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二章

 

 間宮は、テーブルの上の腕時計型デバイスを眺めてため息をついた。

 柚木のものだ。大学でレッスンをしたあの日、柚木が間宮のジャケットのポケットに押し込み、そのまま間宮が持ち帰ってしまったのだ。
 あの日からもう一週間になる。

 これがなくて困っていないだろうか。今、自宅にあります、と言ったほうがいいだろうか。
 いや、困っているなら連絡がくるはずだ。向こうからの連絡を待てばいい……。

 普通こういうときはいつも間宮が折れ、そうやって柚木と間宮の関係は続いてきた。

『君、才能ないよ。ヴァイオリンなんて捨てちまえ、メルカリで売るか窓から投げ捨てろ』

 ふと柚木のその言葉がリフレインして、再び腹が立った。
 人の気も知らないくせに。相手のバックボーンなんて知ろうともしないくせに。

 間宮が考えているのは、大和田のことだけでなかった。

 自分が十代だったとき、まわりにいた音楽家志望の人間たち。まったく柚木のようではなかったけれど、突出した才能もなかったけれど、真摯だった、音楽を志す人間たち。
 
 彼らは、自分の努力は無駄にはならないと信じていた。そして、もし無駄になったとしても、それでもいいと言った。

 間宮は彼らのことが好きだったし、間宮自身も、柚木の側か、彼らの側かで考えると”彼ら”の側だ、と自認している。他人がどう言うかはさておき。
 だから大和田にも諦めないでほしかった。

 間宮はふと思いつき、手元の自分の端末で”メルカリ ヴァイオリン”と検索した。
 本当に楽器も売られているのだろうか。

 彼はこういうサイトを訪れたことがない。中古のものには抵抗があるし、別に中古で何か求めたいと思ったこともない。
 楽器は別かもしれないが、楽器はこういったサイトで買うものではなかった。少なくとも彼の中ではそうだ。

「え」

 彼はそのサイトをスクロールし、唖然とした。

 大和田のヴァイオリンがケースと共に掲載されていたからである。

 ヴァイオリンはたくさん出品されていたが、大和田のヴァイオリンは何度も見たことがあり、彼の使っていたヴァイオリンケースも覚えているので間違いない。

 何より、値段設定が一際高く、すぐ目についた。本当は大和田の使うヴァイオリンはもっと値段が張り、価値があるが、このサイトの値段設定的にはこれが上限に近い値段なのだろう。

 今のところ、誰も買い手はついていない。
 間宮は手にした端末で大和田の連絡先を呼び出し、電話をかけた。彼の伴奏を何度もしたことがあるので、連絡先は知っている。

「大和田くん、きみ、ヴァイオリンを売ったのか?」

 大和田が電話をとってからすぐにそう言った間宮に、大和田は笑った。

『間宮先生、こんにちは。はい、そうです。まだ売れてないみたいですけど』

 大和田は間宮のことを、先生、と呼ぶ。
 間宮は伴奏を依頼されているだけ──彼の親から──なので、厳密には彼の先生ではない。

「きみ……」

 間宮は絶句した。大和田のいいところは、素直なところだ。
 素直でいることを強いられている、という言い方もできる。しかしこれは行き過ぎだ。
 
「柚木さんは、何も本気で言ったわけじゃない。ヴァイオリンを売れだなんて」
『僕、首を吊ろうと思ったんです』
「な、なに」
『ずっと前から考えていたことでした。僕にはもうエネルギーがなくて、カラカラに焼き付いていて、一秒一秒、必死でした。でも、もう逃げるための力もなかったんです』

 大和田の声は暗くなかった。
 くびをつる。そんな話題にそぐわないほど、どちらかといえば明るい声をしていた。憑き物が落ちたみたいだ。

 彼がここまで明るく話すのを、間宮は久しぶりだと感じた。
 病院を受診することを、大人としてはすすめるべきだったが、タイミングを逃してしまった。
 彼は言った。『僕がやっているのは、全部無駄なこと。こんなことを今日も明日も明後日も、なんのためにもならないことを必死で続けて、苦しんで、どうして生きなきゃいけないか、わからなくなった』。
 
