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二章



「間宮さんって変態的に上手いっすね!ちょっときもいぐらい上手いです」

 一通り食べ終わった春崎は言った。
 変態的、という形容がおかしかったのか、柚木はにやにやと笑った。

「タッチもクリアだし」
「聴くと、ああ、順ちゃんだなぁ、という感じがするよね」
「間宮さんと会うまで、言うて伴奏なんて、誰がやってもそう変わらないだろと思ってたんで」

 春崎は、伴奏という仕事はなくてはならない仕事だということは知っていたし、試験やコンクールに出た際に、世話になったこともたくさんある。
 
 ”ソロのピアニストとしてやっていけなかった人間が、音楽を職とするためにつく仕事”……とまでは思っていなかったが、まず注目されるのはソリストで、伴奏はただそこにあればいい、とは、すこし思っていた。

「すごかったです。踏切台って感じでした」
「踏切台?跳び箱とか、体操の競技で使うロイター板ってこと?靴じゃなくて板ときたか」

 柚木はけらけら笑った。

 春崎は柚木のために最初は肉を焼いてやっていたが、最後は二人は自分で焼いた肉は基本全部自分で食うというスタイルになった。

 鉄板の上にだーっと並べてどんどん食べていくので、人の肉の面倒を見るのがまどろっこしいのだ。
 たぶん、間宮がここにいたなら柚木の分の肉を焼くかはわからないが、少なくとも、ペースを合わせて彼の話をうんうんと聞いてくれるのではないかと思う。

「高校生ってまだ、正直オペラのアリアとか歌うには未成熟すぎるっていうか。有名な海外のオペラ歌手と同じ曲やるなんて無理っていうか」
「積んでるエンジンがそもそも違うしね」

 春崎が聴いたオペラ演習は、音大付属の声楽専攻の高校生が、短縮版のオペラをホールで上演するためのクラスだった。

 オペラは大仕事なので、声を見込まれて入学してくる高校生一人だけで役をすベて歌うのは難しい。だから、一幕のこのシーンは○○さん、二幕のこのシーンからは××さんというように、分割して役を割り振る。

 そうすることで学ぶ機会をより多くの学生に与えることができる。

「ソプラノは声が薄いし、テノールなんかもう高い方ギリッギリ、って感じなんすけど。一人で歌ったときはきついキーも、なぜか間宮さんの伴奏があると音程当たるんですよね」

 一番いい位置に一番いい力加減、一番いいスピードで踏切板を踏み抜いたときのように、学生の声が思い通りの場所まで届くのを見た。

 春崎には声楽のことは何もわからない。しかしそう感じたのだ。魔法みたいだな、と思った。

 ポップスとはまた違うから、例えるのは憚られるが、モニターのバランスが悪い状態で歌ったり、合わせづらい急拵えのバンドをバックにして歌手が歌ったりすると、歌手は調子が悪くなって本来の力が発揮できないことがある。

 それの逆バージョンだ──と春崎は考えた。

「指揮者はいたから、それにつけてる間宮さんができることって、多くはないと思うんですけど」

 間宮は指揮を見るのもうまい。
 もし間宮がピアノではなくてオーケストラに入れる楽器をやっていたなら、良いオケマンにもなったのではないかと春崎は思う。

「曲はなんだったの」
「演目はボエームでした」
「この時期にねぇ」

 プッチーニが作曲したオペラ”ボエーム”はヒロインが肺病で死ぬというストーリーだ。

 オペラとしては定番中の定番で、名曲揃いなので、感染症を想起させるとわかっていても学生に勉強させたかったのだろう。
 声楽や合唱はここ一年、集団での授業がだいぶ中止になっていたはずだ。

「順ちゃんは人のことをよく見てるからね。もちろん、努力もあると思うけどさ、ああいうのは人間としての指向性によるものが大きいんだよ。そいつがもってる興味の方向性というか」

 春崎は、学生の頃を思い出した。どうしてか指揮を見てそれにつけるのがとても苦手な奴、というのがいた。アンサンブルができない奴、というのもいた。
 大概、そういう奴は演奏自体あまり上手くないのだが、たまに、楽器自体は上手いのに合わせるとなるとからっきしの奴もいた。

 間宮は、その人間たちとは、真逆の方向を向いた人間だということだろう。
 世の中にはいろいろな人間がいる。

「だから順ちゃんは、コンクールのシーズンとか入試のシーズンは忙殺されてるんだよな。順ちゃんが伴奏すると、コンクールで賞獲るとか、大学に受かるとか言ってさ」
「ジンクス……じゃないんすね」
「そんなんじゃない。ちゃんと理由がある。あいつは上手いんだよ」

 そもそも柚木さんのヘリオスだって間宮さんが伴奏して手に入れたものだしなあ、と春崎は思った。

 柚木は、デザートのアイスクリームに手をつけ始める。
 酒を飲むので甘いものは苦手なのかもしれないと春崎は思っていたが、まったくそんなことはないらしかった。

「じゃあ、世の中にはもともと柚木さんとー、間宮さんがいてー、間宮さんはいつも合わせるばっかりか」
「春ピコくんもいるよ」
「……炎上気質の柚木さんと、有能だけどおとなしい間宮さんと、残り物のその他大勢代表の春崎がいて、そうやって世の中成り立っていくわけですね」

 バニラのアイスクリームをスプーンで掬って舐め、柚木は、それは諸説あるよねえ、と言った。

「順ちゃんは、ぼくに対して期待をかける。ぼくはそれに応え続ける」

「逆じゃないんすか」

「順ちゃんは耳が肥えてるし、小手先で騙すことはできない。演奏において、順ちゃんに隠し事はできない。すぐバレるんだよ。ソリストのことを値踏みするんだ。あなたは”最高”だね、とか言ってね」

