一章
間宮は、舞台裏で柚木の背中を見た。
ヘリオスを顎に挟んで、弓を持った腕はぶらりと下げて、壁の方を向いていた。何を見ているのかと間宮は柚木の視線を追ったが、コンクリートの壁があるだけだった。
柚木は、ファイナルで着ていた暗いグレーのジャケットではなく、深いブルーの燕尾服に身を包んでいた。
その色味は、今、通路の暗がりで見るぶんには黒に近い濃紺だけれども、ライトが当たればはっきりと青に見えるだろう。コンクールの最中にいる、コンテスタントにしては派手だ。が、彼にはとてもよく似合っている。
『ドレスなら試験でも予選でも赤だの青だの許されてるのに、どうしてぼくの着るものは黒しかダメなの』。
柚木とそんな話題について話したことがあったなと間宮は思った。
別に駄目なわけではない。間宮は駄目とは言っていない。黒じゃないんですか、とそのとき間宮は聞いただけだった。
真っ黒の燕尾服だって、レッドの衣装だって、万人が着たらいい。が、間宮にそうされたように、『あれ、黒じゃないんですか?どうして?』と聞かれるそのことに柚木は納得いっていないらしかった。
間宮は今も、伝統を重んじるコンクールなのだから、演奏外で波風を立てないよう黒にすればいいのではないかと思う。批判される要因を作ることは得策ではない。
だから理解ができなかったが、柚木がそう言うなら、柚木の言い分を尊重することにしていた。
柚木が集中しているのを邪魔しないよう、間宮が息を殺していると、柚木が急に振り返り、言った。
「負けると思う」
間宮は言葉を失って聞き返した。
「どうしてですか。また、根拠はないんでしょう」
「相手が特に優れてるから」
言い切った柚木は、今度は理由を探すための時間を必要としなかった。
「あなただって特に優れているだろ!……何を言わせるんだ何を」
「あんなふうに弾くのがどんなに大変か」
柚木はその次の言葉を継がなかったけれど、間宮はその次に柚木が何を言いたかったのか推測した。
おそらくは“君には分からないだろ”、とかなんとか言うつもりだったのではないか。善良に振る舞ってほしいという約束を、柚木はあくまで守ろうとしているらしかった。
間宮は音楽に携わる者として、分かる、といえば切々と打ち寄せるように分かる側面もあるし、あくまでヴァイオリンの経験がないので分からない、という面もある。
あるいは、柚木のようではないから。間宮は、柚木と一騎打ちすることになった、相手のヴァイオリニストのようではないから。
間宮は優秀だと言われたことならあるし、音楽大学でも成績は上等だったけれど、神童だったこともなければ、これから神になる予定もない。
間宮の知る限り、柚木と相手のヴァイオリニストが言葉を交わした場面はなく、これまで面識もないようだった。
しかし、この二人の人間は深いところで繋がっている。“どんなに大変か”、この二人ならば分かるに違いない。
「理想というのは、自分とまったく違う人のことを言うんだ。ぼくにとっては相手の演奏のほうが、理想に近い。だってぼくはあんなふうじゃないから」
──彼の演奏には、特別に心惹かれる。堂々としていて、類稀なほどパワフルで、反発も気にせず正直でいることに誇りをもっているから。できれば柚木力のようにやってみたかった。
相手のヴァイオリニストが柚木についてそう言ったという記事を間宮は読んだ。おそらくは、相手も柚木のような気持ちでいたのではないか。
しかし、だから?一体、だからなんだというのだ。自分に足りないもの、生来欠けているものを見つめて、それを一生恋しく思う。
対立しているものはそもそも同居できないから、分離しているというのに。
「そんなの、面白くもなんともない。本当にどうでもいい。興味もない」
間宮は言った。
彼の中にあるのは、憤りか怒り、悲しみ、あるいは笑い出したくなるような可笑しさかもしれなかった。
恋着というのはくだらない。柚木がそれに足を取られるのも気に食わない。間宮はなぜか傷ついていた。ひどいと思った。
「相手のヴァイオリニストだけど、いい人ぶっていてむかつく。演奏もおとなしくて気に食わない」
「そういうことは言わないほうがいいって、君、いつも言うのに」
「私はあなたのほうがすきだ。世界で一番だ」
柚木は反射的に何かを言い返そうとして口を開き、そのまま呆気に取られたように間宮のほうを見た。
ホールの客席で、審査再開を知らせるブザーが鳴った。
長い審査だから、相手のヴァイオリニストと柚木の審査の間で休憩が取られていたが、客はブザーを聞いてぞろぞろと席へと戻ってきていた。
前の演奏の余韻と、新しく始まる柚木の演奏への期待が渦巻いている。客席を埋める彼らは才能を感じたくて、頂点を争う二人の決着をその目で見たくて、そして、音楽を聴きたくてそこにいる。
柚木の名前がコールされた。国籍は日本、二十五歳。
「あのさ」
ステージは煌々と照らされ、舞台袖の暗がりから見ると眩しく、間宮は目を細めた。
彼の前に立つ柚木の輪郭がきらきらと金色に輝いて見えた。
「一曲目は無伴奏だけど、板付きでね」
無伴奏のときは伴奏者が舞台に出ている必要はないが、一曲目から二曲目の間に時間が空いて集中を妨げられるのが嫌だから、一曲目から間宮もピアノの前に座るようにしてほしい。そう柚木から聞いていた。だから、改めて間宮にそれを言う必要はないのだった。
何か言いあぐねてこんなことを言ったのだろうということは、間宮には分かっていた。間宮は柚木のために待ち、何も返さなかった。
やがて柚木は言った。
「ぼくのことを信じる?」
この世には、間宮の分からないことがたくさんある。
間宮は柚木ではなく、ヴァイオリニストでもない。おかしな霊感のようなものも、ない。
柚木と分かりあえる、特別な才能に恵まれたソリストでもない。けれども少なくともこの場では、柚木力のためのたったひとりの伴奏者である。
「信じます。あなたが信じなくても。あなたが苦しんで、嫌がってもね」
「いい結果にはならなくても?」
「そんなのどうでもいい」
勝とうが負けようが、そんなことはどうでもいい。
初めからどうでもいいのだ。曲の始まりから、幾多のパッセージを駆け抜け、コーダの向こう、終止線までゆく。
柚木は孤独だが、ひとりではない。
間宮は言った。
「私の期待に精一杯応えてください。ちゃんと一緒にいて、たすけますから」
柚木は、夢見るみたいにぼうっとして、それから、“君って異様な力があるみたいだ”、とつぶやいた。
間宮が聞き返そうとする前に、彼はステージへと歩を進めた。