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一章


「まあ、響き自体はいいと思うけどね。ただ、ピアノ向きという気はする」

 このホールを気に入っているか、と聞いた間宮に、柚木はやや憮然としてそう返した。

 日本のホールはピアノがよく響くように作ってあるものが多い。このホールや思い出について話す気はなさそうな柚木に、間宮は黙ってAの音を出し、チューニングをするよう促した。


 結局ヘリオスは見つからないまま、コンサートの当日になった。

『これって一体、何の罪に問われるんだ』

 間宮は心の中で嘆いた。

 彼は道徳観や倫理観が崇高な方ではないものの、罪悪感をもたない人間ではない。自分の名前のサインよりも、柚木力の名前のサインをする方が慣れていることについて、彼は時折嫌気が差す。

 柚木が自分のC Dに添えるはずのサインを、間宮に肩代わりさせて書かせることがあるのだ。今回もそうだった。

 二人は控え室で膨大な量のC Dを相手にしている。サブスクリプションやダウンロードが主流の今日、人が物質的な音盤を求めるときには理由がある。

「詐欺罪かな」

 柚木も、見たところ怠けずにどんどんサインを書いていく。

 この調子だと、C Dを手にした客が柚木自身のサインを手に入れる可能性と、間宮が書いた偽造サインを受け取ってしまう可能性は五分五分といったところだろう。

「これが露見したら、柚木さんに強要されて断れなかったと言います」
「言わなきゃバレない」
「疑われたら、絶対にあなたのことを売るからな」

──秋元さんがコンサートまでに書いてくださいって言ってるんだ!ぼくのことを助けてくれよ!

 と、柚木は間宮に言ったけれども、柚木のマネージャーである秋元は真面目に仕事をする人間なので、おそらく余裕をもって柚木にC Dを渡していただろうと間宮は勘ぐっている。

 サインを偽造することは言語道断ではあるが、百歩譲って考えてみると、やはりこれはマネージャーがやるべき仕事のように間宮には思える。

「秋元さんに頼めばいいんです」
「秋元さんはぼくのサインを真似られない。ペンの持ち方から似せようという気がない」
「真似させようと試したことはあるという……」
「音楽は、真似することから始まるんだ、わかるだろ?それが音楽の最初の訓練さ。愛があればきちんと見て、真似できる」

 柚木のマネージャーはころころ変わる。原因は多くあれど、サインを偽造させようと迫ってくるアーティストのマネージャーを務めるのは大変だろう。

 間宮は自分の右手と、柚木の右手とを交互に見た。柚木は筆圧が強く、サインペンの先は潰れてしまう。だから自然と、今間宮が使っているサインペンの先も潰れている。
 書き方を、真似しているからだ。

「大事にしないとダメですよ。マネージャーさんのことも」
「君のことを大事にしてるみたいに?」

 これが“大事にしている”?サインを偽造させるこの状態が?間宮は柚木に呆れたが、柚木はそれに対して肩をすくめただけだった。

「ぼくが君のことを大事にできるのは、君がぼくのことを大事にしてくれるからだ」

 柚木のことを大事にしないなんていうことが、できるだろうか。間宮にはできないのだ。
 同じように、マネージャーの秋元にもできないことや理解が及ばないことはあるのだろう。

「秋元さんは、ぼくのことをきちんと見ようって気がないんだよ。ぼくのことやたらこわがってる」
「柚木さんのハラスメントに曝されているから……」
「そうじゃない。」

 柚木はきっぱりと首を振った。その否定は、 “ハラスメント”の部分にかかっているわけではなかった。
 キュッ、と音を立て、柚木の持ったペンがもう一つサインを産み落とした。彼は目を上げなかった。

 二人はその後、黙々とサインを続けた。十分ほどが経った頃、柚木の手が止まっているのを見咎めて間宮が柚木の方を見ると、柚木はちらっとヴァイオリンケースを見たところだった。

 もちろん、彼の気を引いたのは銀色のケースではなく、中身の方だ。今は”博貴”がその中にいる。

「弾いてきたら?」

 間宮はそう言って、柚木の手からCDと、ペンを奪った。昨日もずいぶん弾いていたけれど、慣れない楽器だから無限に弾いていたいのだろう。

 どうしてぼくの思ったことがわかったの、愛情深いね、これが強要されている人のすがた?だとかなんとか言い、柚木はヴァイオリンケースを手に、跳ねるように出て行った。

 ここからは本物の柚木力のサインと、偽造の間宮製サインは、五分五分の割合ではなくなった。間宮は無心でペンを使っていった。
 
 間宮がそうしていると、間宮の教え子から携帯端末へメッセージが届いた。間宮は一般的なピアノのレッスンもしているし、伴奏についてのレッスンも行っている。

『先生、これは柚木力さんですよね?』

 そんなメッセージに添えられたリンクを間宮が開くと、それは三十秒までの動画が投稿できる配信サイトだった。

 このサイトは、間宮の教え子くらいの年齢の子たちが、熱心に見たり投稿したりしているけれども、間宮はよく知らない。

『K-POPでも日本の歌手でもアニソンでも、なんでも言ってみなよ!』

 動画を開いてみると、そこにはご機嫌そうな柚木がいた。酔っている。彼はヴァイオリンを持っていた。ヘリオスである。背景は、よく見るとタクシーの車内のようだった。

 柚木は、タクシー運転手に向かって、なんでも好きな曲を弾いてあげると言っている。

 なんでもと言ったとおりなんでもその場で弾いてみせる柚木のことが視聴者には面白いようで、たくさん再生されているようだった。
 それがどの程度群を抜いて再生されているのかは、間宮には分からない。この人は柚木力という人だ、というコメントも何個かあった。

 間宮はペンを投げ出すようにして立ち上がった。

 柚木は、ヘリオスを紛失した夜、タクシーで帰ったのかもしれない。この動画がその夜に録られたのであれば。
 そうしたら、いくら駅に電話をしても見つかるはずがない。


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