一章
「あ」
ヴァイオリンケースをぱかりと開いた彼は、声をあげた。あ。小鳥がそこの枝にとまってる。
「また弓を忘れたとか言うんじゃないよな」
二人は今、あるホールの楽屋にいた。ヴァイオリンを弾くことを仕事にしている柚木には、弓を忘れて現場入りした前科がある。
間宮は、まさか、と思って聞いたのだが、違うと柚木が答えたのを聞いてほっと息をついた。
そんな、まさか。彼だって大人だ。仕事道具の弓を忘れるなんてそんなこと、そう何回も起きていいはずがない。
あのときだって大変だったのだ。楽器屋を回り、二人で駆けずり回って弓を本番までに調達したのだった。
間宮はピアノ伴奏を専門としている伴奏者である。
そのときも、今回も、柚木のヴァイオリンに伴奏をつけるためにいる。弓を調達するために奔走すること、これは明らかに職務内容に含まれていない労働にあたる。
「いや、弓はある」
「それはよかった。よかったとか言うのも変ですけど」
「楽器がない」
「は」
「ヴァイオリンが。昨日酔っ払ってどこかへ置いてきたのかも」
冗談は、パガニーニも叩き伏せるヴァイオリンのテクニックだけにしてほしい。
間宮は、柚木が嘘だよ、ふざけただけだよ、と言って笑わせてくれるのを待ったが、柚木はいつまで経ってもそう言わなかった。間宮はふっと気が遠くなりかけた。
「順ちゃん大丈夫?」
「大丈夫なわけあるか!!あなたが大丈夫じゃなくなれ!あの楽器がいくらするか……!あの名器がどんなに、芸術的歴史的な価値がどれだけあるか!ていうか明日は!?どうするんですか。コンサートは!?漫談でもして二時間過ごすつもりか?楽器を持たずに来るヴァイオリニストが一体どこにいるっていうんだ!」
「あの楽器がいくらなのか、詳しくは分からないな。スイス銀行から生涯貸与されてるんだ」
「そんなのは知ってる!!コンクールで一位をとって貸与されたんだろうが!よく知ってるんですよ!た、貸与されているものを無くすな!!あなたのせいでスイスと日本の関係性が悪くなって外交問題に発展し……少なくともこれからは年若い演奏者が素晴らしい楽器を得る機会は永遠に失われ……そうじゃない!明日はどうするんですか明日は!」