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一章


「ヴァイオリンが見つからなかったら、いったいどうするつもりなんです?」
「どうって言っても」
「あなたのヘリオスが……本当に可哀想ですよ」

 ヘリオス。

 有名な楽器製作者が手がけた名器と言われる楽器には、一丁ごとに名前や愛称のついているものがある。柚木の愛器はHeliosという名前を冠しているのだった。

 太陽神の名前にふさわしく、稀代の傑作と言われ、その音色は華やかで煌びやか。
 音の抜けはよく、ホールの一番向こうにまで音が豊かなままでポーンと飛んでいく。と、言われる。

 最近は柚木しかヘリオスを弾かないでいたので、音色や音量、表現力がヘリオス自体の素晴らしさによるものか、それとも単に柚木の腕前によるものなのか、間宮には正直よく分からなくなっている。

 柚木とヘリオスは入り混じり、それだけに今の状況が間宮には痛々しく思えた。ふたつ一緒にあるべきものが、分たれている。

「戻ってくるよ。必ず」

 柚木は言い切った。そうしておいてから、彼は考え考えしながらそう思う理由を述べ出した。

「あれはぼくの楽器だし、すぐに照合されるだろうから、盗ったって売れやしないんだよ」

「闇で取引されるかも。そうしたら金を持ったコレクターが秘密裏に買って、もう永遠に戻ってこない。柚木さんはヘリオスを選んだし、ヘリオスは柚木さんを選んだのに、永遠に離れ離れ」

 間宮がそう言うと、柚木はもう耐えきれないといったようにけらけらと笑った。

「ヴァイオリンはただの木だって。何百年も前に死んだミイラの木。死んでる木のそこに死んだ羊の腸を張ってだね。それを死んだ馬の尻尾で一生懸命擦ってんじゃん。人間って何してんだろうね」

「やめてください。馬は死んでない」

「順ちゃんってほんとロマンチストっていうか……きもいよねぇ。音楽関係の人でそんなこと言う人いるんだ。ヴァイオリンが人間を選ぶとかさ、そんなこと言ってるから呪いのヴァイオリンがどうとか言われちゃうわけ。なんでヴァイオリンばっかり。ピアノもたまには呪われろよ」

「あなたのヘリオスは特別曰く付きだから」

「まわりの人が勝手に曰くを付けてるだけだからね、それ」


 柚木は、オカルトを信じない。徹底的に信じない。
 

 ヘリオスは名器として生まれ、多くの王族や貴族の手を渡り歩いた。
 ヘリオスの所有者となった彼らは、ことごとく没落の憂き目にあったか、あるいは処刑されている。

 その時代の後、ヘリオスを巡って争った音楽家二名が決闘して、相討ちになった。そんな経緯を経たヘリオスは博物館行きとなったが、その博物館は全焼した。
 しかしヘリオスは間一髪のところを助け出されて無事。

 その後も多くの演奏家の手に渡り、最後には銀行が管理するに至った、という。ヘリオスの所有者の名簿は長く、そのさまは奇怪なのである。
 その名簿の最後のところに、柚木力の名前があった。

 ヘリオスは、怒る。そう言われる。

 気に食わない場所、気に食わない弾き手、気に食わない扱い、そういうものに対してたちまち怒り出して何かの災いを招くという──そういう噂があるのだ。


──でもそれは、その時代の貴族って没落しがちだったからだろ?処刑だって日常茶飯事だったんだ。たまたまヴァイオリンを持ってたからって、そんな。

──音楽家が決闘だなんて、運動不足だったのにそんなことするから当たりどころが悪くてどっちも死んだんじゃん。運動神経の悪い奴は何をやらせてもだめ。

──博物館が全焼するとか、管理が悪すぎるよ。


 と、柚木に言わせればみんなこうである。

 逆に間宮は、柚木といることで、それまで信じないでいられたはずのオカルトを感じる羽目になっている。
 呪いには呪いをぶつけるしかないという。よって、ヘリオスには柚木、柚木にはヘリオスだ。

