このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

二章


「金が無ぇ!!!」

 春崎は、携帯端末を覗き込んで、そう言った。
 その端末から預金残高を確認することができるのだが、いくら見ても現実は変わらない。
 
 彼は音楽大学を卒業してから正社員の仕事についたことがなく、借金まであり──奨学金の返済もその中に含まれている──とにかく余裕がない。

 彼は今、柚木のマネージャーという定職についており、同年代の給与水準に比べていくらかいい給料をもらっているが、金がないことに変わりはない。

 金がないと、人は何も考えられなくなる。音楽とか芸術とか、本気でどうでもよくなってくる。

 フランダースの犬のように、死ぬ間際まで芸術に焦がれることはできないものだ。
 そしてそんな貧乏に苛まれつつ芸術を追究したとして、その人生は悲惨以外のどんな言葉でも表すことができない。

──フランダースの犬って、パトラッシュだっけ?パトラッシュが犬だっけ、フランダースが犬?フランダースは土地の名前だったかな……。

 彼はそんなことを取り留めもなく考えていた。

 春崎がいるのは、とあるホールの防音ドアを出た、ロビーのところだった。

 このホールは響きがよく、柚木のお気に入りのホールのひとつである。
 ここは、感染症が広まる前までは連日連夜公演を行っていたが、今は公演のキャンセルが相次ぎ、新しい予約も入らない状態になっている。そこで柚木は、このホールで無人のホールレコーディングを行うことを決めたのだった。

 彼はパガニーニのカプリスを一通り録音することにした。ピアノはいらないので、柚木本人だけが舞台上で弾く。

 誰もそこで公演を行わなければ、ホールの運営は立ち行かなくなる。
 将来コンサートができるようになったときに、響きのいい大きなホールはどこも残っていませんでした、という事態に直面したくないと柚木は思っているらしい。

 それについて、結局それも金があるからできるんだよなあ、と春崎は思う。
 
 春崎はしばらく、『フランダースの犬はフランダースが犬かパトラッシュが犬なのか。もはやどっちも犬なんじゃないか、もしかしてどっちも人間だったりする?片方犬のふりしてるってこと?怖……』ということを延々に考えていた。

 しかし、その思考は急にドアが開いたことによって中断させられた。

「うるっさいんだけどッ!?」

 柚木だった。ヘリオスと弓を片手にまとめて持って激怒している。

 柚木が力任せに重たい防音ドアを開いたので、その勢いで、設置されている手指消毒のためのアルコール噴射器が倒れた。

「すいません」

 春崎は反射的に謝り、アルコール噴射器を慌てて元の位置に戻す。

 しかし彼は何かを大声で喋っていたわけではないし、そもそも柚木はホールの中にいたはずで、防音のドアが空間を隔てていた。

 もし柚木が離れた人間の思考をそのまま聞き取ることができたら、フランダースとパトラッシュをめぐる堂々巡りを聞いて頭がおかしくなりそうになったかもしれない。

 しかし春崎は、そんなことはいくら察しの良い柚木さんでもありえないだろう、と思った。

「きみ、いま、ホールの中にいた?」
「いませんけど。ずっとここにいました」
「じゃあ、誰か入ったろ!?誰も入れるなって言ったのに!録音してんだぞ、こっちは」

 え、と春崎は首を傾げた。彼は、ドアの外で、誰かが間違って入ってこないように立っていたのだ。誰もホールの中に立ち入った者はいない。

 録音をする専門の業者を呼び、客席や舞台にマイクを何本も立てているはずだから、舞台裏にはヴァイオリンの録音に立ち会っている人間がいるだろうが、ホールの客席は無人のはずだ。

「誰も入ってません」
「いいや。さっきから歩き回りやがって。足音がすんだよ。暗くてぼくからは見えないけど、ホールの中をさっきからぐるぐる歩いてる奴がいるんだ!」
「いませんよ!?」

 レコーディングには神経を使う。演奏する本人もそうだし、まわりの人間もそうだ。演奏以外には、絶対に音を立ててはいけない。

 柚木が弾いているのに、やたらと歩き回る人間なんているはずがない。

「それにさっきから喋ってる!うるさいんだよ」
「絶対ないでしょ、ありえないでしょ」

 柚木があんまりうるさいので──それに、レコーディングを邪魔されていると言って怒っているので──春崎は録音のエンジニアとPAのところへ、柚木を連れて行った。

 何か物音が入ってませんか、と春崎が聞いたところ、みんな訝しげな顔をした。モニターしていても、そんな音は聞こえなかったという。

 ただ単に柚木がいきなり怒り出し、ステージから飛び降りて客席を渡り、ホールを出て行ったのだと、全員そう思っているのだ。

「ちゃんと聴いてないからじゃないの?」

 柚木が言ったので、春崎は、げ、と思った。柚木以外のスタッフはみんなそう思ったに違いない。感じがわるい。
 レコーディングに際して異常に神経質になり、ありもしない物音とやらでいちゃもんをつけてくるヴァイオリニスト、という感じだ。

 春崎が、録音したものを聞かせてくださいと言い、ヘッドホンを受け取った。柚木の弾くパガニーニが流れ出す。

 なんともなかった。いや、素晴らしい。それはたまたま五番だった。

 大和田の弾いたものと、こうも違うとは……。大和田が弾いたときには、『骨の折れそうな大変な曲だ』と春崎は思ったが、柚木が弾くと、そんな気持ちにはならなかった。

 とてもスムーズで、簡単そうにさえ聞こえる。口座に金がないことも一瞬忘れるほどかっこいいパガニーニだった。
 
 フランダースだかパトラッシュだかも、きっとこうやって、絵を見た瞬間に、空腹を忘れたんだ──春崎はそう思って聴いていたが、はっと顔色を変えた。


 足音がする。おかしい。


 様子が変だった。足音は、普通コツコツとか、カツカツとか、カンカンとか、そういうふうに響くものだ。
 そうではなかった。ぺたぺた、という音がする。裸足で歩いているみたいだ。

「もっと音量上げてください」

 春崎はそう言った。が、彼は言ったそばからそれを後悔し始めた。背筋が寒くなる。

 足音は、ぐるぐると回っていた。誰かが、急ぐでもなく、足を止めるでもなく、柚木の周りを回っている。

 そしてその音は、少しずつ大きくなっていく……ヴァイオリンの音の発信源である、柚木に少しずつ近づいているのだ。

 それに加え、ザザザ、と奇妙な音もしている。その音に春崎が耳を澄ませると、声のように聞こえてきた。何を言っているかはわからない。

 イタリア語、フランス語、ドイツ語、ラテン語あたりを織り交ぜたような意味不明の言語だ、と春崎は思ったが、彼は日本語以外に精通していないのでわからない。

 声の主が男性か女性かもわからなかった。いろんな人間が小声で思い思いに喋っているようにも聞こえる。

 足音がどんどん近づいてくる。近く、そして近く……柚木に触れられそうなほど近くに。

 そしてぴたり、と止んだ。

『うるさい!そんなことわかってんだよ!』

 柚木がヴァイオリンを弾くのをやめ、突如として叫んだ。

 春崎はそれを境に、ヘッドホンを自分の頭からもぎ取った。
 耳から、得体の知れない恐怖が脳へと染み込んでくるみたいだった。


9/18ページ
スキ