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二章



 ひとしきり柚木の幻想即興曲についてのレッスンが終わると、間宮は柚木をリビングへと招き入れ、コーヒーを淹れて彼へと差し出した。

 間宮はそれと一緒に、腕時計型のデバイスも柚木へと返す。

「お疲れ様でした」
「本気の疲れって感じがする」
「でも、よくなったよ。あなたのショパンもあなたなりになった。まだ練習は必要ですけど。あなたは日頃から、もうちょっとピアノを弾くようにした方がいいです」

 柚木はふう、とカップに息を吹きかけた。

「ぼくはああいうふうに言うべきではなかった」

 柚木がそう言ったので、間宮はどきりとした。
 柚木は、大和田のレッスンについて言っている。

「あなた本当に、そう思ってますか」
「思ってる、ごめん。本当だよ。もうしない」
「私に謝っても仕方ないでしょ」

 間宮は内緒話をするときのように、声のトーンを落として言った。

「これはオフレコで。本当にそう思ってますか」

 幼児みたいにいつだって新鮮な、エネルギッシュな柚木の瞳が間宮のことを見る。

「思ってない。あれはぼくの本心さ」
「……なんであなたってこう……」

 そう言いながらも、間宮は、そうだよな、と思ってしまう。
 柚木はこういう人間なのだ。

「こう言えば君が納得してくれると思って」

 柚木は、カップを両手で抱えたまま、ソファに座って足をぶらぶらと揺らした。まるで少年のようだ。

 二人の関係性に必要なのは、もともと、柚木が善良そうに振る舞うことなのだ。
 根っから善良であるかどうか、心から善人であるかどうかということは関係ない。

「でも、今日きみのレッスンを受けてみて、相手のことをきちんとどうにかするのがレッスンなんだ、と思ったんだよ。ダメならダメ、じゃなくてさ、インスタントなおまじないをかけるんじゃなくて、真剣にさ。やめちまえとかじゃなくて、その曲と演奏者がどうか、ってことなんだ」
「……」
「ぼくにはやっぱり、先生になるのは向いてないみたいだなぁ」

 愛というのは、ある一定の条件下では、興味という単語に置き換えることができるのかもしれない。

 教えるのは大変な仕事だ。優れたプレイヤーが、優秀な先生になれるとは限らないのだ。愛の向かう方向性は人それぞれだから。

「大和田くんに対しての謝罪をしないといけないと思います」
「もちろん、はいはい」
「“はいはい”?」
「誠心誠意やります、はい」
「それに、一時間のレッスンのはずの仕事だったのに、十分で終わらせるというのは契約不履行です」
「確かに」

 柚木が素直に頷いたので、間宮は続けた。

「立花先生にも謝ったら?」
「だから誰なんだそれは」
「……立花先生から電話があったんですけど」

 立花と間宮は付き合いがある。怒り狂って間宮へと立花が電話をかけてきたのだ。間宮は柚木の窓口ではないのだが。
 
「立花先生は、立花先生の弟子だから、大和田くんをあなたが攻撃したんだと思っています」
「いや、だから誰なんだよ。大和田の師匠が誰かとか、知らないんだけど」
「柚木さんが立花先生のことを敵視していると、立花先生は思っていて」
「はあ?どっかで会ったことあるんだっけ?」
「あなたがコンクールで一位だったとき、三位だったり四位だったりしたでしょう。遭遇率高いです。あなたが東京国際でコンマス審査を通らなかったとき、立花先生はファイナリストでした」
「えっ?で……だから?ぼくが?どうして……」

 カップを持ったまま、ぽかんとして柚木は間宮の方を見た。ずいぶん昔のことを言うなぁ、と言いたげだ。

 柚木はアカデミックな地位にまったく興味がない。立花と違って、彼には音楽だけだ。柚木は立花のことを、妬んだり羨んだりしない──彼は立花に興味が惹かれなくて、顔もその演奏も思い出せない。

 例え、もしその学生の師匠がきらいだとしても、その学生を攻撃するのは変だ、という至極真っ当な意見が、柚木の頭を占めているのだろう。みんな、変なことばっかり言うな、と思っているのだ。
 間宮は、それにちょっとしたイノセンスを感じる。たまらなくなって、柚木の背中のあたりに手のひらで触れた。

「上手いんだっけ?そいつ」
「上手いでしょ、教授なんだから。それに一定以上の演奏者になると、もうそれは好みだし、そうしたら私の好みの話をしなきゃならなくなって……」

 逃げたな、と柚木は笑った。

「やっぱりぼくが立花に謝るのは変」
「そうですね」
「でも他のことはやるよ」

 ずいぶんこっちの条件をたやすく呑むな、と間宮は思った。
 これは二人の関係を続けていくための努力の一環だ。

 柚木は間宮の言ったことに同意などしていないだろう。しかし、間宮が柚木に対して良識のある振る舞いを求めているので、柚木は譲歩しているのだ。

 間宮が疑わしそうな視線を柚木に向けていると、君とぼくとのことだけどさ、と柚木は言った。
 
「他の関係性に君と陥ることなんて、ぼくには簡単だったよ。たとえば恋愛とか。そんなのいつだってぼくの思い通りなんだ。君はぼくのことが十分にすきだし」

 でもそうはしないんだよ、と柚木は続けた。
 突然話の流れが変わったので、間宮は面食らう。

「いや……どういうこと?何ですか?こっちの意見は?」
「あーわかるわかる、すきっていうのはそういう意味じゃないとか言うんだろ?でもぼくにとっては全部簡単なことなんだ」

 何を言ってるんだこの人、と間宮は柚木に対して思った。

 なんだかばかにされている感じがする。パライバトルマリンの色がすきだ、と言ったのに『あーそれって青でしょ、知ってる知ってる』と言われたような気分だ。あれはただの青ではない。
 それに青は好きではない。

「君との関係性を終わらせたくないと思ったから、へたなことは始めないようにしておいた」

 柚木にとっては、結婚さえも終わるのだ。

 終わると知っていて始める男なのに、死ぬと知っていて生きる人間なのに、間宮とのことでは慎重に手段をえらんだ。

 そうやって、やってきたから、今日も間宮の意向にかなうように工夫し、譲歩しようとしている。



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