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二章



「こんにちわぁ、間宮せんせ〜」
「やる気ないなら帰りなさい」
「あるって。こわいな」

 インターホンが鳴ったので、間宮が玄関のドアを開けると、そこには柚木が立っていた。約束の時間ぴったりである。

 柚木が玄関に入ってこようとしないので、間宮は入らないんですか、と聞いた。

「招かれないと入れないんだけど」
「どうぞ入って」

 間宮はいらいらした。柚木がふざけているせいだ。

 柚木と間宮は、お互いの家を行き来することがなかったが、今回初めて柚木が間宮の家に来ることになった。柚木はきょろきょろと見回している。
 間宮の家の一区画はレッスン室として使っており、二台グランドピアノが設置してある。

 柚木が間宮にピアノを教わりたい理由がないため、何を言っているんだこの人、と間宮は柚木に対して思っている。

 間宮は気まずいと思っていたのだが、柚木のほうではそんなことは感じていないのかもしれない。図太いから。

「間宮先生って一時間いくらですか。高いんですか」
「……」
「風俗みたいじゃんね」
「本気でピアノを弾く気なんですか」

 柚木はヘリオスを持ってきていなかった。いつも銀のヴァイオリンケースを携えて歩いている柚木が、バッグをひとつしか持っていないのはなんだか変な感じだった。

 柚木がバッグから楽譜を取り出してピアノの前の椅子に座ったので、さらに間宮は面食らった。
 ピアノの前に立つのではなく、ピアノの前に背筋を伸ばして座る柚木の姿は、間宮にとって奇妙だ。

「ちゃんとさらってきたのか?私は厳しいよ」

 間宮はやっと観念して、そう言った。

 彼は柚木が持ってきた楽譜の中からハノンを見つけた。ハノン。この人でもちゃんとこういうのをやるのか、と思う。

 ハノンは指が思ったように動くようにするための体操、のような教則本だ。なんということもないような単調な練習かと思いきや、ピアニストの技量は結構試される。

 シンプルなことを完璧にやれないと、曲だって満足には弾けないからだ。それにこの本の最後のほうはやたら嫌な難しさがある。

 何番を見てきたんですか、と間宮が聞くと、柚木はページを繰った。
 目当てのページに行き着くと、そのまま弾き始める。

「あなた、普段ピアノほとんど弾かないでしょう」

 間宮がそう言うと、柚木はぎくりと身体を強張らせた。

「タッチの感じが、こう……不明瞭だ。こういうの弾くときはもっとしっかり揃えて。基本でしょ。それにヴァイオリンの影響かもしれないけど、左右の手で力の感じが違うから、自分でそれを分かって、気をつけてください」
「気をつけてますけど」
「じゃあ足りないんですね。意識の仕方が」
「……」

 柚木は口の中で文句をぶつぶつ言ったが、殊勝に間宮の言うことを聞いている。

「ショパン?あまりあなたのイメージにないですね。大学時代に弾きましたか」
「C#のワルツかこれしか、弾いたことない」

 柚木の持ってきた曲は、幻想即興曲だった。
 まず、柚木が弾くならなんとなくベートーヴェンだとか、モーツァルトだとか、あるいはリストのほうが似合っている。

 柚木は音楽大学を中退しているが、そこでもピアノの必修授業や試験はあったはずだから、そこで弾いたのだろう。

 物悲しいワルツよりは、強いて言えばこちらのほうがまだ柚木らしいと言える。

「これは派手で好き」

 そう言って柚木は弾き始める。最初のオクターブの一音。
 しかし、すぐに間宮は柚木の手を手で捕まえた。

「ダメすぎる」
「なんで」
「鍵盤はボタンじゃないんですよ。不審者が来た時に押すブザーじゃない」
「ええ?」
「もう一度」

 柚木がもう一度弾き直した。あまり変わっていなかったが、変えようという意思は感じられる。

 曲が続いていくと、再び間宮は顔をしかめた。

「なんだか……」
「……」
「すごく、いい加減だな。”だいたいこんなもんかあ!”みたいな感じがします。どうしてですか」
「これ弾いたとき、時間なくて」

 間宮の幻想即興曲は、かなり大雑把な感じがした。
 譜読みから仕上げるまで、タイトな時間でこなしたのだろう。

 あまり真面目にピアノのレッスンを受けなかったのではないか、欠席ばかりして、単位に必要そうな回数しか行っていなかったのではないか、と間宮は想像した。ペダルの使い方も雑だ。

 レッスンをしていると、その生徒がどうやってピアノの前に座り、どのような練習をしていたのかが頭に浮かぶ。その生徒に対して興味がわく。
 さて、どうしてやろうか、と思うのだ。どうやって、何を言ってやれば、よくなるのか。何を言えばどう感じるのか。すこし伴奏の仕事と通じるものがある。
『さあ、この人はこれをどう弾く?』『さて、どうしてやろうかな……』と思うとき、そこに間宮のたのしみがある。

「耳で覚えたの?絶対だめですよ。ちゃんと楽譜を見る!」

 柚木はヴァイオリンの天才だったが、二つも三つも楽器が上手いわけではないのだった。

「弾けてないです。いいところと悪いところが混在しています」
「ぼく頑張ってるのに、どうしてそんな冷たいこというの!?」
「弾けてないところが弾けてないからでしょうが」

 ぼくは必死でやってるのに君の言い草はひどい、と言う柚木に、本当にこの人は自分のことを棚に上げるな、と間宮は思った。

「あ、なに。ちょっと、なんですか。どうして今一部分飛ばしたの」
「は?」
「間違って暗譜してるんじゃないですか。楽譜を立ててるのに見てないでしょう。どこ見てるの」

 柚木の目線は楽譜の上にあるのだが、どうも読んでいない感じがする。

 なんとなく焦点が合っていないような目をしているので、目が怖いですよ、と間宮は正直に言った。

「一度にめちゃくちゃたくさんの音がある、キモっ。あと音程が絶対変だよ。こことか、ここ」
「当たり前でしょうが。ピアノは平均律だから、もともと音痴なんですよ」

 次に、間宮はピアノの下に目を向けた。

「それでいいと思っているんですか」
「……」

 とにかく柚木はペダルの踏み方に問題がある。音が濁るだの音が止まりすぎるだのの前に、ガタガタと音がしている。

「踏むときは、もっと優しく踏む」
「……ほんとにSMみが強くなってきちゃった」
「はい?」
「いえ……」
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