二章
大和田は、非常に礼儀正しくて、努力家だった。その様子を見てきた間宮は、彼に肩入れしているという自覚がある。
彼は多大な努力を積み重ねてきていて、人間にとって大切な若い時期をすべてヴァイオリンに捧げている。
それに間宮は、彼の演奏が、ヴァイオリンが、嫌いではなかった。むしろ好きだった。
あともう少し頑張れば、もっとよくなると思った。
大和田は柚木とは違うが、いつかはよくなる感じがする。大和田には、もっと上を見てほしいと思った。
間宮は、努力をしてきた彼の演奏を『才能ないよ』の一言で片付ける柚木に腹が立った。
柚木に対してこういう気持ちになることは、初めてではない。
ああ、なんて残酷なんだ、どうしてそうやって容易く、一生残ってしまうような傷を相手につけるんだ。
──どうしてみんな、あなたのようではないんだろう。
間宮の考えは、そこに行き着く。
柚木は天才だ。その無邪気で神聖な残酷さを思うとき、間宮はうっとりと夢見ごこちになることさえある。
でも柚木が今日、十七歳の若い演奏者に向かってひどい言葉を吐くのを見て、間宮はそんな気持ちではいられなかった。皆が見ている前だった。大和田は大勢の前で、有名なヴァイオリニストに酷評されたかたちになった。
天才とか凡才とかの話ではない。これは品格とか、当然もっているべき気遣いの話なのだ。
柚木がどんなに素晴らしくても、やってはいけないことがある。
間宮は自宅のラックの前までやってきて、ひとつCDを取り出した。
音質では、ダウンロードもサブスクリプションもCDには敵わない。彼がそれをオーディオ機器の中へと滑り込ませ、スイッチを押すと、スピーカーから優美な音色が流れ出した。
柚木の演奏だった。間宮が手に持ったCDのジャケットには、自信満々といった顔で、柚木がヘリオスを持って微笑んでいる。
『愛の喜び』、クライスラーだ。聞きやすい曲で CDをつくってほしい、と言われて柚木が弾いたC Dなので、有名どころの曲がたくさん録音されている。
間宮が伴奏をつけていた。
「すきだな……」
間宮は虚空に向かってつぶやいた。どんなに柚木に呆れても、演奏を聞くと心が引き戻される。シチュエーションが違えばDV男のやり口に近い。
ひどいことを言った気がする、と思った。『あなたの、その非現実的な、おかしな力には付き合いきれません』と間宮は言ったのだ。
いや、実際、付き合いきれない。付き合いきれないが、二人の間柄において、絶対にそう言ってはいけなかったのである。
柚木が弾くこの曲は、楽しくて嬉しくて、気分が弾み、甘やかだ。とにかくはつらつとし、喜びにあふれている。
大和田がこの曲を弾いたなら、どんなふうになるだろうか、と間宮は考えた。
きっと彼も、がんばってよく弾くだろう。ヴァイオリンが好きか、と聞かれて、瞬時に、はい、と答えたように、彼は弾く。
けれど、きっと柚木のようにはいかないのだ。
柚木の言ったことを、間宮は思い出していた。
この曲を録音した当時、柚木は二回目の結婚生活をできるだけ円満に終わりにしようと苦心しているところだった。
『別れるだろうという予感は、結婚当初からあったよ』
平然とそんなことを言った柚木に、間宮は思わず、なぜ、と聞いた。
柚木のプライベートのことには極力関わらないつもりでいたが、聞いてしまった。
『君にもわかるだろ。この人とはお別れするだろうな、という感覚』
柚木がこういう言い方をすると、間宮は戸惑う。
ただの勘、という意味で捉えていいのか。相手への不安や不満、という意味なのか。それとも、柚木が知らずに携えているおかしな感覚のことなのか。
とにかく間宮は、それは不誠実だと思った。
他のことならいいかもしれないが、結婚は相手のいることだし、お互いに離婚歴もつく。
相手は柚木と永遠を誓っていると思っているかもしれないのに、柚木がそんな感覚でいるのは誠意に欠ける。
『別れるとわかっているのに、どうして結婚なんか』
間宮がそう言うと、柚木はこう答えた。
『別れるとわかっていたら、はじめないの?』
彼の言っていることは、極めてシンプルだった。いつも柚木は生まれたてのようだ。
『無駄だと知っていたら、やらないの?』
『死ぬとわかっていたら、生きないの?』
『もう知っている曲だろ。クラシックはみんなそうだ。ぼくも観衆も、結末までみんなわかってる。だけど演るんじゃないの?』
『無駄なことをするために、生きるんじゃないの?無駄だから、喜びがあるんじゃないの?』