一章
柚木が楽しいに違いないと予言したファイナルは、しかし波乱の展開になった。
七人のファイナリストたちがそれぞれ審査のときを迎え、採点のすべてが終わったとき、首位が二人いたのである。
柚木と、もう一人はイギリス国籍のヴァイオリニストだった。
こんなときはどうしたらいいのか。
一つ目は、一位無しの二位を二名とし、しかし最優秀賞を二人ともに授与する。
二つ目は、もう一日日程を延ばしてこの二人のみの審査をし、審査員全員の投票で優劣をつける。
この場合、翌日に控えていたはずの優秀者演奏会の日程を一部潰して行う。コンクール側の提案はこの二つだった。コンクールは柚木とそのヴァイオリニストに諮った。
そのヴァイオリニストは言った。
『争わないで済むなら、もう争いたくない。自分たちや他の人たちの演奏会の日程を潰してまで優劣をつける必要はない。一位ではなく二人とも二位でも、十分誇りに思っている』。
間宮は向こうのヴァイオリニストがそう言っていると聞き、相手の人格の良さに思いを馳せた。
柚木と同い年ながら、感じの良い、柔和で礼儀正しい人間のようだった。
そのヴァイオリニストの演奏は柚木とは違うけれど、素晴らしかった。綿密で、強靭さやタフさが感じられるものの優しく、気品がある。ベーシック。
だが四角四面のままで終わらせない魅力があり、誰もがそのヴァイオリニストのことを応援したくなる。
間宮は、“さて、柚木さんはどう言うだろうか”と予想した。
「嫌だね!ぼくと争ってもらう」
柚木ははっきりとそう言い、間宮は胸のすくような思いで笑った。柚木が言った言葉は、間宮の予想した通りだった。
「向こうも、本心からこれで終わりにしたいとは思っていないはずだ」
「他人の弾く演奏の機会を潰してまで、優劣をつける必要はないと言っていますよ」
「そう言わなきゃいけなかったからじゃない。コンクール歴を見ても、競い合うことが嫌いじゃない人だと思う。あの人、そういう言動をまわりから期待されるタイプなのかもね」
「そうかな。なんでそう思うんです?話したことがある?」
「演奏を聴いた感じ」
聴いた感じ、でそんなところまで分かるものなのだろうか。少なくとも間宮には分からない。
柚木はというと、間宮にそれ以上説明するのを放棄したようだった。
こうして行われることになった一位決定審査は、実際のコンサートのようにたくさんの客を客席に入れてのリサイタル審査になった。
優秀者演奏会を聴きにきた人たちも、まだヴァイオリン部門の審査が終わっていないと聞いて興味津々で席につく。
異例なことだったので、日本の柚木力はどうだとか、イギリスのヴァイオリニストはこうだとか、多くの記事が書かれた。まともな記事もあれば、無責任な記事もあった。
曲目は、このベルギー国際で弾いたもののうちからそれぞれが弾きたいと思う曲を選び、一時間半から二時間のプログラムにする。
予定外の“延長戦”だから、オーケストラを従えて弾くことはなく、すべて無伴奏か、ピアノ伴奏付きで行う。
演奏順は籤で決められ、柚木はイギリスのヴァイオリニストが弾いた後に演奏することになった。
相手が演奏している間はリハーサル室で練習したり、控え室で休んでいたりするところだが、彼は相手の演奏を聴くと言った。間宮は、自分が柚木の立場なら客席で聴くのはよすだろうと思った。
相手は、バッハの無伴奏パルティータから始めた。
しんと静まり返った客席に厳粛な音色が流れ出す。非常に落ち着いていて、浮き足だったところのない、意志のしっかりとしたバッハだった。上手い下手以上のものがある。
とてもナチュラルで、実直だった。いやなところがなく、隠すところのない善さを感じる。
次の曲はショパンの夜想曲だった。
たっぷりとした情感が伴って、聴衆はそれに聴き入った。ピアノ版を原曲とする夜想曲には伴奏がついており、新曲を伴奏したのとはまた別の伴奏者が演奏していた。
このヴァイオリニストは、リサイタルプログラムの最後をブラームスの協奏曲で終えた。
オーケストラパートを弾くピアノとソロが調和していて、互いに邪魔をすることもなく協力し、共存して世界を作っていた。
ヴァイオリニストはすべての演奏を終えると、客席の観客、そしてコンクールに感謝の意を表し、舞台を去っていった。