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二章


 マスタークラスが始まる前に、あの人は本当に教えられるのか、と春崎は間宮に聞かれた。

 が、春崎は、柚木がヴァイオリンを教授した経験があるのかどうか、またそれに向いているのかどうか知らない。柚木と付き合いの長いはずの間宮からそう聞かれて、春崎は内心不安になった。

 柚木は今回、京峯に招かれてやってきている。2019年から海外に出ることは状況的に叶わず、コンクールも中止になってしまい、レッスンも減ってしまったという学生のために、大学側がこの機会を用意したのだ。

 日本一学費が高くても、こうして学生に還元され貴重な勉強の機会を得られるのであれば、学生の親も納得するだろう。

 今回は、一人につき一時間。三人の学生に柚木はレッスンを行う。

 いずれもヴァイオリン専攻で、山本響、学部二年。斉藤茉莉花、学部四年。大和田奏人、付属高校三年。

 この京峯には、付属高校がある。高校三年生の彼は、高校の授業を受けた後、このホールへやってきてマスタークラスを受けるということで、順番が最後になっている。

「……大和田くん」

 名簿を見て呟いた間宮に、知り合いですか、と春崎は声をかけた。

「伴奏を引き受けたことがある。彼は立花先生の門下生でね」

 間宮はそう言った。どこか暗い表情をしていた。
 “立花先生”と柚木は関係性が良くない、らしい。そう間宮から春崎は聞いた。



『音楽より安全の方が、何倍も大切です。そんなことは誰にでもわかる』

 柚木のそんな口上でマスタークラスは始まった。よく声が聞こえるようにと、柚木は襟のところにピンマイクをつけられている。

 客席はしんと静まり、柚木の声に耳を傾けた。間宮はレッスンを受ける学生のためにピアノの前に座っており、春崎は舞台袖でそれを聞いていた。

『こんな世の中なのに、ヴァイオリンを学ぼうとし、この道でやっていこうと考えている奇特な皆さん。不要だと言われたのに、決して諦めない皆さん。ぼくは誰のことも、皆さんのことも、決して助けることができないが、今日はぼくから何かを奪って、得て帰るように』

 せっかく高い学費出してるんでしょうから、と柚木が付け加えると、客席から忍び笑いが起こった。



 春崎はハラハラしながら舞台袖から見守っていた。

 柚木が、ヘタクソ!と言って学生を舞台から追い出すような所業を働くのではないか、もしかして泣かせるかもしれない、と思っていたのだ。
 しかし、柚木は予想に反してしっかりと仕事をこなしていた。

「この場所は、さっきと同じフレーズが出てくるけれど、絶対に違うアプローチをしたほうがいい。二回も同じことをするべきじゃない。二回同じことが書いてあるときは、違うことを期待されているんだ。君はまだそれをどうしようか扱いかねているね」

 柚木と学生、譜面台に置かれた楽譜、そして間宮とグランドピアノ。

 それらを、コンサート用の照明よりも一段柔らかい光量にされたライトが照らしている。

「それがはっきりとぼくには分かる。じきに客席にもバレるよ」

 レッスンは、時折笑いも起こるほどの柔らかい雰囲気で続いた。

 ピアノ椅子に座る間宮もほっとした様子でいる。

「あとね、君は伴奏のことを聴きすぎかな。待ちすぎている。この人は君が一度、こうして!と演奏で示せば必ずそうしてくれる。だから気を遣うことはないんだ」

 柚木が、間宮のことを弓で指して言った。間宮はなんとも言いがたい微妙な表情でとりあえず頷いた。

「しっかりプランを決めてから自信を持って弾き出せば、君はすごく良くなる。考えながらじゃなくて、考えた上で弾くといい、君にはそれだけの力、あるはずだから。ぼくにはちゃんとわかるからね」

 柚木にそう言われ、学生は力強く頷いた。

 二回目に演奏したとき、その学生は驚くほど冷静で、最初に弾いたときとは比べ物にならないほどよく弾いた。

 プレイヤーと教授の能力は全く別で、名手であろうとも教えることに適性がない場合も多い。しかし、柚木は、とりあえずは学生をそれまでよりも良い状態にもっていくことに成功している。

 大学生二人のレッスンが終わると、今回唯一の高校生である大和田という青年が舞台に呼ばれた。

 大和田は、間宮に気づき、会釈をした。痩せていて、背が高く、真面目そうな青年だった。重たい黒髪に、眼鏡。高校の制服を、ネクタイまで折り目正しく着ている。

「知り合い?」

 柚木が間宮に聞き、その声がマイクを通って客席に響いた。間宮はそれに控えめに頷く。

「じゃあ、カプリスの頭から」

 柚木がそう言うと、大和田はヴァイオリンを構え、パガニーニのカプリス五番を弾き始めた。それを舞台袖から聴いている春崎は、なんとも骨の折れそうな大変そうな曲だと思った。

 終止の音が響き終わると、大和田は弓を下ろし、息をついた。
 
「疲れた」

 柚木がいきなりそう言った。大和田はぎくりとして身体を強張らせた。

「ヴァイオリンは好き?」
「はい」

 大和田は間髪入れずにそう答えた。

 それから、柚木は大和田のほうへ向き直り、はっきりとこう言ったのだ。

「嘘をつくな。君、才能ないよ」
 
 春崎は唖然とした。はあ!?いきなりどうしちゃったんだこの人。

「ヴァイオリンなんて捨てちまえ、メルカリで売るか窓から投げ捨てろ。こんな湿っぽい退屈なホールなんか出てって、二度と帰ってくるな」

 間宮もピアノの前で、春崎と同じく柚木の言葉に唖然としていた。


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