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二章


「なんであんなこと言ったんですか」

 柚木は楽屋にあるソファに座り、足を組んだ。間宮は座ることはせず、柚木に詰め寄る。

 結局大和田へのレッスンはめちゃくちゃになった。『こんなの時間の無駄だからもうやらない』と言い出した柚木が、強制的にレッスンをそこで打ち切りにしたのだ。

 一時間のはずだったレッスンは、実際には十分程度しか行われなかったことになる。

 柚木は春崎に、水、と横柄に言った。
 彼は春崎が差し出したペットボトルの水をぐいっと飲んで、間宮に尋問するように問いかけた。暴君の王か何かかよ、と春崎は内心で呆れた。

「彼のこと知ってるんだろ」

 彼、とは、大和田のことである。
 聞かれた間宮は、そうですけど、と答える。

「音楽が彼のことを蝕んでいる。」

──幽霊が取り憑いている。

 と、言うみたいに柚木は言った。
 むしばむ、という言葉を、春崎はほとんど使ったことがなく、また普段の会話で使う人間を目にしたこともなかった。

 ちょっと笑えるほど生活と乖離した言葉だ。しかし、柚木はそんな単語を使い、なおもはっきりと言う。

「彼はいやがっている。音楽に対しての情熱が、もう身のうちには無いのさ」
「そんなことは……ただ今は、すこし行き詰まっているだけで」

 春崎は、おや、と思った。

 間宮が柚木のやり方を窘めるに留まらず、彼が大和田の側に立って肩をもつような発言をしたからだ。

 大和田は春崎から見ると、高校生としては十分に上手いように感じられた。むしばむ、も、行き詰まる、も、大和田をあらわす言葉として似合わないように思える。

「君にも感じられるはずだ。彼の伴奏をしてたんだろう」

「いや、何も。私はあなたのようではないんですよ。あなたのようには……」

「順ちゃん。そうじゃなくて、普通に音楽家として、という意味だよ」

「大和田くんは非常に熱心ですし、あなたにあんなことを言われたら彼は」

「彼はすごく疲れてる。きつくてつらくて、日常生活と人生に悪影響がある。実際に時間も失われているしね。やりたくないことをやっている」

「そんなことはありません。彼がやりたいことだから、私たちは応援するんでしょう」

「順ちゃん、それ彼の本心じゃないよ」

「彼はあなたとは違う。いつも楽しい気持ちでいるのなんて無理なんだ。ただ必死なだけです。どれだけ彼が……」

 間宮は言いかけて、口をつぐんだ。
 楽屋の空気がぴりっと張り詰める。それが春崎にも感じられた。

 基本的に間宮は柚木に従う。こんなことは春崎が見る限り、初めてのことだった。柚木が言った、『順ちゃんは情深い』という言葉が脳裏に浮かんだ。

「彼は完全に、親の意向でヴァイオリンをやっているね?そうだろ」
「今は彼の意向だ」

 再び柚木と間宮のどちらも言葉を発さなくなったので、沈黙に耐えきれなくなった春崎は言った。

「けど、最初はみんなそんなもんすよね?間宮さんも、柚木さんも?」

 ヴァイオリンやピアノは、習い始める時期が早い。音感や感覚の問題から、早く始めるほど有利だとされている。子供に言葉や文字を覚えさせるようにして、幼いうちに自然に取り込ませていくのだ。

 春崎の通っていた音大でも、三歳から五歳ほどで始めたという学生が多かった。それでは、本人の希望で始めるのは難しくなる。だから、親が始めさせるかどうかで決まる、というところがある。

 もちろん例外はあり、遅く始めたピアニストやヴァイオリニストでも大成する者はいるが、クラシックの演奏家としては、それは稀だ。

「それが、いつかは自分の意志にならないといけないんだ。真実、ほんとうに、自分の意志でやらないと。自分に嘘はつけないんだからね。嘘をついてまで生きる価値は、人生にはないんだよ」

「彼は十七年生きているんですよ。彼は十七年、自分でヴァイオリンを選んできた。彼の十七年はヴァイオリンでできているんだ」

「それであともう十七年、彼は人生をヴァイオリンのために浪費するのか?」

 柚木は冷酷だった。口調そのものは軽かったが、それだけにさらにつめたく感じられる。

「しかしこのマスタークラスの学生、どんな基準で選んだんだろう。親が大学におさめた寄付金の多い順とか?」

 春崎は、間宮が否定すると思った。が、予想に反して間宮は何も言わなかった。

「試験の点数で良いのを選んだとしたら」

 柚木は三人の学生の名前が並んだリストを見て、言った。

「この学校はあまりレベルが高くないように思える」

 そう言ってしまってから、柚木は間宮に向き直って“ヴァイオリンに関してのことだよ。ピアノについては知らない”とだけ付け加えた。

「今日レッスンした中で、彼が一番よかったのでは?それなのにあんなことを言うなんて。他の二人は褒めたでしょう」

「だから、彼は駄目なんだって。他の二人は、ものすごくいいとは言わないが、まだまだ音楽が好きそうだったよ。君にも感じられるだろう、彼の駄目さが。君のそれは親心なのか、なんなのか、僕にはよくわかんないけどね」

「”感じられる”?」

 間宮がふっと笑った。間宮の怒りを春崎は感じた。

「私にはわからないですね。あなたはいつもそうやって、自分の言葉の影響を考えずに口にする。あなたの、その非現実的な、おかしな力には付き合いきれません」

 

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