二章
2019年、末。
間宮のもとに、柚木のマネージャーから電話が掛かってきた。秋元ではない。秋元は随分前に辞めているので、新しいマネージャーだ。
「どうにかしてください、間宮さん」
その人間は、切羽詰まったような、疲れたような声で間宮に訴えかけた。
柚木が何かをしでかしたか。あるいは、しでかそうとしているか。その二つに一つだ、と間宮はあたりをつけた。
「来年のコンサートを、白紙にすると言っているんです」
柚木のスケジュールは、ずっと先まで決まっている。ソロリサイタルから、交響楽団との共演、レコーディング……どうやってこなすのかと心配になるほど、国内海外問わず、柚木は盛んに活動しているのだ。
来年の中ごろには、国立の交響楽団とヴァイオリンコンチェルトを予定していたはずだった。
「柚木さんが急に言い出したんです」
「何か理由があるのでは」
「ありません!ただの気まぐれです」
マネージャーは電話口で叫んだ。間宮は首を傾げ、空を見た。
柚木はプロだ。理想的な性格をしているとは言いがたいし、自信を隠さないものだから高圧的だし、色々な理由があったにせよ三回離婚をしているし、欠点を挙げればいくつも思いつく。
しかし、何の理由もなく、周囲の人間に迷惑をかけてやろうとして、我儘を言い出すとは考えづらい。
「間宮さん、柚木さんのことを説得してください。お願いします」
マネージャーがよく変わるし、なんならすぐに離婚するし、今や間宮が一番柚木との付き合いが長い。
だから、間宮のところへこういった仕事が回ってくるのだ。
間宮は、時間を見計らって柚木へと電話をかけた。
夕飯を食べた後、ヴァイオリンをさらって、なんとなく一度休憩を挟む時間はこれぐらいだろうと推測して電話をかけたところ、すぐに柚木は出た。マネージャーは柚木が電話に出ないと嘆くけれど、間宮の方法を取れば成功率は高い。
生活パターンを観察して推察してやれば、ちゃんと電話に出てくれるのだ。柚木の方では、『順ちゃんから、なんとなくいいタイミングでかかってくる』と思っているかもしれない。
「想像がつかないんだ」
なぜ、来年のスケジュールを白紙にしたいだなんて言い出したのか。間宮がそう問いかけたところ、柚木はそう答えた。
「……想像はですね、誰にでもつかないものですよ。普通は」
「何も考えられないし、どうなるかもわからないんだよ。そんなことある?」
「来年のことは、当然誰にも……未来のことがわかる人なんていません。でも、スケジュールは立てないと。あなたのファンをがっかりさせることになる」
間宮は説得を試みたが、柚木はいつになく嫌がった。
けれども、理由を聞いても嫌だの一点ばりで、なんともふわふわしている。態度が強硬な割に、根拠が薄かった。
「あなた、どこか悪いんですか」
「はあ!?頭が!?」
「違うよ。健康に不安があるとか。何か長期のプランで向き合わないといけないことがあるとか」
あまりに柚木の説明に理由づけが薄いので、間宮は、柚木が何か隠しているのではないかと疑った。
柚木も間宮も、学生の頃のように若くはないし、健康診断で何か見つかってもそうおかしくはない。
「あなたの説明だと、そんなふうに心配になる」
間宮がそう言うと、柚木の語気は弱まった。
芯から、あなたのことを考えている、そう示すと、柚木だって態度を和らげるのだ。
「だって……」
「いい?柚木さん。あなたが嫌がっているのに、ステージに引っ張っていくことは誰にもできません。最後には、あなたの意に沿うかたちになるでしょう」
「うん」
「正直に話してほしい。おかしいとは言わないから」
「これを言ったら君はもっと不安になるかもしれないけど」
「はい」
柚木はそれでも躊躇った。間宮は、柚木のことを辛抱強く待った。やがて柚木は、決心したように言葉を継いだ。
「来年の特に後半、ぼくはステージで弾いているという感じがしない」
間宮は、どういうことですか、と掠れた声で聞き返した。
「ぼくが弾いていないなんてあり得ないだろ。だからぼくは、怪我とかで弾けないか、あるいは」
「……」
「君が言ったとおり、早死になのかもしれない」