 柚木さんだったらなんと言うだろう、と間宮は考えた。”無駄”とはなんだろう。なにかのためになる、というのは、一体なんだろう。

『大学の十階のトイレの噂、知ってますか、先生』
「……知っているよ。私の在学中からあった話だからね」

 京峯音楽大学の上の階はレッスン室がずらりと並んでいる。下の階に比べて廊下の人通りは少なく、寂しい感じがする。

『木枯らしがどうしても弾けなくて、嘆き悲しんで自殺した女の子が出るって。僕の推察するには、もしかするとハリーポッターの”嘆きのマートル”に影響を受けて作られた怪談なんじゃないかと思ってたんですけど、どうかな』
「……」
『これ、結構、おかしいらしいですね。ショパンの木枯らしって、ピアノ専攻の人間からするとそんなに難しいレパートリーじゃないんでしょう』
「たぶん、違う専攻の学生が作ったんだろう」

 ショパンのエチュードのうちの一曲である『木枯らし』は、確かにまあ難しいといえば難しいが、気が狂って死ぬほどではない。
 とくに音大を目指すような学生にとっては、もっと難しい曲だってやらなければならない。

 しかし、いかにも難しそうには感じられるから、ピアノは必修の副科どまりの人間が作った怪談なのだろう。

 きっと難しそうな『木枯らし』が弾けなくて苦しんだという設定にすれば、説得力があるに違いないと考えたのだ。なんとも可愛い。

『それで僕は、なんとなく、十階のトイレにしようと思ったんです。どうにかして紐とかをくくりつけて』
「……柚木さんが、あんなことを言ったから」
『僕は前からそうしようかと思っていました。それで、そのとき、窓が開いていたんです。トイレの窓の向こうから空が見えて、それで”ここから楽器を捨てることもできる”と考えたんです』

──君、才能ないよ。ヴァイオリンなんて捨てちまえ、メルカリで売るか窓から投げ捨てろ。こんな湿っぽい退屈なホールなんか出てって、二度と帰ってくるな。

 柚木はそう言ったのだ。

『もったいないなと思いました』
「そ、そう」
『僕って金銭感覚が……普通とは離れているんじゃないかと思うんです、ニュースとか見たりしてて。それじゃダメだと思うんです。楽器を捨てたらお金も無駄になるので、売ったほうがいいということになりました。そうすれば他のことに使える』

 いいということになりました、というのがなんだか可笑しかったが、間宮はとりあえず、両親には話したのか、ということについて聞かざるを得なかった。

『母と父は、激怒していて、困惑しています。僕は母と父を裏切ったんだって思って、悲しいは悲しいんですけど。でも、楽器をメルカリに出して、外を歩いて、映画を観たりとか。知らないレストランに入って、お昼を食べたりとか。そうしていたら、気分が良くなってきたんです』
「学校はどうするんだ?」

 間宮は、自分がさっきからどうでもいいことばかり聞いているのに気づいた。
 どうでもいい。柚木なら笑い飛ばすだろう。でも、一応は聞かなくてはいけないことがある。

『休学するかもしれません。楽器が売れたら、そのお金で旅行したり、何か始めたり、するかもしれません。もともとは親の金ですけど、息子が死ぬことを考えたら安いもんでしょう』

 大和田は笑った。年相応の笑い方だと思った。

 彼がこうやって笑う笑い声を、間宮はこのとき初めて聞いた。静かな青年だと思っていたが、本当の彼はもっと賑やかなのかもしれない。

 大和田は一瞬黙り、それから決心したように、こう言った。

『間宮先生、ごめんなさい。僕に合わせて支えてくれたのに。いつもいつも、期待はずれだったでしょう』
「そんなの……私こそ。君の思っていることを、何も」
『あともうちょっと、っていうのが、僕にはできなかったみたいです』

 あともうちょっと努力すれば、あともう少し頑張れば、彼はよくなる、と間宮はずっと思っていた。

 あともう少し、あともうちょっと。それを大和田はいつも知っていたのだった。


 電話を終えたあとすぐに、間宮の端末にメールが入った。件名は『レッスンをして頂けませんか』とあり、なんとそれは柚木のアドレスから送られていた。
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