリンを”使う”ことを覚えた──そんな詩的なことを春崎は考えた。

 音楽の経験を"無し"にして新しい道を志すのではなく、こういうやり方もある。自分を表現するための手段にするのだ。

 幼い頃からヴァイオリンを叩き込まれた大和田の耳の良さも、少し世間知らずに見えるような上品さも、すべて彼の武器になる。
 彼には度胸もある。ヴァイオリンより難しいことなんてないと、大和田は思っていて、若い彼は何も恐れることはないのだ。

「こいつ、だいぶヘタクソになってんな」

 柚木が言った。いつの間にか柚木が楽屋に入ってきて、後ろから画面を覗き込んでいたのだ。

 春崎と間宮は驚いて飛び上がった。

「もうあんまりさらってないんだろうね。そんな感じする」
「いいんスよ別に、アイドルの中じゃ一番うまいんだから!こんな弾ける奴いないですよ」

 春崎は反論した。

「そうだよ。それでいいのさ。一番になれる場所に行けば」

 予想に反して、柚木はあっさりと認めた。もう興味がなさそうな口ぶりだった。

「ダイヤモンドもカット面がたくさんなきゃ、光らないだろ」

 柚木は楽屋の椅子にどかっと腰掛けた。
 弓をテーブルの上に置き、ウクレレのようにヘリオスを構え、コードを出すように指で弾く。ポロロン、というかわいい音色がした。

「ヴァイオリニストはヴァイオリンだけじゃダメ、ピアニストはピアノだけじゃダメ。漫画家も漫画だけじゃ漫画が描けなくなる。料理家じゃなくても料理もしなきゃ」

 柚木が間宮の顔を見てニヤッと笑った。
 春崎は間宮の料理の腕前について知らなかったが、おそらく料理が下手なのではないかと思った。

「作家じゃなくても本読んで、映画観なきゃ。うまいもん食わなきゃ。すぐ燃料が尽きるよ。人間ってそんなもんなんだから」

 モチーフがないといけない、というようなことを柚木は言った。モチーフとは、着想、というふうに訳される。

 ”音楽形式を形作る最小単位”という意味もある。作曲をするときにもとになる、小さなフレーズ、みたいなものだ。動機という意味もある。

「アイドルだって、アイドルなだけじゃすぐ底が見えるだろ。どうなんだい春ピコくん」
「まあそうなんじゃないスかね。知らないけど」
「適当だな、君」



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