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二章


 柚木が大和田にレッスンをした三日後に、春崎の携帯端末に電話が入った。京峯音大の事務局からだった。

「この前は本当にすみません」

 春崎は電話に出てすぐさま謝ったが、事務局で働く人間にとっては自分に謝られても、という感じだ。

 電話の要件は、楽譜の忘れ物がある、ということだった。

「忘れ物?」
「控室に楽譜がありまして」
「楽譜というと、どんな」
「とにかく早く取りにこられた方がいいと思います」

 春崎はピンときて、そのあとすぐにゾッとした。
 柚木が来年の大河ドラマのテーマの楽譜を置いていったのだ。あれはまだ外部の人間には絶対に見せてはいけない楽譜だった。

 柚木が間宮と舞台上であの曲を弾いてから、柚木があの楽譜を持っていたのだが、楽屋に置いたまま帰ってしまったのだ。あのときはバタバタしていたので、春崎もそれに気づかなかった。

 柚木は、酔っていたとはいえタクシーにヘリオスを置き去りにするような男である。
 この世界には、音楽の技能以外はポンコツであるという人間がいかに多いかということを、春崎は思い出した。

 先方は、送りましょうか、と親切に申し出てくれたが、春崎はすぐさま取りに行くことにした。


 楽譜を見つけた人間が誰かにそれを見せたり、写真を撮ってSNSに載せたりするようなことがあれば大変なことになっている。
 発表前の曲だから、盗作される恐れだってあるのだ。

 春崎は、現時点でそうはなっていないことへの感謝の証として、京峯音大の事務局へ差し入れを用意して行った。
 有象無象の学生が出入りする場所にあった楽譜を、きちんと保管して保護してくれていたのがありがたい。楽譜は無事に手元に戻ってきた。

 その旨を柚木に連絡し終えてから、ふと春崎は、今自分は東京の有名な音楽大学の校舎にいるのだ、と思い当たった。
 最近は出入りする人間のIDを見られるので、ホール以外は、縁もゆかりもない人間が普段はふらっと入ることはできないのである。

 少し探検してみようか、と思った。
 もし自分が東京生まれだったら、ここへ入学しただろうか。入学金も学費も高すぎるから、実際には無理だろう。
 もし抜群に優れていれば、学費全部を免除する制度があると聞いたけれど、そもそも入試で弾かれたかも……。この学校の管楽器のレベルはどれくらいなのだろう。

 けど、高すぎる学費を払ってまで、渋谷にある音大に入っても、きっとやっていけない。すごい無駄だよな──そんなことを考えて春崎は校舎を歩いた。

 土地が高いので、広々としているとは言いがたい。春崎のいた音大よりも、練習室が少ないようだった。

 蜂の巣で、蜂の幼虫が小さいマスに収まって大人になるのを待つように、手狭な練習室はどこも学生が練習しており、埋まっている。

 大和田もきっとこうやって練習をしてきたのだ。練習室の壁を見ながら。

 地下には大きな練習室があった。
 オペラ演習、と張り紙がされている。ガラスのドアから覗くと、部屋の壁の一面が鏡張りで、見学のための椅子がずらりと並んでいた。劇団の練習室のような体裁だ。

 柚木がレッスンをした日の、間宮と柚木との会話が思い出される。
 オペラ演習のピアニストを肩がわりしたとかなんとか言っていた。ボナペティがどうたら。

 重い防音ドアに阻まれているので、ほとんど中の音は聞き取れないが、そろりとそのドアを慎重に開けて、中に入っていく学生がいた。

 春崎もこっそりとその学生の後について練習室の中に入った。
 春崎だって見た目は現役の音大生に見えるだろう。それに、大学というのはそもそもどんな年齢にも門戸をひらいている。

 その鏡張りの練習室へ入ると、やはりピアノの前には間宮がいたのだった。


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