二章
2021年、春。
──まさか、こんなことになるとは。
間宮はマスクの下でため息をついた。
感染症は世界を席巻し、圧倒した。人類はそれに負けはしなかったものの、未だ勝ってはいない。永遠に勝たないかもしれない。エンターテイメントや音楽は隅に追いやられ、見向きもされなくなった。
しかし間宮は、少し安堵している。世の中は最悪とは言わずとも、それに近いような状況ではあるが、間宮の想像した最悪のことは起きなかったからだ。
柚木だけがステージに立てなくなるのではなく、ほとんど全員が立てなくなってしまった。まだこれでよかった、なんて人の前では口が裂けても言えないが、それが間宮の本心だった。
「柚木さんってバリ霊感あるっスね!!!」
世相に合わない、からっとした明るい声を出したのは、春崎だった。
柚木の今のマネージャーである。2019年の年末に間宮に電話をかけてきたマネージャーの次が、この春崎だ。
彼は感染症の影響で前職を失い、金がないために事故物件のアパートに住み、柚木のマネージャーに就いている。若く、元気な青年だ。
春崎のおかげで、間宮は運転せずに済んでいた。今は後部座席で車に揺られているだけでいい。
別の場所にいる柚木をピックアップしてから、目的地に向かう予定でいる。
「そういうことは、彼の前で言わない方がいい」
柚木は、人とは違う。才能の面で人と違うということは柚木自身が認識していたが、それ以外の部分でも人とは違うということを、間宮は柚木に話した。
柚木がヴァイオリンを紛失し、そしてヴァイオリンが戻ったあのコンサートの後に、やっと話すことができたのだ。
「そうなんすか?勉強になります!でもとにかくですね、柚木さんがウチに来たときに、ここに人がいるって言って聞かないんですよ。俺一人暮らしなのに」
「柚木さんから、春崎くんは大家に言わずに同棲しているって聞いたけど」
「違います一人暮らしで!」
「女性がいたと言っていたよ」
「……一人暮らしです」
「そう……」
柚木には感じられることが、人には感じられないことがある。
基本的にはそういう話だけれども、柚木は自分の世界を絶対として生きており、相変わらずオカルトに対して嫌悪感をもっているため、自分の感覚こそが普通だと考えている。
柚木は、間宮の言葉だから少しは聞く姿勢を見せたが、内心はちっとも受け入れていない。
そして、おかしいと言われればいらつく──傷つく、かもしれない。彼はオカルトについて嫌な思い出がある。
何はともあれ、春崎は柚木に気に入られている。柚木が家にまで行くだなんて、これまでのマネージャーでは前例がない。
車は待ち合わせの場所で停まり、柚木を待った。
「柚木さんの相手は大変かもしれないが、基本的に彼を尊重してさえいれば、そうおかしなことをしでかしてくることはない」
「ホラゲの呪われた神社みたいっスね」
「彼は神社と寺と、教会が苦手だ。行くと気分が悪くなるからだって」
「え?それ柚木さんが悪霊ってことじゃないすか」
そのとき、コンコン、と車の窓が鳴った。やってきた柚木が叩いたのだ。
彼が腕につけている腕時計型の電子デバイスの小さな画面が、陽光を反射して光った。
彼は春風のようなミントグリーンの薄いコートを着ていた。ドアを開けてどかっと後部座席に腰を下ろし、元気そうだね、と柚木はマスク越しに言った。
間宮は眩しそうに目を細めた。ヘリオスの入った銀のヴァイオリンケースは、助手席に安置された。