一章
「”柚木力は暴力的で品がない。この伝統あるコンクールを勘違いしている”だってさ」
二人の才能あるヴァイオリニストが死力を尽くして争った結果、一方は一位を手にし、もう一方は二位に入った。
柚木はこのコンクールを準優勝で終えたのだった。柚木と間宮は、とりあえずということで酒を飲んでいる。
「”ファイナルでは、二人のヴァイオリニストはどちらもオーケストラから尊敬をもって迎えられた”とありますよ」
「そりゃあそうだろ。どうして軽蔑されるんだ」
「本心がどうあれ、あいつが気に入らないと内心を示してしまうようでは、二流というほかないですからね」
「なに?前のコンクールのコンマス審査のこと当てこすってんの?非常にムカつくんだけど」
柚木と間宮は、このコンクールのことを書いた記事を読んでいた。
いい加減なものから、ある程度信頼の置けるものまで有象無象の記事がある。
「“彼の弾くシベリウスが特に素晴らしかった”……。やっぱり」
「シベリウス好きだなぁ、順ちゃんは。あ、君のことを褒めた記事もある」
「本当?」
「”伴奏も難しい新曲を見事にやりきって、どんな曲も一人で器用にこなす。特筆に値する”」
「そうですか」
「なんだよもっと嬉しそうにしろよ!」
柚木は呆れたようだった。彼は、コンクールの結果について落ち込んではいなかった。
間宮は長いコンクールを駆け抜けたことで正直疲れていたが、柚木に疲れは見えない。とにかく元気な男だ。
「ぼくはもうコンクール、やめようと思う」
柚木は言った。
「二位でもいいとか、負けてもいいとか、そういうのは今もないけど。”二位でも誇りに思う”という意味はわかった。今までは全然、それがわからなかったんだ」
「はい」
「相手が相手なら、自分が二位でもつらい気持ちにはならないよ。そういうのを知ったら、コンクールは終わりにしてもいい」
「そう」
「順ちゃんはコンクールが好きだろ。だから、君には悪いけど」
間宮は、意表を突かれた気分になった。
優秀な演奏者の中でもコンクールに向いている者、そうでない者がいるに違いなく、柚木はコンクールに向いていた。
が、間宮がコンクール自体のことを好きかどうかという話は、今までにしたことがない。
間宮は、自分の内面を向いて一度考えた。争ったり、闘ったりすることが好きか。
好きかもしれない。しかし、自分自身がソロのピアニストとしてコンクールに出ることが好きなわけではない。名誉も欲しくはなく、彼自身が広く認めてもらう必要もない。
「柚木さんのことを自慢するのが好きでした」
「自慢?……同じ日本人だからってこと?」
「いや、自慢っていうのとは少し違います。うまく言えないけど」
間宮は、柚木のことを大衆に見せることが好きだった。柚木がいかに優れていて、素晴らしいのかを知らしめることが好きだった。
それをうまく言葉に出来ず、また、出来たとしても言わないでおこうと思った。だから彼は話題をそらした。
「イギリス音楽院の教授になることが決まっているそうですよ。ステージや、リサイタルをやっていこうという気はないんだとか。教育をしたいんだそうで。人柄が偲ばれる」
今回優勝したヴァイオリニストについてのことだ。このヴァイオリニストは、演奏家になる気はないのだ。
「そう言っていたね」
「話したんですか?」
「一言だけ。”君はいいプレイヤーになるでしょう”って言われた」
──それは失礼なのでは?
間宮はそう思った。間宮の心の声は柚木に伝わることはなかった。
間宮は、イギリスのヴァイオリニストからも、優れた才能を感じる。
けれども、演奏自体があまり好みではない。伴奏者にきちんと配慮し、オーケストラともうまくやる、人格だってしっかりしている。
が、どうにも好きになれない。気に触る、に近かったけれども、その表現は優秀な演奏者に対してあんまりな言いようであることは、間宮はよく分かっている。
「もっと向こうと話そうかと思ったけど」
「……話せばいい。話が合うでしょう」
間宮は言った。柚木と件のヴァイオリニストの間のことは、間宮には知ったことではない。興味を持たずにいるべきだと思う。
「いやだよ。……嫌われるかもしれない」
「はあ?」
「だってぼくは暴力的で品がないんだろ。向こうはちゃんとしてる。嫌われるよ」
「そんなの前からでしょう」
柚木は誰とでもすぐに距離を詰めようとする。柚木のことを好きになってくれそうだと見るや、すぐに友だちになってしまう。
その彼の無遠慮さは、誰に嫌われようが構わない、もっと言うと、誰にも特に興味が無い、という気持ちの表れなのだ。彼がこのような素振りを見せるのは、初めてこのことだった。
柚木は、本当に大事だと思うときにだけ、ためらうのだ。
「どうでもいい。知りません。勝手にやってくれ」
柚木とそのヴァイオリニストに、その後の親交があったかどうかは、間宮には預かり知らぬところである。