一章
柚木が一曲目に選んだのは、エルンストの“魔王”だった。シューベルトの歌曲である魔王を主題としたこの曲は難曲として知られる。
ヴァイオリンを構えるなりいきなり魔王を演奏し出した柚木と、最初の曲にバッハを選んだイギリスのヴァイオリニストとの打ち出し方の違いを、聴衆は早くも発見することになった。
似ているから優劣がつかなかったのではない。違うから、判断できなかったのだ。
間宮は柚木が弾くところを、ステージ上のピアノの椅子から見ていた。
この曲は歌曲がもとになっているが、ヴァイオリンでの編曲の場合、ソリストは伴奏部も歌の主旋律も一人でこなさなくてはならない。
人は極めて優れると、天使ではなく悪魔、邪悪へと近づいていく。
柚木は人外のように弾いている。眩しいライトの中で、柚木の頬が上がっているのが見えた。笑っているのだ。柚木のこれは誰に注意されても直らなかった癖だ。
さっきまではあんなにしおらしかったのに、と間宮は思うが、これでこそ柚木なのだ。
取り憑かれたような魔王を終え、柚木は一度、間宮の方を振り返った。
さっきまでの邪悪さはなんだったのかと思うほど、普通の顔をした柚木がいた。間宮はA、ラの音を出し、柚木はそのピアノの音程に合わせてチューニングを行った。ヘリオスの音がピアノの音に沿うように鳴った。
舞台に歩いて行って、一番最初の曲をすぐさま弾き出したいということで、ピアノに合わせたチューニングはこのタイミングに回したのだった。
柚木と間宮は同じタイミングで息を吸い、そして、ドヴォルザークの”ロマンティックな小品”が始まった。
魔王とは打って変わり、伸びやかだったり、軽やかだったりし、次のラヴェル、”ツィガーヌ”ではきらきらとしたピアノとのびのびとしたヴァイオリンが響いた。
間宮は、ラヴェルのことも、柚木のこともやはり特別に好きだと思った。柚木も、この曲のもつ自由さと情熱を愛しているだろう。
なんだかこの曲自体が柚木に似ているのだ。
次は柚木らしく、サラサーテのカルメン幻想曲だった。
サーカスのよう、と言われても、彼はなんら困ることも、辟易することもない。人を唖然とさせるような技巧と、悪魔めいた愛嬌と華やかさが光った。
ラストに、柚木はシベリウスの協奏曲を選んだ。冒頭部分は、”極寒の澄み切った北の空を、悠然と滑空する鷲のように”、とシベリウスが言ったという。
冷たく凍った大気を切り裂いていくような旋律は、ホールも通り抜けてどこか遠いところへ駆けたがっているようだ。
難しい技巧を見せつけるのではなく、そんなところはさも簡単かのように終えてしまって、音楽としての本分が必要な曲だ。
柚木がこの曲を選んだこと、しかもラストに選んだことが間宮は嬉しかった。彼の黄金の音色、彼のシベリウスが好きだ。