 ちなみにヘリオスについてのウィキペディアはちょっとした良い読み物になっており、情感たっぷりにヘリオスの曰くについて書かれている。

 実際に起きたと思われる決闘のようすや、そこでヘリオスの木の肌にかかったと言われる血しぶきのさままで……。

 もはやほぼ創作の世界に足を踏み入れているその記事について、一応の百科事典として相応しいのか、という疑問はさておき。

 なんというか、本当に柚木さんとお似合いなんだよな、と間宮は思う。

 怒りっぽいところも、各々のウィキペディアを読んで面白いところも。
 柚木は三回の結婚と離婚を繰り返しており、ヴァイオリニストとしての部分を除いたとしても、存命の人物の記事としてはかなり面白い。

「何人があの楽器に手を伸ばしたか。それで最終的にあなたの手が届いた」
「それは、そのとき他の人たちがぼくに劣っていただけ。ヘリオスは、たまたまぼくのとこへきた。もちろん、君の尽力があってのことだけど」

 柚木は間宮などよりもずっと人懐こく、人好きのする男だ。しかし、人懐こさというのは、多くの場合、酷薄であることに起因している。

 無邪気さというのは、冷たさを神秘で覆って許してしまうためのヴェールのことだ。他の人たちが、『ぼくより劣っていただけ』。

「悪いけど、ぼくはヘリオスがなくたってよく弾くよ。」

 にこっ、と、にたっ、の中間の雰囲気で柚木は頬を歪めた。

 柚木はもともと若く見え、そしてこうして笑うと少年のような雰囲気が滲み出る。
 間宮は柚木より三つ歳下なのだが、いつも逆の歳に見られた。

 柚木のヘリオスもオールドヴァイオリンでありながら、奇妙なほど若々しい楽器で、明るい日差しの下でからりと乾いた黄色っぽい枯葉の色をしている。

『そんなの分かってる。でも、一番のヴァイオリニストには一番の楽器でないと』

 ヘリオスでなくてもよく弾くと言ってみせた柚木に対し、間宮は心のうちでそう思った。

「まあね。褒めてくれてありがとう。嬉しいよ」

 柚木がそう言ったので、間宮は、はっと息を詰めた。“まあね”。”褒めてくれて”。
 間宮が柚木のことを、一番のヴァイオリニストだと思ったことに嘘はないが、それを口に出してはいない。

 間宮は再びハンドルを握りなおすことで、困惑を受け流そうとした。彼は慎重に聞き返した。

「……何が?ありがとうっていうのは」
「だから、今褒めてくれたじゃない。ぼくは一番のヴァイオリニストなんだろう」
「言ってない」
「いいや、言ったね。今聞いた」

 こういったことは、初めてではない。この世では、時折おかしなことが起こる。おかしなヴァイオリニストのまわりでは、特に。
 それがおかしなことだということを、本人が認めないのだ。

 褒めてくれたのに恥ずかしがるのはよくないよ、と柚木は重ねて言った。君はそう言った、ぼくはそれを聞いた、と、本当にそう思っているのだ。

 勘が良いのだな、と許せる範囲を、彼は歳を重ねるごとに逸脱してきている。

「……音大の方がいいんじゃないですか?楽器屋より。マシな楽器がありそう。貸してもらえないかな」

 意識してオカルトから思考を引き剥がした間宮は、新品の楽器より、とにかく製造から時間が経った楽器、できればオールドの楽器の方が良いのではないかと考え出した。

 が、柚木はそれに同意しないようだった。

「音大になんかないよ。なんもない。あそこにはゴミしかない」
「浜川社に行くのなら、言っておいた方がいいですよ」
「予約が必要なの?」
「いや、あなただから」

 向こうが慌てないように、と間宮が続ける前に、柚木は携帯端末を取り出し、コールした。

「柚木です。今から行くので、弾かせてもらいたいんです。今偶然おたくの本社の近くに来てるんですよ。ヴァイオリンが早く欲しくて、なるべく早く。はい、そうです、柚木 力ですけど。社長?いや代わんなくていいよ」

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