「……」

「あいつはね、好きでやってるんだよ。サービスのSはサディストのSって、よく言うだろ。ひとをお世話するのが好きな人間ってのは、基本的にそういう気質をもってるからな。管理するのが好きというか」

 間宮の伴奏に乗って歌手がうまく歌えたり、ソリストが楽に弾けたりするのは、ただ単に、間宮がそうしてあげたい、と思っているからなのだ。

 柚木さんは、こうだから、こうだよ。あの人は、ああだからね、そうしてあげれば、喜ぶよ。あれはやってはダメ、怒るよ。
 間宮がそうやって、たまに春崎に教えてくれることがある。そういうとき、間宮は楽しそうだった。もっとたくさん、知っているけれど、ほんの少しだけ春崎に教えてくれる、という感じだ。

「ぼくはね、頑丈だ。頑丈なヴァイオリニスト。順ちゃんが期待をかけても大丈夫」
「ベストな二人っすね」
「ぼくたちは、お互いに満足してる。期待されれば、ぼくはうれしい」

 春崎はふと、前から思っていたことを、柚木に確認してみようという気になった。

「付き合ってるんすよね」
「誰が?」
「柚木さんと間宮さんが」

 不躾な質問だっただろうか、こういうのは気づいていても言わないでいるべきなんだろうか、と春崎は思った。

 でも、例えば”ソプラノ歌手と作曲家”だとか、”いつも組んでいるピアノ連弾の相棒”でパートナーだというのは、そう珍しくない。

 柚木から間宮のことを『彼は順ちゃん。伴奏者だよ』ということ以外の紹介がなかったので、それだけかよ、と思ったくらいだ。

「じゃあ、ぼくは三回結婚をしてるけど、その期間についてはどう考えてるわけ」

──いや普通に不倫じゃないですか?

 春崎はそう返したくなったが、すんでのところでやめておいた。

 ひとのもつ倫理のラインというのは意外なところに引かれているから、例えば全体的に無神経そうに見える柚木が不倫に関しては厳しい倫理観をもっているかもしれない。
 そういうことは生育環境にも影響される。

 春崎は、『柚木さんの結婚相手は、間宮さんのことがいやだっただろうな』とも思った。
 二人の関係が恋愛ではなくても、もしかして、恋愛ではないからこそ、いやだったかもしれない。恋愛なら不倫になるが、これは一体なんだろう。

「ぼくはね、順ちゃんの家に行ったこともない。順ちゃんがうちに来たこともないよ」
「うっそだあ」
「なんでよ」
「そんなの仲悪いじゃないですか。それに、噂がありますけどね」
「どんな噂」
「柚木さんが、共演者は手当たり次第いってたってゆう」
「それ、誰か知らんヴァイオリンの奴が流した噂だろ」

 ああまったく、ぼくって妬まれちゃうからな、と頬に手を当てて柚木は言った。
 春崎はその噂の真偽については微妙なところだなと感じた。彼の予想では、”たぶん、結構、いってた”。

「じゃあ、今度、間宮さんちでみんなで鍋パかなあ。もう鍋の季節じゃないか」
「順ちゃん家で?」
「その前に一回行っといてくださいよ。いきなりは押しかけづらいです」

 自分たちのことについてすこし喋りすぎたと思ったのか──そんな殊勝なことを柚木が考えるのかはわからないが──柚木はスプーンを置いて頬杖をつき、春崎のほうをじっと見た。

 透明なアクリル板越しでも、柚木の瞳の輝きというのは削がれることがなかった。
 確かに手当たり次第いけそうな目だな、と春崎は思った。春崎が春崎ではなかったら危なかったかもしれない。

「で、春ピコは?トロンボーンは全然やってないの」

 この話題になると、春崎は、どうにも身の置きどころがないような気持ちなる。

 トロンボーンを吹かなくなったのはもうかなり前のことだし、音楽とは違う仕事を楽しみたいと思っていた。

 しかし今回柚木のマネージャーという、直接演奏に携わりはしないものの、音楽が身近にある仕事に就いてみて、”自分が柚木さんや間宮さんみたいだったらどうだっただろう”とふと考えるのだ。

 大和田のこともあった。音大に通っていたときのこと、さらったレパートリーのこと、学生のみんなでアンサンブルした時間、音楽理論の単位を落とさないために苦心したこと、入試のときに必死だったこと。

 しかし、それらを“無し”にして新しい道を歩むことを、むしろ誇りに思っている。そう思いたかった。

「もう興味ないの?」
「ないっすね」
「それ、金が無いんじゃなくて?無いのは興味じゃなくて、金なんじゃない?」

 春崎がトロンボーンを置き、吹奏楽にも興味がわかないというのは、金銭状況が悪いからではないか、と柚木は言った。
 随分、ずけずけと言ってくる。

「単にもう興味がないです。ほんとに興味ある人って、音楽に愛ある人って、ド貧乏でも頑張るでしょ」

 そう春崎は返したが、言ってみてから彼は、自分で言ったことが、自分の気持ちとは離れていると感じた。
 
「そんな暇もないし」
「時間があったら?」
「もちろん金もないし」
「じゃあ、金があったら?」
「吹奏楽のコンサートとかも、今はやってないし」
「やってたら?」
「でも、俺は、そういうの、もう無駄ですから」

 君が本当に”もう興味ない”のかどうかは、満ち足りた衣食住プラスアルファのすべてが揃わなきゃ判断できないね、と柚木は言った。



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