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二章


「暇だしさぁ。この隙に山でも登っとくか」
「ダメ。危険だから」
「一緒に登山やらない?」
「やりません」

 柚木は前から登山に興味があるらしい。間宮はそれに対し、頑なにやめろと言った。

 春崎は二人の会話を運転席で聞いている。

「あーあ。こんなことになるんだったら、ぼくも医者になっとくんだった!そうしたら世間に邪険にされないばかりか、ありがたいと言われるんだ」
「ちょっと」
「不要不急だなんだって、じゃあ音楽なしで一生暮らしてみろという話しだよ」
「そういうことを人前で言わないように」

 あんまりな言いようだと、間宮が柚木のことを止めた。今一番大変なのは、医療従事者だ。

 柚木だってこの状況は仕方がないことだと本当は理解しているのだ。春崎は何も言えず、ハンドルを握りながら笑っている他になかった。

 春崎は、実は地方の音大を卒業している。トロンボーン専攻だった。しかしそれで食っていくことはできないと諦めて、卒業後すぐに別の仕事を探した。正社員にはなれなかった。

 柚木や間宮のようにそれ一本でやっていける人間は多くはない。しかも彼はトロンボーンである。

 ピアノかヴァイオリンか、広く需要のある楽器を専攻していたなら、と考えたこともあったけれど、ピアノやヴァイオリンは競争が激しすぎて、そもそもどこかの音大に入れるかどうかさえ怪しい。

 腕がいいとか、ただ上手いとか、それだけでは歯牙にもかからない世界だ。
 
「一体どれくらいの音楽家が自殺か、飢え死にしたんだろうね。そうでなくともずいぶんな数が辞めたんじゃないのか」

 柚木はそう言った。
 
 自分は、この時代まで音楽を引っ張らなくてよかった。そう春崎は思っている。どうにかやってきたとしても、ここで、もう無理だっただろう。相当な実力がなくては……いや、実力があっても、この状況では生業として続けられない。

 2021年の今現在は、一時期よりは活動ができるようになってはきたが、2019年後半から2020年までを切り抜けることができなかっただろうと思うのだ。

「これで辞めるようなら、どうせいつか辞めているよ」

 間宮がそう呟いたので、春崎は内心ぎょっとした。”そういうこと言っちゃう!?”と思った。

 春崎は、音楽にあらかじめ見切りをつけていた。無理だろうと思っていた。
 しかし、そうではなく、音楽への情熱があるのにも関わらず、社会がこうなってしまったことを受け、金銭的な理由で音楽から離れた人間のことは痛切に想像できる。自分よりきっとつらかったはずだ。


 春崎は、柚木のことは嫌いではない。むしろ好きだ。
 彼の軽快さというのは、モーツァルトのソナタのようで、楽しくもある。別に嫌いにならない……モーツァルトに憎しみを抱く種類の人間であれば、もしかすると柚木のことも嫌うかもしれないが、春崎はその例に当てはまらなかった。

 柚木は、ネットの掲示板にスレッドが立つほど、ファンが多ければアンチも多い。高圧的な言動や、意味不明な我儘といった問題行動も、柚木のウィキペディアではなくそこを覗くと垣間見ることができる。

 もちろん全てが真実だと春崎は思わないが、柚木のマネージャーに就く前にはそこもチェックしている。

 春崎は未だ上下関係が濃いとされる管楽器出身で、中学校から吹奏楽部にも属していたから、“高圧的な態度を取る歳上”には耐性がある。いなし方も覚えている。しかし、間宮のようなタイプにはなかなか関わりがない。

 柚木は有無を言わせぬ強引なところを除けばかなりフレンドリーだし、明るく、気さくだ。彼は歳を重ねれば重ねるほど、この人は歳やポジションの割に気やすい人だな、と思われる。

 が、間宮は、若いときには随分大人っぽい、と思われていただろうが、歳を重ねるごとに、こわい人だなと思われやすくなる。物腰はあくまで柔らかで上品ではあるが、厳格で冷たい感じがするのだ。

 柚木は、 “ヴァイオリンがあんなに上手いのにこんなに話しやすい”。間宮は、”こわい上にピアノが上手くて近寄りがたい”。音楽の素養が真逆に働いている。

──順ちゃんはね、“間宮様”なところがあるんだ。金に困ったことのない高等遊民野郎なんだよ。でもね、その実お世話好きで情深い、献身的な男だからさ。

 柚木は春崎にそう言った。金に困ったことのない高等遊民野郎ということについては、春崎にも察せられたが、情深いということについては、まだ春崎は発見できていない。

 間宮は、春崎から見て、時代はずれなほどシックな男だった。”演奏家たるもの、こういう人物であるべき!”。物静かで思慮深く、生まれつき金持ちな人間だ、という固定観念を具現化したような男だ。

 柚木は間宮とは正反対なので、この二人が長い間一緒にやってこられたという事実が、春崎には意外に思えた。

「春ピコは?音大出たあと、プロオケに入ったりしなかったのか」

 春崎邦彦というのが春崎のフルネームである。柚木は、春崎と会った初日から、春ピコと呼ぶ。
 春ピコ、と間宮がふしぎそうに復唱するのが聞こえたが、柚木はそれを意に介さなかった。

「オケはどこもみんなコネです。まともなオーディションやってないっすよ」

 オーケストラに入れる連中というのは、事実として春崎よりも上手かった。

 しかし、上手いだけでは入れなかった。オーディションはごくたまに開催されるものの、コネクションがものを言うというのは、本当のことだ。

 実力が及ばなかった、けれども、そんな音楽界に嫌気が差した。そうまでして、やりたいと思えなかった。どちらも春崎の真実なのだ。


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