一章
間宮はこの辺りを走っているタクシー会社に片っ端から電話をかけて、ヴァイオリンの落とし物がないかどうか調べるつもりでいた。
その前に柚木にメッセージを送って、一昨日の夜はタクシーで帰ったでしょう、と確認したが、柚木が読んだ様子はなかった。
電話をかけ始めてわずか二社目で、ヴァイオリンの落とし物がある、というタクシー会社を見つけた。
間宮は、それは柚木力の所有物だということ、自分は柚木のコンサートの関係者であるということを説明した。
「じ、事故……?」
タクシー会社は、ヴァイオリンの落とし物があった車は、社の駐車場に帰還する前に事故にあったと伝えた。
「それは……無事なんですか」
ひょっとすると、ヴァイオリンではなく運転手のことを無事かどうかまず心配してみせるべきだったかもしれない。
が、間宮はヘリオスのことで戦々恐々としていた。
『はい。傷ひとつありません』
「そうですか。ええと、運転手の方は」
『命に別状はありません、この度は申し訳ございませんでした。こちらからお電話すべきでした。先ほど運転手の意識が戻ったものですから、確認が遅れまして』
「いいえ、こちらこそ、大変なときに」
そもそもヘリオスを置いていったのは柚木だ。しかし電話口の相手は何度も謝った。
このタクシー会社の運転手が動画を配信したことについても謝っていた。どうやら、柚木の許可を取らずに投稿サイトで公開してしまったようだ。
柚木は酔っていたし、性格から考えて、誰に見せてもいいよ、投稿しなよ、という意味の言葉を言ったのかもしれないし、そもそも進んで撮らせたのは柚木かもしれない。とはいえ運転手は職務中だった。
『すぐにお返ししたいんです。今すぐ。どちらにいらっしゃいますか。伺います』
電話口の相手は言った。声が震えていた。
ホールの楽屋口は、正面入り口とは反対の場所にある。タクシー会社の社員がヴァイオリンを今すぐに戻しにくると言うので、間宮はそこまで出て行くことになった。
間宮は何度も柚木の携帯端末に電話をかけ、メッセージを送ったのだが、どのメッセージも読まれた気配がなく、電話にも出なかった。柚木は弾くことに没頭するとこうなる。
間宮は何日も待たされることがあるので、今回も気にはしていない。柚木が数あるリハーサル室のうち、どのリハーサル室を使って練習しているのか分からなかったから、結局は間宮が楽器を受け取ることになった。
柚木のマネージャーの秋元にも連絡を入れたが、もしよければ間宮がヘリオスを受け取ってほしいという返事がきた。
秋元は柚木のことを怖がっているらしいのと同じように、ヘリオスのことも嫌がっているのかもしれない。
あるいは何かの仕事で手が離せないだけかもしれないが、なんとなく秋元はこの仕事を辞めるのではないかと間宮は感じた。
「わざわざありがとうございます」
間宮は言った。
本当に急いで来た、という感じだった。タクシー会社の社員は、慎重に車から紙袋を運び出してきた。
その中には見たところ清潔そうなバスタオルに包まれて、生身のままのヘリオスが居た。
白い大判のタオルに包まれたヘリオスのことを、間宮は、まるでミイラのような扱いを受けているなと思った。
しかしヴァイオリンに縁がなければ、ヴァイオリンケースなどそうそう持ち合わせているものではない。
間宮が紙袋を受け取ると、青ざめた顔のタクシー会社社員はそれでもほっと息をついた。
「持ち主である柚木に、すぐに渡します」
「お願いします」
「事故があったとか。どんな事故だったんでしょうか」
「ええと……」
その社員は口ごもった。間宮は何も言わないで、できるだけ柔らかな雰囲気で微笑んでいることを心がけた。そうすると、やがて社員は言った。
「ハンドルが勝手に動いたそうです」
その社員は間宮にそれを告げてよかったのか、よくなかったのか。とにかく申し訳ありませんでしたと言って、その人間は帰って行った。
雪は降り止んでいたものの、外気は非常に冷えていた。