二章
春崎は、車を私立京峯音楽大学の駐車場に停めた。土地の高い渋谷区にその校舎はあった。
「君の母校というわけだ。さすが日本一学費が高いだけある。最近はよく来るの?」
柚木は間宮に向かって、にたっ、と笑った。マスクをしているから口元は見えなかったものの、目元が笑んだ。
「オペラ演習のピアニストが体調不良で、急遽私が代わることになりました」
「コレペティみたいなこと?」
「違いますね。ただの伴奏です。そんな仕事はできない」
いや、何それ、ボナペティと似てるな……。春崎は思った。
コレペティトール、通称コレペティとは、オペラの練習のときにピアノの伴奏をつけるだけではなく、歌手への指導をする仕事のことである。
「オペラかぁ。テノールってこっちの話聞かないし、自己愛が強いから全員嫌いなんだけどさ、君はどう?」
「ひとのことはよぉく見えるんですね。全員可愛いですよ」
「は?どういう意味」
春崎は、柚木の仕事仲間である間宮のことも一応調べていたので、彼がこの京峯で大学院まで出ていることを知っていた。
柚木は国立の芸術大学の音楽部を中退しているから、学士すらないということになるが、間宮は博士号を取得している。
柚木はここへ、マスタークラス──ヴァイオリニストを目指す学生のための公開レッスンを行いにやってきたのだった。
京峯音大の校舎は演奏会や試験を行うためのホールをいくつも備えていたが、その中で一番大きいホールで、マスタークラスはひらかれる。今回は入場制限があるため、抽選で当たった人間のみ、客席で見学することができる。
彼らがそのホールにやってきたとき、ホールは無人だった。マスタークラス開始までに、まだ時間がある。
ステージ中央付近に、念入りに調律されたアメリカ製のグランドピアノがひとつ鎮座しているだけだ。
「来年の大河ドラマについて、”予言”してあげるよ」
ステージの上でヴァイオリンを取り出しながら、柚木は言った。
まだ公開されていない来年の大河ドラマの主人公が誰なのか、柚木は間宮に囁いた。
「本当?どうして?」
「すべてのことには理由がある。予言なんてあり得ない……春ピコ。」
柚木に命令され、春崎は躊躇いながら、鞄から書類を取り出した。
これは外部の人間にはまだ絶対に見せてはいけない類のものなのだが、柚木にとって間宮は“外部の人間”に含まれていないようである。
「……これ、あなたが弾くんですか」
書類は、楽譜だった。
来年の大河ドラマのオープニングテーマ、ソロ・ヴァイオリンのパートの楽譜、そしてそれを支えるオーケストラの総譜だ。協奏曲のような体裁をとっている。
「昨日届いたばかりなんだ」
「弾いてみました?」
「少しね」
間宮は総譜にざっと目を通しつつ、片手間でピアノの蓋を開けた。
オーケストラの総譜というのは、フルート、トランペットなどの管楽器、1stヴァイオリンからコントラバスまでの弦楽器、ティンパニなどの打楽器に至るまで、すべてが同じ時間軸で読めるように書いてある。
指揮者が見ているのと同じものということになる。
「音源はあるんですか」
「ない」
クラシックであれば過去に録音された音源を聴き、どんなふうにオーケストラパートと合わせるか、ソリストは一度は勉強することになる。
が、新しく書き下ろされた曲の場合は、その音源はないことが多い。
「なら、いま少しやってみようか。あなたがそうしたければ」
柚木はそれに、わくわくした様子で頷いた。柚木は間宮のこういうところが気に入っているのだ。
テンポはどれくらいかな、と言って弾き始めた間宮に、春崎は舌を巻いた。
オーケストラの総譜を見て初見でそれを弾く、ということができるピアニストは限られている。ピアノは一台でオーケストラの役割がすべてこなせる楽器だとは言うが、すべての音をピアノ一台、ピアニスト一人で弾けるわけがない。
だから、特に重要な音だとか、曲に欠かせないメロディを、原曲の雰囲気を残したままで弾く必要がある。そうでないと、ソリストはそれに乗って弾くことができない。
音楽を、自分のところまでたぐり寄せるのに苦労する。
春崎は、音大に通っていたとき、そう感じたことがあった。トロンボーンのレパートリーをさらうときもそうだったが、副科で必修だったピアノを練習するときに、それを強く感じた。
間宮も実は内心苦労しているのかもしれないが、その苦労が短く、外からは見えない。
例えば中が見えない箱の中に手を入れて、その中身がなんなのか、触り心地で素早く判断する。
積み木なのか、ペンなのか、猫なのか。積み木ならどんな形なのか、ペンなら何を書くべきなのか、猫ならどう触ればいいか。それをできるだけ早く正確に判断するのが初見の技能なのだ。
渡された知らない総譜をすぐ読んでピアノで弾いたことは春崎にはないが、その難しさは想像できる。が、間宮はあくまで端正に弾いた。
大判の譜面を度々めくる間宮を見て、春崎は駆け寄り、譜めくりを手伝った。
間宮は、春崎に向かって、ありがとうという意味で頭を動かした。
「ああ、これはこういう曲なんだ。いいね!」
波にうまいこと乗るようにして、柚木のヴァイオリンが響いた。きらきらと発光して輝くような音色だと春崎は思う。人とは違う。
柚木の音色というのは、その人生も音楽も、十分に謳歌しようという輝きを放っている。
曲は、一年を通して放送されるドラマのオープニングに相応しい、雄大で活発なエネルギーを持った曲だった。耳に残る激しい旋律と、うねる水流のようなオーケストラ。
オーケストラの間奏のところで、柚木は左腕につけた腕時計型の電子デバイスをもぎ取り、それをどうしようか迷った末に間宮のジャケットのポケットへと押し込んだ。
演奏しているうちに邪魔になったのだろう。
春崎はそれを見て、自分が預かるべきかもしれないと思ったが、間宮はべつに嫌がらず、演奏を続けた。
「この曲、あなたによく合っている。悪鬼羅刹みたいなところもあって」
一曲を通して弾き終わると、間宮は満足そうに楽譜の一番表のところ、タイトルが書いてあるところを眺めてそう言った。
「あっきらせつだって?」
「……化け物とか妖怪とか、人に悪さをする鬼みたいなこと」
「いや意味は分かってんだよ、おい」